『新潮45』9月号の猪瀬直樹さん(作家・東京都副都知事)のインタビュー記事を読んでいて、次のくだりが印象に残った。
「日本列島は昔から各地で地震、津波、台風、洪水、噴火といった災害に見舞われてきた。今回また、あれだけの巨大地震と津波を経験したことで、この国の歴史は常に自然災害と共に刻まれてきたということが、日本中で改めて認識されたと思います。
もちろん、津波や洪水が多いというのは、ある意味では恵みです。「瑞穂の国」という言葉がありますが、水が豊富だからこそ田畑は潤い、稲も育つ。でもそれは洪水や地震と隣り合わせの土地でもある。
百人一首に、清少納言の父、清原元輔の「契りきな かたみに袖をしぼりつつ末の松山 浪越さじとは」という歌がありますが、あの歌は、貞観十一年(八六九年)に東北地方を襲った巨大地震、貞観地震を踏まえています。「末の松山」というのは、仙台湾から内陸に2キロほど入ったところにある多賀城市の寶国寺の裏山の松。多くの人命を奪ったであろう貞観地震の際の津波も、「末の松山」の高台までは届かなかったことから、「どんなに波が荒れても、末の松山を波が越えることはない(ように、お互いの気持ちも変わらないと約束したはずなのに)」と詠っている。今回の震災でも陸前高田の松林は壊滅状態でしたが、「末の松山」は津波を逃れました。
(写真は記事とは別のもの)
都で恋の歌としてこの歌が詠まれたのは、貞観地震のおよそ百年後です。どんな大災害も、一世紀も経つと文化になる。日本特有の無常観や死生観といったものも、そうした災害を通して培われてきたのでしょう。北海道から沖縄まで、日本列島に住む我々は、そういう文化を共有する一つの共同体なのだという認識が、今回の大震災によって再発見されたと思います。」
実際は、「末の松山」を多賀城市に比定する積極的根拠はなく、宝国寺の裏山の松とするのは、後代に作られた遺跡かもしれないという説もある。また、清原元輔の歌は、先行する『古今集』(延喜五年905年第一次成立)巻二十の歌「君をおきてあだし心をわが持たば末の松山波も越えなむ」(東歌・読人知らず)を踏まえて表現しているので、そのことについては触れておかなければならない。
ただ、「末の松山」は、単にありえないことのたとえとして引き合いに出される歌枕(和歌に詠まれる名所)ではなく、実際に大津波にも流されなかった松という、災害の象徴として人々に記憶されていたものかもしれないという気はする。「末の松山」がしばしば悲恋の象徴となるのも、古来大きな地震のたびに津波の被害が発生した三陸地方の、様々な悲劇や惨事の記憶が人々の意識の底に沈殿していたからかもしれない。
それにしても、もし末の松に心があったならば、大地震があった後の津波の被害や世の騒ぎ、人々の悲嘆や動揺を見聞きして、どれほど心を痛めたことであろうか。
いにしへの末の松山 大地震(おほなゐ)の後の嘆きをいかに聞きけむ
「日本列島は昔から各地で地震、津波、台風、洪水、噴火といった災害に見舞われてきた。今回また、あれだけの巨大地震と津波を経験したことで、この国の歴史は常に自然災害と共に刻まれてきたということが、日本中で改めて認識されたと思います。
もちろん、津波や洪水が多いというのは、ある意味では恵みです。「瑞穂の国」という言葉がありますが、水が豊富だからこそ田畑は潤い、稲も育つ。でもそれは洪水や地震と隣り合わせの土地でもある。
百人一首に、清少納言の父、清原元輔の「契りきな かたみに袖をしぼりつつ末の松山 浪越さじとは」という歌がありますが、あの歌は、貞観十一年(八六九年)に東北地方を襲った巨大地震、貞観地震を踏まえています。「末の松山」というのは、仙台湾から内陸に2キロほど入ったところにある多賀城市の寶国寺の裏山の松。多くの人命を奪ったであろう貞観地震の際の津波も、「末の松山」の高台までは届かなかったことから、「どんなに波が荒れても、末の松山を波が越えることはない(ように、お互いの気持ちも変わらないと約束したはずなのに)」と詠っている。今回の震災でも陸前高田の松林は壊滅状態でしたが、「末の松山」は津波を逃れました。
(写真は記事とは別のもの)
都で恋の歌としてこの歌が詠まれたのは、貞観地震のおよそ百年後です。どんな大災害も、一世紀も経つと文化になる。日本特有の無常観や死生観といったものも、そうした災害を通して培われてきたのでしょう。北海道から沖縄まで、日本列島に住む我々は、そういう文化を共有する一つの共同体なのだという認識が、今回の大震災によって再発見されたと思います。」
実際は、「末の松山」を多賀城市に比定する積極的根拠はなく、宝国寺の裏山の松とするのは、後代に作られた遺跡かもしれないという説もある。また、清原元輔の歌は、先行する『古今集』(延喜五年905年第一次成立)巻二十の歌「君をおきてあだし心をわが持たば末の松山波も越えなむ」(東歌・読人知らず)を踏まえて表現しているので、そのことについては触れておかなければならない。
ただ、「末の松山」は、単にありえないことのたとえとして引き合いに出される歌枕(和歌に詠まれる名所)ではなく、実際に大津波にも流されなかった松という、災害の象徴として人々に記憶されていたものかもしれないという気はする。「末の松山」がしばしば悲恋の象徴となるのも、古来大きな地震のたびに津波の被害が発生した三陸地方の、様々な悲劇や惨事の記憶が人々の意識の底に沈殿していたからかもしれない。
それにしても、もし末の松に心があったならば、大地震があった後の津波の被害や世の騒ぎ、人々の悲嘆や動揺を見聞きして、どれほど心を痛めたことであろうか。
いにしへの末の松山 大地震(おほなゐ)の後の嘆きをいかに聞きけむ