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函館市とどほっけ村

法華宗の日持上人にまつわる伝説のムラ・椴法華。
目の前の太平洋からのメッセージです。

大間原発と町内会

2011年10月20日 13時46分04秒 | えいこう語る
14日の、北海道新聞の切抜きを昨夜読んだ。
「各自核論」というコーナーに「社会における表現」と題し、作家の星野智幸氏が、9月に行われた東京での脱原発6万人デモに参加した様子を、書いてある。
『一般参加のコースは、初めてデモに参加しているらしき年配の方々や家族連れが多く、シュプレヒコールもなく、ただ黙々とのんびり散歩しているようだった。私にはそれが新鮮であり、心地よかった。デモは声を張り上げることだけが表現ではない。人間の集団そのものの存在感がその表現力の確信だ。ありきたりなスローガンをいかにもデモっぽい口調で連呼するよりも、押し黙って大量の人が歩いていることの表現力のほうが、ずっと強い。なぜならそれは見慣れない光景だからだ』
参加した人たちは、今回の福島第一原発事故の放射能漏れで、人間としての自分に向き合ったのであろう。
言葉で表さなくても、多くの同じ考えを持つ人々が集まり、ある方向を目指し進むことにより、より強いエネルギーを放出できる事をそこに感じたのであろう。
この記事を読み、ある映画のシーンを思い出した。
戦争で亡くなった大勢の兵士の亡霊が集合し、行進する様である。「俺たちはなぜ死んだしまったのか」と叫ぶが、生きている人にはその声は聞こえない。
静かにデモに参加する人々が言葉を発しなくとも、今回の大震災で犠牲になった多くの人々の声が、私たちには聞こえてくるのである。
それは「この国をよくしよう」とする、国民の声なき声なのだ。
このうねりが今の日本には必要なのだろう。
※昨日釣った渡り蟹。水平線の向こうには大間原発がある。
「我泣きぬれて蟹とたわむる」。そうはなりたくないものである。


函館の対岸に建設中の大間原発反対の署名、47,494人分が集まった。その内訳で函館市民は21,000人分だけだ。これは原発反対派の団体が行ったものである。
北海道新幹線が開通すると、北斗市に新駅ができるが、そこから函館までの在来線が廃止になる。それについての存続書名を、函館市町会連合会で実施したが、11万もの署名が集まった。
4月の市連合町内会総会の席上、私の第一声だ。
「安心安全な暮らしを守るのが町内会のあり方だ、市民向けの原発勉強会を開催するべきだ」との申し入れが許可された。
後日連合会長にはその想いを書面で送ったが、やっと11月に重い腰を上げ、開催の運びとなるようだ。
函館市民28万人。まだ署名に参加していない人の声なき声を、大きなうねりに変えることができればと願う。
団体から反対署名を報告された函館市長は「建設再開なら市は訴訟も考え、検討に入った」と発言した。
連合町会の動きはかなり遅いが、町内会が社会問題に関心を持って行動した時、それは函館市をより住みやすいものにしようとする、大きなうねりの第一歩になるに違いない。


昨夜は最高!

2011年10月19日 13時03分38秒 | えいこう語る
昨日ワンコイン・ワインのことをブログに書いたが、またワインにまつわる内容だ。
昨夜、天皇陛下も食事をしたという、日本でも屈指の老舗洋食屋「函館五島軒」で、スペイン料理店「バスク」の30周年記念パーティ-があり、出席してきた。
オーナーから電話があり、仮装パーティーのような感じなので、よろしくという。
オーナーは知り合いなのだが、バスクには一度も食事に行ったことがないのだ。
函館は人情味豊かな街だ。友だちの友だちは皆友だちだという感じが好きだ。
会場は歴史的建造物が保存されている、景観が美しい西部地区だ。
函館は明治から昭和20年までに、27回の大火に見舞われている。そのつど函館市民は決してくじけることはなく、今の美しい街並みを作り上げてきたのだ。
そのことに敬意を表し、昔消防団が着た「刺し子」という、えらく重い半纏を着て出かけたのだ。
因みに私の曽祖父は「椴法華消防組・初代組頭」なのだ。
キャ!ステキという黄色い声がかかり、記念撮影などパチリ。
しかし、私に近寄る女性は、なぜか年増が多い。その理由は、子供の頃近所のお姉さん方に遊んでもらい、育ったからだと思う。それに、東京も豊島区に住んでいた。まあ、そんな程度の理由であるが。
久しぶりの顔もずいぶんいた。その友だちがまた誰かを紹介してくれる。そうやってドンドン仲間が増えていくのが函館なのである。
祝辞を述べたのは、高田屋嘉兵衛の7代目の嘉七さんだ。こんなことが日常にあるのが歴史と文化の街函館である。
ステージでは様々なパフォーマンスが繰り広げられる。圧巻はアルゼンチンタンゴの踊りだ。男性は函館の眼鏡屋の若社長、女性はイタリア人美女だ。


