日持上人、その後の活躍でございます。
当時、蝦夷ガ島は、未開の土地でございます。
道を開き、橋を架け、各地で法座を開き、獅子奮迅の働きをいたします。
その間に、各地に多くの経文を書いた石や、仏像など、後世、この尊い教えの光が、必ずや、世を照らさんことを祈り、埋蔵いたします。
後に、この地の領主でありました、小林太郎左衛門良景がこれを発見、後生庵と名付けたお堂に、発掘した経石と、仏像を安置いたしました。
これが今日の、日持山妙應寺という、日持上人が、蝦夷ゲ島上陸の地、下海岸石崎町にある、お寺でございます。
写真 日持山妙應寺

日持上人、さらに教えをひろめるため、下海岸を北上いたします。
急峻な崖が、行く手を阻み、土地の人たちのご協力を得まして、磯舟で海岸を進みます。
ある、朝早くの事でございます。尻岸内(シリキシナイ)という、集落に着いた、時のことでございます。
これまでの、狭い海岸線にない、広々とした、美しい海岸に、思わず心を奪われ、腰を下ろしておりました。
その時でございます。東の水平線より、真っ赤な朝日が、ゆっくりと昇り始めます。
この世のものとも思われぬ美しさ、昇る朝日に向かい、一心不乱にお題目を唱え、布教の決意もあらたにいたします。
後にこの浜が、日の出の美しさより、日の浜と呼ばれるように、なったのでございます。
その、日の浜についたのは、ちょうど、五月も末頃のこと、だったのでございます。
日の浜の海岸から、北の方角に目をやれば、白煙たなびかせ、山肌もあらわ、噴火の跡を残す、なにやら、霊験あらたかな、全山真っ赤に染まる、不思議な山が見えます。
日の浜地区から恵山を望む。五月末には、ツツジで山が赤くなります。

なぜこの山は赤いのだろうと、日持上人、山に登り、確かめることに相成ります。
山の頂につきますと、なんと山一面に、真っ赤なつつじが咲き誇り、その周囲には、数百種とも思われる、高山植物が自生していたのでございます。
あまりの美しさに感激をし、これこそ大自然の恵みの山だと、山の麓に住む人々に伝えたところ、恵みの山から、後に恵山となりました。 つづく
当時、蝦夷ガ島は、未開の土地でございます。
道を開き、橋を架け、各地で法座を開き、獅子奮迅の働きをいたします。
その間に、各地に多くの経文を書いた石や、仏像など、後世、この尊い教えの光が、必ずや、世を照らさんことを祈り、埋蔵いたします。
後に、この地の領主でありました、小林太郎左衛門良景がこれを発見、後生庵と名付けたお堂に、発掘した経石と、仏像を安置いたしました。
これが今日の、日持山妙應寺という、日持上人が、蝦夷ゲ島上陸の地、下海岸石崎町にある、お寺でございます。
写真 日持山妙應寺

日持上人、さらに教えをひろめるため、下海岸を北上いたします。
急峻な崖が、行く手を阻み、土地の人たちのご協力を得まして、磯舟で海岸を進みます。
ある、朝早くの事でございます。尻岸内(シリキシナイ)という、集落に着いた、時のことでございます。
これまでの、狭い海岸線にない、広々とした、美しい海岸に、思わず心を奪われ、腰を下ろしておりました。
その時でございます。東の水平線より、真っ赤な朝日が、ゆっくりと昇り始めます。
この世のものとも思われぬ美しさ、昇る朝日に向かい、一心不乱にお題目を唱え、布教の決意もあらたにいたします。
後にこの浜が、日の出の美しさより、日の浜と呼ばれるように、なったのでございます。
その、日の浜についたのは、ちょうど、五月も末頃のこと、だったのでございます。
日の浜の海岸から、北の方角に目をやれば、白煙たなびかせ、山肌もあらわ、噴火の跡を残す、なにやら、霊験あらたかな、全山真っ赤に染まる、不思議な山が見えます。
日の浜地区から恵山を望む。五月末には、ツツジで山が赤くなります。

なぜこの山は赤いのだろうと、日持上人、山に登り、確かめることに相成ります。
山の頂につきますと、なんと山一面に、真っ赤なつつじが咲き誇り、その周囲には、数百種とも思われる、高山植物が自生していたのでございます。
あまりの美しさに感激をし、これこそ大自然の恵みの山だと、山の麓に住む人々に伝えたところ、恵みの山から、後に恵山となりました。 つづく
広島では平和の語り部がおいでになりますが、椴法華にも日蓮宗の中興の祖といわれる人が誕生しそうですね。
数年前、奈良を旅行したとき天理教の人に天理教の宿舎のようなところに泊めていただいたり朝のお祈りに参加させていただいたりしました。
奈良の都を訪ねまわるにつれ、どうしてすぐそばに天理教がおこり栄えたのか私なりに納得できたようなきがしました。
続きを楽しみにしています