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#photobybozzo

沖縄→東京→竹野と流転する、bozzoの日々。

【jul_21】えぐさゆうこ

2012-07-30 | MUSIC
【on_Flickr】0721_egusa_duo

えぐさゆうこさんのLIVEを観た。

屋久島に古くから伝わる古謡を発掘(文字通り発掘するような作業)して、
その土地にあって忘れられつつある_島人の暮らし・営み・想い・祈りを
定着させようと、地道に活動をつづけていらっしゃる。

その古謡も、決して古臭いものではなく、
今回のライブのようにピアノとパーカッションのアレンジで
見事な躍動感とパッションを込め、謡そのものに息を吹き込んでいた。

誠に心奮える体験だった。

特にユタ(霊媒師)のことを謡った楽曲は、
地面を揺り動かすような土着的なグルーヴ感に溢れ、
ピアノの蹴立てるようなフレーズと、追い込むようなパーカッションの連打で、
聴いてるこちら側が憑依しそうな、そんな言いしれぬパワーにのけぞりっぱなし。

扱いを間違えると怪我をしそうな、
その謡の持つ地力に驚嘆した次第。

このような「ナマモノ」こそが
日本人の文化・生活を支えてきたのであり、
いまここに立ち返らずして、どうするのか…と

非常に激しい感慨をおぼえた。


【jul_18】ケンタとジュンとカヨちゃんの国

2012-07-18 | BOOKS&MOVIES
私たちの望むものは
生きる苦しみではなく
私たちの望むものは
生きる喜びなのだ

私たちの望むものは
社会のための私ではなく
私たちの望むものは
私たちのための社会なのだ

 「私たちの望むものは/阿部芙蓉美

2010年の5月に大森克己さんと大森立嗣さんのトークショーを観て
ずっと引っかかっていた映画「ケンタとジュンとカヨちゃんの国」。


 追いつめられた鹿は断崖から落ちる
 だが 人間が断崖から落ちるためには
 一篇の詩が必要だ

この田村隆一の詩がすべてを物語っているような映画だった。

なにも震災があったから噴き出したわけじゃなく、
ニッポンはずっと昔から、何かしらの閉塞感でおかしかった。

この岡林信康の「私たちが望むものは」だって1970年の作品。
ずっとずっと、なにかおかしいと思いながら、2011年03/11を迎え、
震災と津波と原発事故によって、やっと人間本来の心の叫びに気づき始めたってことか。


しかし、全編書き下ろしの大森立嗣監督の感性は、素晴らしい。

「ぶちこわしても、ぶちこわしても、なにも変わらねえ」

網走刑務所の兄貴との面会で、ケンタが絶叫する。
この絶叫に呼応するかのような、「私たちが望むことは」の挿入。

結局、ボクたちは社会に迎合しすぎた。

社会の仕組みだって、人間が作ったものだというのに、
いつのまにか仕組みだけが一人歩きし、人々は消費財のごとく
カネを巻き取られる人生しか選び取ることができなくなった。

世の中には2種類の人間がいる。人生を選べる人間と、人生を選べない人間と。

ここでいう選べる人間とは、システムを構築する側に属する人間だろう。
そして、選べない人間とは、システムに翻弄され消費される人間。

東京が選べる側で、東北が選べない側。

経済のタービンを回し続けるために、消費財としての人間を翻弄する側、それが東京のポジションで、
そのタービンの消費財に進んで焼べられようとする側が、東北の土地であり、東北の民であった。

戦後67年、振り返ってみれば、その消費の速度、タービンの速度を早めるために、
首都圏はありとあらゆる欲望喚起の商品を生み出してきた。

そのたびに東北の民は、土地を提供し、安全を提供し、労力を提供してきた。

消費を即せば、カネが回り、会社の数字は伸びる。
人手が必要となるから、雇用を増やし、人件費を稼ぐために規模や効率をUPさせる。

会社がどんどん大きくなると、消費財もどんどん必要となるから、業種をまたいで事業展開し、
M&Aでさらに規模を大きくして、そのタービンの規模と回転数を高めていく。

そうこうするうちに、数字を上げることが第一の目的となってきた。

抱えた社員の人生がかかっているし、銀行から借りたお金も回さなきゃならない。
はじめは市場ニーズがあって、商品開発が行われていたのだけど、
いつのまにやら、商品開発があって、市場ニーズが喚起されるようになった。