バスクなのになぜアルゼンチンなの、と思ったらいけない。函館は開港都市である。すべてのものを受け入れる度量を持った街なのだ。
参列者の中に4月に落選した前市長の顔も見えた。Tさんががなにやら親しそうに話していたので、内容を聞くと「落選してしょげていたので、慰めていた」という。函館は人にやさしい街でもある。
立食パーティーだったが、市内の有名洋食店や寿司屋、ワイン店などの出店コーナーがあり、満足度200%だった。
以前からソムリエと知り合いになりたいものだと願っていたが、ワイン店主でありソムリエでもある、Wさんとも知り合いになれた。
ところで、見知らぬ美女と話すコツを習得できたので、ご披露したい。
「ワインいかがですか」と美女に話しかける。
すかさず「みんなには内緒だけど、ソムリエから聞いたのだけど、このワイン1本1万円だそうです」・・・。
女性は笑顔でグラスを差し出すのだ。
というわけで、真夜中までたらふく美味しいワインを飲んだ昨夜でした。


ワインとパン

2011年10月18日 11時39分34秒 | えいこう語る
天然昆布漁が終わり,アルバイト料が支給された。
今年は昆布の収穫が少なく、満足した仕事ができなかったので内心気落ちしていたが、大船頭は太っ腹だ!
「冬のウニ漁とナマコ漁もよろしく」といい、新米1袋を持ち帰らせてくれた。
米など貰うと、大相撲で優勝した様な気分になり、相当うれしいものである。
漁の時は何かと妻にも世話になったので、多少のお小遣を渡した。
妻はそれで、以前から欲しいといっていたパン焼き器を、通販で購入した。
今流行の「ごぱん」ができる高価なものではなく、至ってシンプルなものだ。
身体にいいからと小麦粉に胚芽を混ぜているので、田舎パンという風情がありとても美味しい。
「この出来映えなら、半年もしたらパン職人といわれそうだね」と持ち上げる。まんざらでもない顔をする妻。
ワインといえば、北海道は池田町のワインが有名だ。


昭和30年代後半に、日本は牛肉の消費が拡大すると狙いをつけた当時の丸谷町長、ヨーロッパへ職員を派遣し、葡萄栽培とワインの醸造を学ばせた。
池田町は町おこしの先駆的自治体である。私がワインを好きになったのは、そんな理由からである。
しかしワインは高価だ。酒飲みの私はどうしても量に走る。その悩みを解消してくれたのがベルギーに住む、高校時代の悪友Kである。
ヨーロッパでは、一般的に飲むのは数百円程度のものだという。
ヨーロッパに憧れる私は、それで踏ん切りがついて、以前からワインを購入していたコンビニで、胸を張ってワンコイン・ワインを購入することになった。
ところがこの北海道生まれのコンビニ「セイコー・マート」が、全国のコンビニの中で「顧客度満足NO1」に選ばれたのだ。
札幌が本社のこのコンビは、前身は酒屋だ。他の店と違いワインに力を入れていたのは感じていた。
その社長の名前に見覚えがあり後で調べたが、なんと、池田町の丸谷町長のご子息だったのである。あの親にしてこの子ありである。
当時ヨーロッパに派遣された職員は、後に町長になる大石さんである。
町おこし研修会で、池田町を訪れた時、町営レストラン「池田ワイン城」の支配人をされていた。
閉店時を過ぎていたが、美味しいワインとステーキをいただいた。BGMが止まっていたが、私が「この雰囲気はクラッシックが似合いますね」というと、笑顔でそうですねと、音楽も添えていただいた。
「丸谷町長から、おまえが職員の中で一番酒が強いから派遣を命ずる」といわれたと、笑って話してくれたのが、今でも鮮明に記憶に残る。
久しぶりに池田町の赤ワインを購入し、妻の作ったヨーロッパの田舎風味のパンを味合った。
大石氏はすでに亡くなられていた。
町長就任後一度お会いしたことがあるが、北海道大学で講師を勤められているというのも聞いた。ヨーロッパのオシャレな雰囲気を漂わせていた、知的な大石氏、学生たちに“アンビシャスの精神”を講義したに違いない。
そんな思い出にひたりワインを飲んでいたら、とどほっけ村も、なんとなく地中海の海岸風景のように、素敵に思えてきた。
ワインは上品な酔い方をさせてくれるようだ。


