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函館市とどほっけ村

法華宗の日持上人にまつわる伝説のムラ・椴法華。
目の前の太平洋からのメッセージです。

作家・荒俣宏の講演会

2011年10月14日 11時30分27秒 | えいこう語る
昨日「全国産業観光フォーラムINはこだて」の、記念講演を聞いてきた。
後援には、国土交通省・経済産業省・観光庁・日本商工会議所が名を連ねている。以前、国土交通省には「全国半島フォーラム」というのがあったが、名称を変えてその種のフォーラムが継続されているのだろう。
会場は各地から集合しているのだろう。1,000名を超えると思われる参加者だった。予算の出所は知るよしもないが、函館の経済を一時潤す、明るい日にはなりそうである。
作家荒俣氏の開港都市函館にまつわる、歴史的視点が興味深い。


函館の篤志家渋田利右衛門が、若い時の勝海舟の読書好きに目をつけ、金200両を与え、渋田が死んだ後も、勝のパトロンになる人物を渋田が紹介していたのは、始めて知った。
無血開城の立役者勝海舟の影には、函館人がいたのである。
明治維新という時代の変革期、そこを乗り越えるのは人の力である。
人を育てることが大切だというのは、いつの世も変わらぬマチづくりの基本のようだ。
函館は北前船で栄えた町である。北前船の寄港地には遊郭の存在があるが、私たちは地元ゆえ?遊郭の実情の詳しいことは知らなかった。
また函館は海に囲まれている地形から、大火の多い町でもあった。
遊郭が大火で消失し、遊郭の場所を移動しながら、中心街は現在の駅前周辺へと移動する。遊郭と北洋漁業が廃止されてからは、商店街は五稜郭方面へと移動していく。駅前周辺の繁華街を「大門」と呼ぶのは、遊郭があったからである。函館はそんな町並みの変遷がある。
函館戦争で幕府側の負傷者を看病した、高松稜雲とう医者の存在は歴史好きの市民ならよく知っている。
その病院は、後に遊女たちの健康管理をしたという。
当時の函館市の税金の86%は、病院と遊女からのものだったというから驚きだ。
ところが函館は私たちが物心ついいた昭和40年あたりから、妙に健全都市になったような気がした。
当時若者だった私たちでも、港町の割には風俗の規制が多すぎるのではないか、などと会話したのを記憶している。
その後キャバレーの灯が消えたと同時に、港町函館の輝かしい歴史が終焉を迎えたのを、私たちはとても淋しく想い、酒を飲むたびに懐かしむのである。
話は取り留めのないところに行ってしまったが「女性が作った港函館」そんな視点で、街の歴史を探ってみたら、エネルギッシュなマチづくりのヒントがあるのではないかと、勝手に想像してみる。
「誰が掘る?!函館の埋蔵金~まちの魅力の再発掘マル秘テクニック」という長いテーマの、興味深い基調講演だった。