消費財の小市民たちは、システム側の人間たちに不要な欲望を焚きつけられ、
先進技術、未来の先取りなどというコピーで、一方的な利便性を押しつけられた。

エアコンなしには住めないマンションを住宅ローンで購入し、
片道1時間の通勤ラッシュに汗まみれで相まみれた。
着けばクールビズとか言いながら22度に設定されたインテリジェントオフィスで働き、
ない知恵を寄せ集めて、消費財の欲望を新たに喚起させる新商品の開発に日夜尽力した。

会社を辞めたら失業保険で半年先の収入は保証され、
死亡しても家族の未来は安泰といった生命保険に入り、
65歳からは貰える番だから…と、毎月せっせと年金を支払う。

すべてが「システム側の人間」によって組み上げられた人生設計。

オルタナティブは選択できないのか?…という疑問の挟む余地がないほど、
ニッポン全体が、大きな枠組みの中で、雁字搦めになっている。
はみ出した人間のうち年間3万人あまりは、自らの死を選ぶ社会って。。。。?

 急激な脱原発をすると電力会社が経営破綻を起こして日本経済が大混乱する。
 しかし、安全に原発を運営しようとすると、原発はしばらく再稼働できなくなってしまうし(その間は化石燃料を輸入する必要がある)、
 原発による発電コストがさらに上昇してしまう。いずれの道を選んだところで、電力会社の経営は非常に厳しくなるし、
 その影響が、銀行、保険会社、ゼネコンなど数多くの業種に及ぶことは避けられない。
 東電以外の電力会社にも政府は資金注入をしなければならなくなってしまう。

 そんな経済への悪影響を避ける唯一の方法は、「問題を先送りして、多少の危険を承知で原発を運営し続ける」ことなのである。

それでも、現状維持しかないと説得する経済人がいる。

これだけ綻んだ社会が目の前に広がって、
小市民は「消費財なんてまっぴらだ!」と声高になって叫んでいるのに、
それでも、「いや、システムは変えられないんだ」と諭しにかかる輩がいる。

 「バカか、死ね」

ケンタなら、そうつぶやくだろう。

「ええ加減にせええや、おまえら。」
システムは当にぶっ壊れちまったんだよ。

経営破綻でも、大混乱でも、起こせばええやろ。






【jul_17】同潤会上野下アパート

2012-07-18 | Photo-diary
かたつむり」拝見後、上野に唯一残された同潤会アパート、「上野下アパート」へ。

関東大震災で家々が倒壊したことを受けて設立された同潤会。
東京近郊に16棟の鉄筋コンクリート集合住宅があったようだが、
いまはこの「上野下アパート」を残すのみ。

この場所も来年には取り壊されることが決定している。
昭和4年(1929)竣工だから、築83年。

最近話題の最高裁判所長官公邸とほぼ同じ年月を重ねている。
かたや良質な日本家屋、かたや先鋭的鉄筋コンクリート。

このアパートも5階建てなのに、渡り廊下がついていて、けっこう斬新。
階段手すりのデザインも昭和モダンである。
近くにある旧下谷小学校も昭和3年竣工。

どちらも100年という月日にはちょっと届かなかった。
ただ取り壊すのではなく、撮影場所として解放してくれ…と願うばかり。
美的センスがないからなあ、役所の人間は。

【jul_17】大久保スポーツ会館

2012-07-18 | Photo-diary
この今週末、笹塚ファクトリーでおこなわれる
安井ひろみさん脚本演出、夏樹陽子さん主演の2話同時公演「かたつむり」。

その通し稽古を見学しに、大久保スポーツ会館へ。

前回同様、女の愛想劇が見事に散りばめられていて、圧巻。

今回は「紫陽花ノ章」「宵待草ノ章」と2話がテレコだから、
演出家は同時進行でふたつの舞台を掛け持ちしているようなもの。

出演者は夏樹さん以外、すべて入れ替え。
時代設定も関東大震災の大正12年から華やかなりし昭和8年の頃と
まったく違うので、衣装選定も大変。しかも季節は同じ夏。
キャラクターに合わせた和装をぶつけることで、
話に奥行きを出そうという狙いもあるので、手抜かりはゆるされない。

