芸術や宗教が「こころ」を形成する。
だからおざなりにしてはいけない…と語ったのは平田オリザだったが、
ニッポンは戦後から今まで、
芸術や宗教はある特定の人間が関わる事物として、
辺境に追いやってきたように思う。
それはすべて「敗戦」時の身の処し方がトラウマとなって
現代にまで尾を引いているからなのだと、ボクは思うのだけど。
(著作権期限を戦勝国には10年延長の謙り方にもそれは出ている)
アルベール・カミュの「異邦人」を舞台で観て、
カミュが伝えようとした「’不条理」が表現されていなかったこと。
それに加え映画「最初の人間」で、
カミュが、キリスト教における「贖罪」の在り方そのものを否定していたこと。
カミュが、アルジェから眺める地中海の水面と降り注ぐ太陽を愛したこと。
そして最近、「ふしぎなキリスト教」を読んだこと。
そういった点から、カミュの置かれていた背景をもっと見極めるべきではないか…と思い、
この一週間、考えを巡らせていた。
レヴィナスの「存在するとは別の仕方で」における「隣人」の捉え方、
カミュ「異邦人」でマルソーが司祭に吐く「逆説的な生への謳歌」、
そのどちらにも西洋の基盤となる「一神教」が大きく影を落としている。
一神教とはそもそもなんなのか?
ユダヤ教における「ヤハウェ」の神が一神教のはじまりだ。
ユダヤの民は古代から己の土地を失い、寄留者で在り続けた。
いつも虐げられ争いが絶えず、神に祈りを捧げるも状況は好転しない。
納得がいかない。自分たちにどんな非があるというのだ。
そこでユダヤの民は神の視点になって考えた。
神がこの世界を創造し、人間をつくった。
数ある人間の中からユダヤの民を選び、神はわたしたちに「試練」を与えた。
「試練」に耐え、神の創造物たらんとすることで、
やがて来る「裁きの日」においてユダヤの民は救われるのだ。
逆転の発想。
どのような悪況に置かれようとも、全知全能の神を崇め、
神のメッセージを受け取るべく、不断の信仰を送れば「救われる」。
しかし、「裁きの日」まで「救われる」ことは、ないのだ。
しかも、「救われる者」もあらかじめ、決まっている。
これが一神教の非常にややこしいところで、
日本人の「御利益を求める信仰心」では、到底理解が及ばない。
「救う」「救われない」の枠組みでは常に「神の目」が存在してしまう。
「神は常に見ている」という戒律の中では、行為すべてが神の裁きに依存する。
「依存する」とはつまり、「裁き」に身を捧げることと同義。
全知全能である神は、全てを知っている(全知)。全てを分かっている(全能)。
だから「依存」しようがしまいが、答えはあらかじめ「出ている」のだ。
信仰とは、つまり神に依存せず己の行為すべてに責任をもつことで、
来るべき「神の裁きの日」から逃れること…神の支配の外に立つことに他ならない。
これが本来の一神教の考え方。(レヴィナスやカミュはこちら)
しかし、そうは言っても人間は弱い存在。
現世に救いを求めたい。生きる意味を見出したい。
そこで出てきたのが「原罪」と「贖罪」という考え方。
これは次回。
だからおざなりにしてはいけない…と語ったのは平田オリザだったが、
ニッポンは戦後から今まで、
芸術や宗教はある特定の人間が関わる事物として、
辺境に追いやってきたように思う。
それはすべて「敗戦」時の身の処し方がトラウマとなって
現代にまで尾を引いているからなのだと、ボクは思うのだけど。
(著作権期限を戦勝国には10年延長の謙り方にもそれは出ている)
アルベール・カミュの「異邦人」を舞台で観て、
カミュが伝えようとした「’不条理」が表現されていなかったこと。
それに加え映画「最初の人間」で、
カミュが、キリスト教における「贖罪」の在り方そのものを否定していたこと。
カミュが、アルジェから眺める地中海の水面と降り注ぐ太陽を愛したこと。
そして最近、「ふしぎなキリスト教」を読んだこと。
そういった点から、カミュの置かれていた背景をもっと見極めるべきではないか…と思い、
この一週間、考えを巡らせていた。
レヴィナスの「存在するとは別の仕方で」における「隣人」の捉え方、
カミュ「異邦人」でマルソーが司祭に吐く「逆説的な生への謳歌」、
そのどちらにも西洋の基盤となる「一神教」が大きく影を落としている。
一神教とはそもそもなんなのか?
ユダヤ教における「ヤハウェ」の神が一神教のはじまりだ。
ユダヤの民は古代から己の土地を失い、寄留者で在り続けた。
いつも虐げられ争いが絶えず、神に祈りを捧げるも状況は好転しない。
納得がいかない。自分たちにどんな非があるというのだ。
そこでユダヤの民は神の視点になって考えた。
神がこの世界を創造し、人間をつくった。
数ある人間の中からユダヤの民を選び、神はわたしたちに「試練」を与えた。
「試練」に耐え、神の創造物たらんとすることで、
やがて来る「裁きの日」においてユダヤの民は救われるのだ。
逆転の発想。
どのような悪況に置かれようとも、全知全能の神を崇め、
神のメッセージを受け取るべく、不断の信仰を送れば「救われる」。
しかし、「裁きの日」まで「救われる」ことは、ないのだ。
しかも、「救われる者」もあらかじめ、決まっている。
これが一神教の非常にややこしいところで、
日本人の「御利益を求める信仰心」では、到底理解が及ばない。
「救う」「救われない」の枠組みでは常に「神の目」が存在してしまう。
「神は常に見ている」という戒律の中では、行為すべてが神の裁きに依存する。
「依存する」とはつまり、「裁き」に身を捧げることと同義。
全知全能である神は、全てを知っている(全知)。全てを分かっている(全能)。
だから「依存」しようがしまいが、答えはあらかじめ「出ている」のだ。
信仰とは、つまり神に依存せず己の行為すべてに責任をもつことで、
来るべき「神の裁きの日」から逃れること…神の支配の外に立つことに他ならない。
これが本来の一神教の考え方。(レヴィナスやカミュはこちら)
しかし、そうは言っても人間は弱い存在。
現世に救いを求めたい。生きる意味を見出したい。
そこで出てきたのが「原罪」と「贖罪」という考え方。
これは次回。