夢かよふ

古典文学大好きな国語教師が、日々の悪戦苦闘ぶりと雑感を紹介しています。

「ワン・デイ~23年のラブストーリー」その3

2012-08-27 00:37:58 | 映画
2007年7月15日。デクスターは、エマを失った悲しみからなかなか立ち直れずにいる。自堕落な生活を送っているデクスターに、父親が忠告する。
「エマが生きていると思って生きてみたらどうだ?」
「できないよ」
「できるさ。わしは10年やってきた」

2009年7月15日。デクスターは自分の店(カフェっぽい)を開いているが、そこにイアンが訪ねてくる。イアンは、現在はコメディアンの道はあきらめて保険業に就いており、妻と子供もいる。イアンはデクスターに、自分の今の気持ちを打ち明ける。「エマは君が一緒だと輝いていた。僕じゃダメだった。だから君を憎んでた。でも、彼女が君をまともにした。そのお返しに君が彼女を幸せにした。君には永遠に感謝するよ」。2人はしっかりと抱き合う。

2011年7月15日。デクスターは、ジャスミンを連れてエジンバラに行き、エマと初めて散歩した思い出の丘(アーサーズシートというそうだ)に連れて行く。「誰か親友はいるのか?」「お母さんかな。……お父さんは?」「ジャスミンかな」「お父さんはお父さんだよ」
このあたりの会話は見ていて微笑ましくてよかった。


この映画を見ながら何度も、人の心はわからないと思った。なぜ人は、時として愚かな、自分を不幸にさせる選択をしてしまうのか。

エマが最初にイアンとデートする場面。イアンの選んだ映画は『死霊のはらわた3』。そのあとレストランに行って、メニューを眺めながら、イアンが「上限は14ポンドかな。……いや、何でも好きなものを頼んでくれ」。イアンにコメディアンとしての才能も、生活能力がないことも明白だし、そもそも価値観が根本的に違うのに、求められるままに交際して、同棲して、住んでいる家のローンをエマが払うようになって、それでも少しも愛せない。そんな風になるずっと前に、なぜ「部屋においでよ」という誘いを断らなかったのか。

デクスターも、シルヴィの家族に会う前に、「シルヴィ、愛してる」と何度も口で唱えて練習している。シルヴィの家族とは初対面なのに、以前デクスターが司会をしていたテレビ番組のことで、シルヴィの弟たちからバカにされる。その後、家族水入らずで楽しんでいるゲームが、目隠しをして棒で殴り合うというもの。デクスターのような生い立ちの人間からすれば、家風が違いすぎて合わないということが、どうして自分でわからないのか。

もちろん、答えはなんとなくわかる。エマは、一番愛しているデクスターに、彼の何人も入れ替わる恋人のように扱われ、冷たく捨てられることが恐くて、自分をずっと好きでいてくれそうな無難な男を選ぼうとしたのだと思う。また、彼女は男性からの(男性への)愛情だけで満足できるような女性ではなく、作家になるという自分の夢を実現するまでは、自分に自信が持てなかったのだと思う。

また、デクスターは、生まれ、容姿、能力など、いろいろなことに恵まれすぎていて、全てを失い、誰からも相手にされなくなるまで、本当に大切なものは何かが分からなかったのだと思う。

だから、結局この2人は、40歳にもなったこのタイミングでしか結ばれることはなかったんだな、ということが、この映画を振り返っていくうちに分かってきた。

この映画は23年間の「7月15日」に視点を置いて、2人の男女のすれ違いと成長を描いていく点は目新しいけれど、基本的には年次順に話が進行していくので、どうしても途中から単調な印象を受けるし、派手で華やかな展開や演出というのもない。しかし、細部までしっかり話が作り込まれていて、一つ一つの場面やセリフにも無駄がなく、描かれた「7月15日」以外も自然に想像させるような描き方がされており、大人の鑑賞に堪える作品だと感じた。主演の2人をはじめ、俳優の演技もよく(特にデクスターの両親)、背景に流れている音楽もアラフォー世代には、その時代を代表する曲ばかりで、懐かしさを誘う。結局、この映画を一番楽しめるのは、この世代なのかもしれない。

ファッション、音楽、インテリア、情報通信機器…などの20年間の変化に目を向けてみるだけでも面白い。特に、40代前後の人にとっては、自分の生きてきた軌跡をなぞり返すような感覚を味わう経験になると思う。