そんな切迫した状況がよくわかる舞台稽古だった。




【jul_15】Tandorimma

2012-07-18 | MUSIC
0715の日曜日、午後からTandorimmaの密着撮影。
彼女たちとの出会いは、2011年の多摩美校友会ホームカミングデーのとき。

そのフォトジェニックな容貌にすっかり虜になって、
いつかライブ撮影を!と願っていたものが、ついに成就したのだ。

メイキャップのタイミングから女子部屋に潜入。
13人の女子が化粧に集中する中、ひたすら脇で撮影。
これはまさに永井荷風の浅草ロックスじゃないか。
…と、ひとり悦に入っているのだが、誰も相手にせず。

今回は前回のホームカミングより統一性をもたせたシックな装い。
全身をブルーに包み、全員がスパンコールのアイメイクだ。

完成形になった後、タクシーで六本木へ。

場所は六本木clubEDGE
東京へ戻ってきて間もない頃、さまざまなダンサーと出会ったところだ。

さて、肝心のステージは?
…と高をくくっていたら、これがまた素晴らしい。

アフリカンな要素をふんだんに取り入れた
見た目とはまったく違うワイルド路線。

ファイヤーダンスには、ドビックリ。
血が騒いだ。








【jul_14】しっちゃかめっちゃか

2012-07-14 | BOOKS&MOVIES
「こいつ何言ってんだ?」と思いながらも何かおもしろいから読者は本を放り出すわけにもいかず、
ついつい付き合ってしまう。小説のおもしろさも小説がこの世界に存在する意義もそれに尽きると言ってもいい。
効率最優先・経済最優先、あるいは「こころにしみるいい話」や「人を動かすすばらしい話」しか
求めていない人には小説とはどこに価値があるのかまったく理解しがたいものだが、
どれだけ手を尽くしても死は避けられず、死の前ではいくら言葉を費やしても
やっぱり沈黙と向き合わなければならないことを怖くても認めるなら、
人を最後に救うのは小説あるいは音楽、美術、映画…といった芸術でしかない。

書かれることの因果関係や原因・理由や動機や必然性などなどは小説の場合、
小説それ自体によって決まる。小説に先行する社会的な常識や通念で即断することはできない。
が、このように小説それ自体の運動によって因果関係や価値観などが決定されてゆく小説は
実際には少なく、ほとんどの小説は小説に先行する知識・判断が小説の中に持ち込まれている。

だからきっと芸術という活動を人間がはじめたときに魂が生まれた。
魂が生まれたときに人間が芸術という活動をはじめたのでもどっちでもいい。
魂は人間の中に生まれたものだが、芸術と同じように完全な無から、
つまり完全なフィクションとしてそれを生み出すことは出来ない。
打楽器はいうに及ばず、管楽器も弦楽器も自然が鳴らしていた音を、
鉄鉱石から鉄を精錬するように形成した結果であり、絵の具の色も辰砂の朱、
マラカイトの緑、フェルメールで特に有名なラピスラズリの青、
などなどはほとんどすべて自然から抽出された。

魂もきっとそのようなものだから、
こちら側に強烈に働きかける力がないときとか
敏感にそれを察知する能力がないときには何も感じることができず、
人間は魂がかぎりなく無にちかい世界にふだんは生きることになる。
こう書く私の「働きかける力」とか「察知する能力」というイメージ自体が、
そもそも物理の力学や観察から借りてきた概念であり、魂を否定する科学の側の
用語・図式によってしか語られないところに、もともとの矛盾がある。

白黒の写真ではフェルメールの色彩はわからないとか、
憎しみしか知らない人に愛を語らせることはできないとか、
そういうことではなく、数字しかない世界。気象や動植物を数字だけ
記述するということではなく、数字とそれを結ぶ記号しかない世界。
風も吹かず雨も降らず、それどころか大地も何もなく、ただ数字と
それを結ぶ記号しかない世界で、色彩や愛について語る不可能。