縄文との対話

2011年10月17日 10時51分34秒 | えいこう語る
健忘症というのは、文明の進歩と共に長寿社会に移行する、ある時点から出た症状なのではないだろうか。
昨日、私は二度目だが、妻が見ていないので、隣町の縄文文化センターに行ってきた。
健忘症のことを考えたのは、縄文の展示物を鑑賞しながら、ふと思い出したことがあるからだ。
実は、この時間は函館市内で開催される、原発問題の講演会に参加する予定でいたのを思い出したからだ。
縄文人は、私の年齢の半分しか寿命はなかったはずだ。健忘症などあの時代にはなかったのではないかと、考えさせられたからだ。
私が縄文世界が好きなのは、縄文は私に何かを問いかけ目覚めさせてくれるからだ。
原発は今、電力会社の「やらせ問題」がクローズアップされている。
経済行為のなかった縄文社会には「やらせ」などという卑劣な言葉など必要なかったはずだ。縄文は現在人の魂を浄化させてくれる効果がある。そこが私が魅かれる最大の理由でもある。
私が縄文おばさんと勝手に呼んでいる、ベテラン説明員のNさんと親しく会話する。Nさんと私の会話は、共に縄文人になりきっての話だ。
死んだ子供や、親の足型をかたどった粘土板が展示されている。
それについては「形見」という言葉は、このことから来たのではないかという説に、お互い納得したりするからだ。Nさんとは顔なじみの妻も何かしきりに話している。
お互いおばさん同士の会話だ。「来場者が大勢で疲れるでしょう」という、現代語での会話に違いない。
随分前のことだが、私がある人を介し、この地区の遺跡発掘の責任者であるAさんを紹介していただいた。
初対面にもかかわらず、私の拙い質問に答えてくれた。私はその日から縄文入門の扉を開けてしまったようだ。
そのAさんが、このセンターの館長である。
ここまでこぎつけた努力、さらには世界遺産の登録への先鞭をつけたAさんに祝辞を述べた。
なにやら、カメラを持った報道関係の方が動き出し、館の入り口付近に人が集まりだした。
10月1日の開場から、1万人目の来場者だという。


私たちは、その9,990何番目かの来場者ということになる。ちょっぴり残念だったが、縄文は「君は私たちの仲間だから、はずれなさい」と、いっているような気がした。
今朝の新聞にその記事が出ていた。
函館市の隣、北斗市から訪れた6人家族で、9歳になる男の子が1万人目となった。
な・なんと!その名は「口川林作君」という。
林を作るなんて、まるで縄文の子供のようではないか!
「口川」とは私「川口」の反対である!縄文も粋なことをするものである。
こんな偶然と妙な新鮮さが、縄文の計り知れぬ魅力なのである。


柳ジョージさんのこと

2011年10月16日 12時39分46秒 | えいこう語る
私と同じ1948年生まれのロック歌手、柳ジョージさんが10月10日に亡くなった。
10月10日といえば、我々世代にとっては決して忘れはしない、東京オリンピックの開催日だ。ジョージさんの命日としては、ぴったりなような気がする。
ジョージさんと私の関係?を、ちょっと思い出してみた。


ジョージさんは横浜生まれで“浜のジョージ”だ。
私は漁村生まれの同じく“浜のジョージ”だ!?
実は私には、ニックネームがいくつかある。
ジョージ川口という名ドラマーから、“ジョージ”というかっこいいニックネームもあるのだ。たぶん口喧しいから、音がうるさいドラマーと同じだという意味なのだろう。
私の店、サーフ・サイドは、村のはずれにある。過疎の漁村にしゃがれ声のジョージさんの歌は、ぴったりだ。私の村では「塩辛声」とも言う。
雨降りの大時化には、店を早く閉め音量を大きくし、ジョージさんの歌に聴き惚れていた。
勿論そんな時はウイスキーのストレートだ。
漁村にジョージさんの歌が合うのは、ジョージさんがハチマキをすると、とても似合うという親近感があるかもしれない。ゴムカッパの似合うロック歌手だと思う。
函館に来た時、妻と二人でコンサートに出かけたことがある。妻はそれ以来ジョージさんのフアンなった。
私がジョージというニックネームで呼ばれていたことを、妻には話したことがない。「浜でも浜違いでしょう」といわれるのがオチだからである。
そんなわけで美味しいウイスキーを飲む時の、BGMを受け持ってくれた柳ジョージさん、ありがとうございます。
最もとどほっけの漁村の風景に似合った歌手でした。そして天国からまた素晴らしい歌を聴かせてください。
サーフ・サイドでは、ジョージさんに哀悼を表し、BGMを当分の間流します。