夢かよふ

古典文学大好きな国語教師が、日々の悪戦苦闘ぶりと雑感を紹介しています。

真珠の耳飾りの少女 その後

2012-08-16 23:34:57 | 日記
一週間しか経っていないのに、「真珠の耳飾りの少女」(青いターバンの少女)の記憶が、すでにかなり薄れているのが悲しい。決して覚えていないわけではないのだが、この絵の写真をいろいろなところで目にするので、胸にやきついたはずの絵の印象が、後から見た写真などによって、相当程度、置き換えられているように感じる。

結局、一番記憶にあるのは、絵の前を立ち去りつつ、しり目に見たときの、右斜めからの絵の印象だけだ。正面からの映像は、すでに他の記憶によって上書きされてしまったような感じがする(後からの記憶を除染して、元見たままの記憶を取り戻そうとする企てはもう放棄した)。あたりまえだが、実際の絵は、見る角度によって様々に表情を変える。最後に見たときの絵の姿は、自分だけの視点から見た映像なので、今でも脳内にそのまま残っているのだろう。

そういえば、先週の展覧会を見て、以前、映画『真珠の耳飾りの少女』(2003)で観たことと、絵の解説などで言われていることがかなり違っているので驚いてしまった。

マウリッツハイス美術館長の、来場者向けビデオメッセージでは、この絵はトローニー(不特定の人物を描いた頭部図)であることを強調していて、映画でフェルメール家の召使いを描いたことになっているのは間違いだ、と言わんばかりだった。

また、映画では確か、フェルメールは完璧を追求するあまり、絵の制作に時間がかかりすぎる上、高価な画材や絵の具にも惜しみなく金を注ぎ込むので、子沢山とも相まって、フェルメール家は貧乏だったという設定だったように思う。しかし実際は、妻の実家が裕福だったので、フェルメールは絵の売れ行きなどに心を煩わすことなく、納得のゆくまで精巧な絵を描くことのできる恵まれた環境にあった、という説明がされていた。


ただ、こうして強調したくなるほど、あの映画はフィクションとしてよくできていたのに違いない。また、配役もよくて、召使いの少女、グリートを演じたスカーレット・ヨハンソンは絵のイメージとぴったりだったし、フェルメールを演じたコリン・ファースもハンサムすぎる画家だったけど、渋くてとてもかっこよかった。映像も音楽も美しく、未見の人にはぜひお勧めしたい映画だが、今回の展覧会で初めてその影響力の大きかったことに気づいた。