夢かよふ

古典文学大好きな国語教師が、日々の悪戦苦闘ぶりと雑感を紹介しています。

『ミック・カーン自伝』

2012-09-11 19:50:11 | JAPANの思い出・洋楽
「パフォーマンスするアーティストの多くは観客の崇敬を受けることで大きな満足を得るのだが、その心の動きは子供の頃に両親や同年代の友達から十分な注目を得られなかったことに起因している。これは僕が気づいたことなのだが、子供の頃に病気や度重なる引っ越しなどで強制的に一人にさせられた経験を持つアーティストが相当数存在する。一人でいるしかない時間を経験した子供は、長く付き合える友達を作ることができなかったり、自分の居場所が見つけられなかったり、気持ちを伝えることができない大人になることが多いのだ。そして、その代償として周囲からの崇敬が必要になるのである。僕の場合も、そういう要因が想像力をかき立てるモチベーションとなっている。これはもう自分にとって絶対に必要なことになってしまったようだ。」

この本を読んで、一番印象に残ったのが、この言葉だった。「自分をさらけ出せない僕は、感情のほとんどを表に出さないほど心のガードが固い」というのも本当に意外で、常に自信に満ちあふれているように見えるステージ上の姿からは想像できない言葉だった。

昨日の記事を書いたときには、まだこの本を最後まで読んでいなかったのだが、意外な、あるいは衝撃的な事実が次々に出てきて驚いた。

ジャパン最後のスタジオ録音アルバムとなった『錻力の太鼓』(1981)では、彼らの中国への興味を前面に押し出しており、『カントン』『ヴィジョンズ・オブ・チャイナ』『カントニーズ・ボーイ』といった曲名だけでなく、歌詞やサウンドにも随所に中国趣味が表現され、アルバム・ジャケットは、人民服を着たデヴィッド・シルヴィアンが毛沢東の肖像がかかった部屋で、お米のご飯を食べようとしている写真、というところにもそれが表れている。

この中国への関心は、当時ミックの恋人であり、他のメンバーとも親しくなり彼らを感化して「5人目のメンバー」ともいうべきポジションにあった日本人女性、フジイ・ユカが中国趣味にかぶれたのが、全員に感染したらしい。ただ、フジイ・ユカは、ジャパンが「いい意味で周囲の期待を裏切る変化を遂げる」ことを可能にした存在である一方で、バンドの分解の原因にもなった。

1981年、アルバム発表後のツアー初日を翌日に控えて、デヴィッドが突然、「自分がデザインを手伝った舞台のセットの出来が、思っていたのと違ったから」という理由で、土壇場でのツアーキャンセルを宣言する。激しい議論の挙げ句、ミックたちは、2年ぶりのツアーを楽しみにしていたファンを裏切れない気持ちから、舞台セットをあきらめる代わりツアーを行う方を選ぶ。ミックは憤懣やるかたなく、デヴィッドに「他人と協調できないヤツと一緒にバンドは組めない」と最後通告を投げつけてしまう。

ところが、ミックがユカに愚痴をこぼしていると、ユカはその言葉が終わらないうちに、「あなたがツアーに出かけている間にここを出て行き、デヴィッドのところに引っ越す」と言ったという。親友だった男と、恋人の両方から同時に裏切られた衝撃は、どれほどのものだったろう。


…この本を読み終わった後では、やはりデヴィッドへの見方は変わらざるを得なかった。そして、ミックがデヴィッドのソロ転向後の音楽活動について、その時々のマイブームを反映させたものに過ぎない、と辛辣な言い方をしているのは、かなり当たっていると思った。ソロ3作目の『シークレッツ・オブ・ザ・ビーハイブ』(1987)までは素晴らしいと思い、夢中で聴き、翌年のコンサートにも行ったが、その後は次第についていけなくなり、『ブレミッシュ』(2003)『マナフォン』(2009)などはCDを買っても、最後まで聴き続けられなかった。やはり、ジャパンというバンドで、異質な個性がぶつかりあっていたからこそ、優れた楽曲が生まれていたのだと思う。

この本を読んで、ミックが「ベースは僕と外の世界をつなぐ信頼できる最良の手段だった。自信、自己表現、逃避のすべてがその中に詰まっていた」と書いているのは、とてもよく理解できる気がした。今でもいろいろなグループの音楽を聴きながら、いつの間にか、ミックのベースのオリジナリティを基準にして、ベースの音を耳で追っている自分を発見する。自分にとっては、いつでもミックが最高のベーシストである。きっと、これから先もずっと。