思考の様式の根本、つまり見たり聞いたり感じたりしたことを
自分の中で再現することとそれを誰かに伝えることの二つが、どっぷりと
科学的思考様式に浸っている私たち。
たとえば2と3を並べると3の方が大きいと無条件に考えることしか
できなくなってしまっている私たち。私がこんなことを書くと、
「バカか、こいつ。」としか思わない私たち。

1とは全なる状態なのだから、1より完全な数はなく、
そのときに2と3を比較することは空しいだけだ。
と考えることのできない私たち。無とは原初の充満であり、
無の中にすべてがあり、したがって無とは空虚ではなく
石のように寸分の余地もなく詰まっている。…と考えることのできない私たち。
そのような私たちは平生においては、魂からかぎりなく遠い。

      (すべて保坂和志著「魚は海の中で眠れるが鳥は空の中では眠れない」より)


       ●

今日封切りの映画「へルタースケルター」を観た。
1と4で「とおふぉお=東宝」ということでTOHOシネマズは1,000円。
蜷川幸雄の娘である蜷川実花がどんな映画を撮るのだろう…という期待もこめての鑑賞だった。

結果は、上の言葉に表れている通り。

保坂氏は小説について「先行する社会的な常識や通念で即断することはできない」ものと定義している。
これは芸術全般に言えることで、「人を最後に救うのは芸術しかない」と断言さえしている。

実際さらに辛辣に…
 
 芸術に接するときに根拠を求めてはならない。根拠はそのつど自分で創り出すこと。
 社会で流通している妥当性を求めないこと。芸術から見放された人間がこの社会を作ったのだから、
 社会は芸術に対するルサンチマンに満ちている。彼らは自分が理解できないものを執拗に攻撃する。
 自分の直感だけを信じること。      (保坂和志著「カフカ式練習帳」より)

…と世の中の構成物全体が芸術に対するルサンチマンに溢れているのだから、
 先行する社会的な常識や通念に妥当性を求めるな…と諫めている。

 「考える」という営みは既存の社会が認める価値の前提や枠組自体を疑うという点において、
 本質的に反社会的であり、反時代的な行為である。…という言葉からもわかるとおり、

本来表現(芸術)とは先行する社会的な常識や通念では捉えきれないものであり、
その裏切りが、自己目的化した思考の枠組打破…の原動力となる点…
…その1点において、生活を営む上で必要不可欠なモノなのだ。

しかし思うに現代社会はスマホの蔓延によって、インターネットというサイバーネットワークが
「知識」や「常識」「通念」といったもので、私たちの生活全体…思考全体を網掛けしてしまった。

いつのまにやら思考の枠組みが狭められ、「涵養」といった言葉が死語のように、即時性や即物性が重んじられ、
イメージの転換や連想も「安易」なものへとどんどん流れていく傾向を作ってしまった。

吉本隆明氏が存命ならその「共同幻想論」をさらに推し進める展開を指し示してくれたかも知れないが、
語られる言語体系がやせ細ってしまったが故に、そこから喚起されるイメージも狭量で浅薄なものしか
許容できない思考となっている…そんなことを映画「へルタースケルター」を観ながら思ったのだった。

   「一億総思考停止」

保坂氏が指摘するまでもなく「勉強できる奴はけっこう頭が悪い」状態の極み。

映画「へルタースケルター」から繰り出されるイメージは
どこまでも既視感が付きまとう「答え合わせ」の域を出ていない。

「沢尻エリカ」やら「蜷川実花」やらの先行するイメージの模範解答でしかない。

ボクが大きく危惧するのは、この映画の到達点ではなく、
そこに批評の芽が生まれない現代社会の柔順さ…「大衆」の思考停止である。

要は全然「Helter-skelter=しっちゃかめっちゃか」してないのよ。
アルモドバルの「私が、生きる肌」のほうが、よほど「しっちゃかめっちゃか」だ。

ITの弊害である…情報錯乱の末の思考停止が、ボクは怖い。

「考える」ことを止めてしまう…どうもIT社会はそこに近づいているように思うのだ。