夢かよふ

古典文学大好きな国語教師が、日々の悪戦苦闘ぶりと雑感を紹介しています。

「マルク・シャガール 愛をめぐる追想」展

2012-08-21 17:56:05 | 日記
以前からその独特の絵画世界に惹かれてはいたけれど、今回の展覧会で、どんな人生を送った人なのか初めて知った。

1887年、帝政ロシアのユダヤ人居住区に生まれたこと、ロシアとパリで絵画を学んだこと。アメリカへの亡命、1985年に亡くなり、97歳の長寿であったこと。

愛と夢と幻想の画家というイメージだけでとらえていて、基本的なことについてはまるで無知だったことがわかった。

今回の展覧会は、シャガールの絵に繰り返し現れる故郷への思い、花、小動物、宗教世界などのモチーフに沿って作品が並べられ、解説と併せてその魅力が伝わるように工夫されていた。

シャガールの絵というと、しばしば原色に近い、大胆で美しい色づかいが特徴的だが、今回の展示では、青を基調とした作品が特に印象に残った。(「新郎新婦への捧げ物」「枝」など)。

今週末の会期終了まであとわずか。機会を逃すことなく観に行けてよかった。

合宿に来ています

2012-08-20 23:50:18 | 日記
市内からバスで30分、完全に山の中にある研修所で、俗世の汚れを落とし、己を虚しゅうすべく、勉強という名の修行に励む。

というのは言い過ぎだが(笑)、夏休み恒例の勉強合宿が始まった。4泊5日で、生徒もそうだが、我々も勉強に真剣に取り組む。

初日の今日は、模試の過去問を生徒に解かせ、すぐに我々が採点、3日かけて解説し、最終日に本番の模試を受験する。

生徒は、初日に解いた過去問より、本番の模試で成績を偏差値で5以上上げることを目標に頑張る。ターゲットがはっきりしているので、何のための合宿か、生徒に自覚ができてよい。

我々も朝から採点、予習、講座と大変だが、生徒を励ましつつ、頑張っている。

それにしても、うちの学校は、生徒の指導が手厚いよなあ。私もこんな学校に行っていたら、現役でちゃんと合格して、親不孝しなくてよかったのに。

「いわさきちひろ~27歳の旅立ち~」その2

2012-08-20 00:40:40 | 映画
3.運命の人
上京して1年後、ちひろは小さな新聞社で挿絵や記事を書いて生計を立てていた。しかし、社会的なテーマを重視する周囲の画家たちの中にあって、ちひろは労働者を描いても絵が甘いと批判され、自分はどんな絵を描くべきなのか、思い悩む。つらいとき、ちひろはスケッチ帳を持って町に出た。やがて、焼け跡の町でたくましく生きる子どもたちの姿を描くようになる。

「自分は子どもたちのために絵を描きたい」。そう決心したちひろは、新聞社を辞めて独立。生活は苦しくなったが、自分でつかんだ初めての仕事であるアンデルセン童話の絵本に全てを賭け、好評を得る。

一方、その頃ちひろは反戦平和運動を通じて松本善明(ぜんめい)と知り合い、互いに惹かれていく。善明はちひろを尊敬、応援し、ちひろは30歳にして初めて人を愛することを知る。しかし、善明の両親は7つも年上で、バツイチのちひろと結婚することには猛反対、そうしたことが許されるような時代ではなかった。そこで二人は、ちひろの住む神田の下宿で、2人だけの結婚式を挙げる。

結婚式にあたって、ちひろは千円の大金をすべて花にして部屋を埋め尽くしたという。その他にはブドウ酒と、ワイングラス2つだけ。このとき交わした誓約書には、「…特に芸術家としての妻の立場を尊重すること」と書かれていたのが印象に残った。

翌年、長男の猛(たけし)が誕生するが、夫は弁護士を目指して勉強中のため、収入がない。ちひろは自分の絵筆で家計を支えることを決意する。しかし、六畳一間の暮らしで、しょっちゅう泣きわめく猛が絵の妨げになる。泣く泣く、生後一ヶ月で猛を田舎の両親に預けることにするが、当時のスケッチ帳は、猛への思いを綴った言葉であふれている。

愛する夫と息子のため、苦しい生活と闘っていたちひろ。けれども翌年、夫が司法試験に合格、ようやく息子と暮らせるようになる。

4.飛躍のとき
その日からちひろの側には、常に猛がいた。ちひろは生活のために広告の絵を描いていたが、猛がそのモデルになった。冷やし中華のスープ、ヨーグルト、百貨店…等の広告。ちひろは猛にポーズをとらせては、そうした絵を描いていたという。

一方ちひろは、夫のため息子のため働きすぎて、自分の絵をだめにしているような気持ちにもなっていた。(当時、夫は弁護士になっていたとはいえ、弱者のための労働争議のような、お金にならない仕事ばかりしていた)。しかし、そこに絵本の仕事が舞い込む。初めて一冊すべての挿絵を担当したその絵本には、息子をモデルにした絵が全編に描かれていた。

この絵本が評判になり、ちひろは絵本画家として認められはじめる。母になったことが、ちひろの絵の世界を深めたのであった。

6.画家の権利を求めて
当時、挿絵画家の地位は低く、その著作権は認められていなかった。ちひろは、絵本における挿絵は文の説明ではなく、独立した芸術作品として認められるべきだと考えていた。そのことを主張すればするほど仕事は減ったが、ちひろはあきらめなかった。「原画は返却してください、画家の権利を尊重してください」と言い続けるうちに、やがて多くの画家が賛同してくれるようになる。

