「こいつ何言ってんだ?」と思いながらも何かおもしろいから読者は本を放り出すわけにもいかず、
ついつい付き合ってしまう。小説のおもしろさも小説がこの世界に存在する意義もそれに尽きると言ってもいい。
効率最優先・経済最優先、あるいは「こころにしみるいい話」や「人を動かすすばらしい話」しか
求めていない人には小説とはどこに価値があるのかまったく理解しがたいものだが、
どれだけ手を尽くしても死は避けられず、死の前ではいくら言葉を費やしても
やっぱり沈黙と向き合わなければならないことを怖くても認めるなら、
人を最後に救うのは小説あるいは音楽、美術、映画…といった芸術でしかない。
書かれることの因果関係や原因・理由や動機や必然性などなどは小説の場合、
小説それ自体によって決まる。小説に先行する社会的な常識や通念で即断することはできない。
が、このように小説それ自体の運動によって因果関係や価値観などが決定されてゆく小説は
実際には少なく、ほとんどの小説は小説に先行する知識・判断が小説の中に持ち込まれている。
だからきっと芸術という活動を人間がはじめたときに魂が生まれた。
魂が生まれたときに人間が芸術という活動をはじめたのでもどっちでもいい。
魂は人間の中に生まれたものだが、芸術と同じように完全な無から、
つまり完全なフィクションとしてそれを生み出すことは出来ない。
打楽器はいうに及ばず、管楽器も弦楽器も自然が鳴らしていた音を、
鉄鉱石から鉄を精錬するように形成した結果であり、絵の具の色も辰砂の朱、
マラカイトの緑、フェルメールで特に有名なラピスラズリの青、
などなどはほとんどすべて自然から抽出された。
魂もきっとそのようなものだから、
こちら側に強烈に働きかける力がないときとか
敏感にそれを察知する能力がないときには何も感じることができず、
人間は魂がかぎりなく無にちかい世界にふだんは生きることになる。
こう書く私の「働きかける力」とか「察知する能力」というイメージ自体が、
そもそも物理の力学や観察から借りてきた概念であり、魂を否定する科学の側の
用語・図式によってしか語られないところに、もともとの矛盾がある。
白黒の写真ではフェルメールの色彩はわからないとか、
憎しみしか知らない人に愛を語らせることはできないとか、
そういうことではなく、数字しかない世界。気象や動植物を数字だけ
記述するということではなく、数字とそれを結ぶ記号しかない世界。
風も吹かず雨も降らず、それどころか大地も何もなく、ただ数字と
それを結ぶ記号しかない世界で、色彩や愛について語る不可能。
思考の様式の根本、つまり見たり聞いたり感じたりしたことを
自分の中で再現することとそれを誰かに伝えることの二つが、どっぷりと
科学的思考様式に浸っている私たち。
たとえば2と3を並べると3の方が大きいと無条件に考えることしか
できなくなってしまっている私たち。私がこんなことを書くと、
「バカか、こいつ。」としか思わない私たち。
1とは全なる状態なのだから、1より完全な数はなく、
そのときに2と3を比較することは空しいだけだ。
と考えることのできない私たち。無とは原初の充満であり、
無の中にすべてがあり、したがって無とは空虚ではなく
石のように寸分の余地もなく詰まっている。…と考えることのできない私たち。
そのような私たちは平生においては、魂からかぎりなく遠い。
(すべて保坂和志著「魚は海の中で眠れるが鳥は空の中では眠れない」より)
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今日封切りの映画「
へルタースケルター」を観た。
1と4で「とおふぉお=東宝」ということでTOHOシネマズは1,000円。
蜷川幸雄の娘である蜷川実花がどんな映画を撮るのだろう…という期待もこめての鑑賞だった。
結果は、上の言葉に表れている通り。
保坂氏は小説について「先行する社会的な常識や通念で即断することはできない」ものと定義している。
これは芸術全般に言えることで、「人を最後に救うのは芸術しかない」と断言さえしている。
実際さらに辛辣に…
芸術に接するときに根拠を求めてはならない。根拠はそのつど自分で創り出すこと。
社会で流通している妥当性を求めないこと。芸術から見放された人間がこの社会を作ったのだから、
社会は芸術に対するルサンチマンに満ちている。彼らは自分が理解できないものを執拗に攻撃する。
自分の直感だけを信じること。 (保坂和志著「カフカ式練習帳」より)
…と世の中の構成物全体が芸術に対するルサンチマンに溢れているのだから、
先行する社会的な常識や通念に妥当性を求めるな…と諫めている。
「考える」という営みは既存の社会が認める価値の前提や枠組自体を疑うという点において、
本質的に反社会的であり、反時代的な行為である。…という言葉からもわかるとおり、
本来表現(芸術)とは先行する社会的な常識や通念では捉えきれないものであり、
その裏切りが、自己目的化した思考の枠組打破…の原動力となる点…
…その1点において、生活を営む上で必要不可欠なモノなのだ。
しかし思うに現代社会はスマホの蔓延によって、インターネットというサイバーネットワークが
「知識」や「常識」「通念」といったもので、私たちの生活全体…思考全体を網掛けしてしまった。
いつのまにやら思考の枠組みが狭められ、「涵養」といった言葉が死語のように、即時性や即物性が重んじられ、
イメージの転換や連想も「安易」なものへとどんどん流れていく傾向を作ってしまった。
吉本隆明氏が存命ならその「共同幻想論」をさらに推し進める展開を指し示してくれたかも知れないが、
語られる言語体系がやせ細ってしまったが故に、そこから喚起されるイメージも狭量で浅薄なものしか
許容できない思考となっている…そんなことを映画「へルタースケルター」を観ながら思ったのだった。
「一億総思考停止」
保坂氏が指摘するまでもなく「勉強できる奴はけっこう頭が悪い」状態の極み。
映画「へルタースケルター」から繰り出されるイメージは
どこまでも既視感が付きまとう「答え合わせ」の域を出ていない。
「沢尻エリカ」やら「蜷川実花」やらの先行するイメージの模範解答でしかない。
ボクが大きく危惧するのは、この映画の到達点ではなく、
そこに批評の芽が生まれない現代社会の柔順さ…「大衆」の思考停止である。
要は全然「
Helter-skelter=しっちゃかめっちゃか」してないのよ。
アルモドバルの「
私が、生きる肌」のほうが、よほど「しっちゃかめっちゃか」だ。
ITの弊害である…情報錯乱の末の思考停止が、ボクは怖い。
「考える」ことを止めてしまう…どうもIT社会はそこに近づいているように思うのだ。