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沖縄→東京→竹野と流転する、bozzoの日々。

【Sep_23】アマヤドリ『野がも』観劇

2018-09-24 | ACT!
アマヤドリ『野がも』観劇。

イプセン1884年の作品。古典である。
古典だからセリフ回しもリズムも、今までのアマヤドリではなく、
どこか朴訥としている。

何故今、『野がも』なのか。

広田さんなりの思いを聞いてみたかったのだけど、
役者的には、今までの当て書きとは違うアプローチで役柄に寄り添うカタチが新鮮…とのこと。

それにしても『野がも』である。

ボクはお初であったのだが、
この戯曲の面白さを十全に受け止められたか…というと、
もやもやとしていた。

大きくは「勝ち組」の豪商ヴェルレ家と「負け組」の没落エクダル家の、
互いに利用し利用されの均衡=大人の事情を、
ヴェルレの息子グレーゲルスが「理想」を掲げて糾弾し、
没落ながらも成立していたエクダル一家の均衡を、
崩壊させてしまう…という内容なのだけど、

そこに対比としてあるのは、
かつてエクダル老人がクマを仕留めた「ホイダルの森」であり、
「野がも」やウサギやハトを野放しにした「屋根裏部屋=納屋」という昏い【自然】である。

グレーゲルスやヤルマール、ギーナやヴェルレ、レニングやセルビー夫人の、
人間社会における愛憎劇とは位相を違えて在るエクダル老人とヘドウィグ少女の、
軸足を【自然】の中に求める鳥瞰的視野が、この『野がも』の戯曲に奥行きを与えるのではないか?

「勝ち組」も「負け組」も所詮は一時の戯れ事。
「森」の幽玄に比べれば、何と些末な出来事でしょう。
…と、イプセンは人間の絶望すらを客体化しているのではないか?


初見の印象では、
あまりにも「グレーゲルスに翻弄されるヤルマールの絶望」が前景に出過ぎて、
山森信太郎さん演じるエクダル老人の世界観が後景に退いてしまった感が、否めなかった。

そういった突き放しがこの作品のキモだと、ボクは思う。
この写真の猫のように、不可解な存在を慈しむ感性が重要なのだと。

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【Sep_23】音無さくら緑地@王子

2018-09-24 | Photo-diary
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