頑迷な出版社を変え、著作権を認めさせる原動力になったちひろの功績は大きく、その後の児童出版に与えた影響も大きい。



この映画のどの場面にも強い印象を受けたが、私はやはり、ちひろが27歳で家出同然に東京に出てきて、周囲の批判の中で、自分はどんな絵を描くべきなのか、悶々と苦しんでいた時期が最も印象に残った。その頃のちひろは、古本屋で次々に画集を買ってきては、ピカソをはじめ様々な画家のデッサンを模した修練の日々を送ったという。そのおびただしい数のデッサンを見て、自分の絵を確立させるために要した苦闘に心を動かされずにはいられなかった。

今日は、映画館がいっぱいになるほど多くの方が来館されていて、ちひろのファンがこれだけ多いことに改めて驚いた。この映画を見た後では、きっとちひろの絵に対する見方が変わってくると思う。多くの方が見てくだされば嬉しい。

「いわさきちひろ~27歳の旅立ち~」その1

2012-08-19 17:37:32 | 映画
「私は一年中、頭のどこかでいつも、絵本のことを考えているにちがいありません。絵本の幸せを人々に届けるために」。冒頭のこんな言葉からすぐ、映画に引き込まれた。約90分の短いドキュメンタリー映画だったが、とても内容が濃かった。

いわさきちひろは、豊かな表現力で、子どもの心の内面を描いたといわれている。自由な色づかいと、大胆な構図。彼女の絵は、世代を越え、国境を越えて、人々に愛されている。その絵本は数多く、何カ国語にも翻訳されている。しかし、そんな彼女も、画家としてやっていこうと決意した27歳のときは、家や仕事もなく、失意の中にいたことは、意外に知られていない。……以下、この映画は、次の8章によって、ちひろの生涯とその作品を紹介していく。

  1.旅立ちの日
  2.決意の日まで
  3.運命の人
  4.飛躍のとき
  5.ちひろの世界
  6.画家の権利を求めて
  7.絵本の可能性にいどむ
  8.戦火のなかのこどもたち

ナレーション(加賀美幸子)に貴重な写真や、彼女と親しかった人々の証言を織り交ぜ、彼女の生涯を紡ぎ上げていく手法は堅実だと感じた(監督は海南友子)。夫・松本善明氏、息子・猛氏、ちひろ美術館長・黒柳徹子氏をはじめ、数多くの人々の口から、彼女の人となりが語られ、それだけでも興味深い。

この映画で特に印象に残った所々を紹介する。

2.決意の日まで
ちひろは、1918年(大正7年)に3姉妹の長女として生まれた。父は陸軍の建築技師、母は教師というお堅い職業。幼い頃から絵が好きだったちひろは、14歳のとき、洋画家・岡田三郎助の美術教室で学び始め、17歳で朱葉会で入選。将来を嘱望されるが、両親の反対で美術学校への進学を断念。母の強引な取り決めで、20歳のときに見合い結婚をさせられ、夫の転勤先の大連で新婚生活を送ることになる。

しかし、ちひろは夫に心も体も開くことなく、うわべだけの夫婦生活が2年続く。そんなある日、ちひろが帰宅すると、家の中で夫が首をつって死んでいた。盛大な挙式から2年、うちとけぬ妻に悩んだ挙げ句の自殺だった。ちひろは生前には触れ合わなかった夫の遺骨を抱いて帰国する。

1941年(昭和16年)、太平洋戦争が始まると、教師だった母・文江は戦争協力にのめりこみ、満州へ若い女性を次々に送り込んだ。ちひろも満州へ行くが、住む所にも食べる物にも事欠く開拓村の過酷な現実にあい、心身症になる。見かねた部隊長が帰国させてくれるが、そのとき満州にとどまった知り合いの女性達は、本土引き揚げが叶わず、残留日本人となったり、悲惨な末路をたどった。

1945年(昭和20年)5月、東京大空襲でちひろの実家が全焼、描いてきた絵も灰になる。信州松本に疎開し、そこで終戦を迎える。

終戦を境に生活が激変する。戦争協力していた両親は、公職追放となり、収入も職も失って開拓農民になる。一方、ちひろは反戦活動家・菊池邦作のもとで平和運動に参加、ポスターを描いたりするようになる。自分の絵が人を動かす実感を得たちひろは、画家を志し、家出同然にひとり東京へと旅立つ。


ちひろが27歳で画家を志すまでに、その画風からは全く想像できない、過酷で壮絶な前半生を送ってきたことに圧倒された。



入道雲

2012-08-18 20:57:04 | 日記
これだけ見事に発達した積乱雲を目にするのは珍しく、思わず写真に撮ってしまった。

季節は秋なのに、まだ残暑厳しい。今日の午前中は、進学保護者説明会があり、来校する保護者方の車の誘導整理。炎天下、立っているだけで、汗が吹き出してきてしまった。

そのときは、カンカン照りの空が恨めしかったが、説明会が終わった後で、昼食をとりに外に出て、車窓からこの雲を見て、この夏これほど大きな入道雲は初めて見たように思い、近くで車を停めて写真を撮った。こんな雲が見られるのも、一年のうち今だけだ。


  見るままに果ても知られずわきおこる雲の白さよ空の青さよ