#photobybozzo

沖縄→東京→竹野と流転する、bozzoの日々。

【may_01】ヒミズ

2012-05-01 | BOOKS&MOVIES
「いいや、我が子よ」と彼は私の肩に手を置いて、いった。
「私はあなたとともにいます。しかし、あなたの心は盲いているから、
 それがわからないのです。私はあなたのために祈りましょう」

  「盲いる」→「盲目」→「日を見ず」→「ヒミズ」

そのとき、なぜか知らないが、私の内部で何かが裂けた。
私は大口をあけてどなり出し、彼をののしり、祈りなどするなといい、
消えて無くならなければ焼き殺すぞ、といった。
私は法衣の襟首をつかんだ。喜びと怒りの入り混じったおののきとともに、
彼に向かって、心の底をぶちまけた。

キミは自信満々の様子だ。そうではないか。
しかし、その信念のどれをとっても、女の髪の毛1本の重さにも値しない。
キミは死人のような生き方をしているから、自分が生きているということにさえ、自信がない。
私はといえば、両手はからっぽのようだ。しかし、私は自信を持っている。
自分について、すべてについて、キミより強く、また、私の人生について、来るべきあの死について。
そうだ、私にはこれだけしかない。しかし、少なくとも、この真理が私を捉えていると同じだけ、
私はこの真理をしっかり捉えている。私はかつて正しかったし、今もなお正しい。
いつも、私は正しいのだ。私はこのように生きたが、また別な風にも生きられるだろう。
私はこれをして、あれをしなかった。こんなことはしなかったが、別なことはした。
そして、その後は?私はまるで、あの瞬間、自分の正当さを証明されるあの夜明けを、
ずうっと待ち続けていたようだった。何ものも何ものも重要ではなかった。
そのわけを私は知っている。キミもまたそのわけを知っている。これまでのあの虚妄の人生の営みの間じゅう、
私の未来の底から、まだやってこない年月を通じて、一つの暗い息吹が私の方へ立ち上がってくる。
その暗い息吹がその道すじにおいて、私の生きる日々ほどには現実的とはいえない年月のうちに、
私に差し出されるすべてのものを、等しなみにするのだ。

他人の死、母の愛、、、、そんなものが何だろう。
いわゆる神、人々の選びとる生活、人々の選ぶ宿命、、、そんなものに何の意味があろう。

ただ一つの宿命がこの私自身を選び、そして、キミのように、私の兄弟といわれる、
無数の特権あるひとびとを、私とともに、選ばなければならないのだから。

キミはわかっているのか?誰でもが特権を持っているのだ。特権者しか、いはしないのだ。
他のひとたちもまた、いつか処刑されるだろう。キミもまた処刑されるだろう。
人殺しとして告発され、その男が、母の埋葬に際して涙を流さなかったために処刑されたとしても、
それは何の意味があろう?サラマノの犬には、その女房と同じ値打ちがあるのだ。
機械人形みたいな小柄な女にも、マソンが結婚したパリ女と等しく、また、私と結婚したかったマリイと等しく、罪人なのだ。
セレストがレエモンより優れてはいるが、そのセレストと等しく、レエモンが私の仲間であろうと、
それが何だろう?マリイが今日もう一人のムルソーに接吻を与えたとしても、それが何だろう?
この死刑囚め、キミはいったいわかっているのか。私の未来の底から、、、、

こうしたすべてを叫びながら、私は息が詰まってしまった。
                    (アルベール・カミュ「異邦人」より)

  絶対的に他なるもの、それが「他者」である。それは自我と同じ度量衡をもっては計量することのできぬものである。
  わたしが「あなたは」あるいは「私たちは」というときの集団性は、「私」の複数形ではない。
  わたし、あなた、それはある共通概念の個体化したものではない。所有も、度量衡の一致も、
  概念の一致も、わたしを他者に結びつけることはない。共通の祖国の不在、
  それが「他なるもの」を「異邦人」たらしめている。  (エマニュエル・レヴィナス「他者論」より)


映画「ヒミズ」の中で、
二階堂ふみ演じる茶沢景子がスミダに吐くセリフ…

「スミダくんは、スミダくんがつくったルールに縛られているだけなんだよ」

カミュやレヴィナスを引用したのは、
このセリフこそが、社会と対峙する人間の存在の本質を物語っているからに他ならない。

ボクたちは社会に生きるうえで、どれだけの規範を張り巡らし、生活しているのだろう?
その規範がときには人の身動きを奪い、「出口なし」の状態に貶めたりする。
しかし、すべては「相対的」な存在なのだ。

絶対的に「他なるもの」それが他者だとレヴィナスが語るように、
私たちはすべての事象を「こうであろう」という想像の中で捉えているにすぎない。
しかし、「異邦人」の中で主人公のマルソーが司祭にどなりつけるように、
他者を安易に己の想像域に取り込もうとする行為が、その存在を大きく毀損するのだ。

震災を舞台とした園子温監督の「ヒミズ」は、
個々が捕らわれている概念で、他者を大きく毀損することを警鐘している。
そして、震災後のニッポンはその概念が二重三重に重なり合い、
社会全体が大きく毀損しかねない状況に陥っていることを警鐘している。

「しかし」も「だから」も「でも」も「たら」「れば」もない。

いつまでも既成の枠組みにしがみつくのではなく、
新しい規範に己を捉え治すこと、その思考の再構築が求められているのだ。




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