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沖縄→東京→竹野と流転する、bozzoの日々。

【Jul_17】沈思しなくなった、と思う。

2016-07-17 | Mement_Mori
沈思しなくなった、と思う。

井戸の中に沈んで、じっくり考える。
そんな行動ができない世の中になった。
常に電波が介入する。常に情報に脅かされる。

自分たちの意思の外で、流通が侵入してくる。
「買え、買え」と直截的でなくとも、
金銭の出入をうながす流れが、常に生活に介入してくる。

沈思しなくなった、と思う。


それはなぜか。
戦争に負けて政府は、国体の保持に躍起になった。
国体とはなにか?現体制の維持…明治維新から連なる
長州体制・財閥&世襲・既得権の維持のこと。
天皇を冠に配し、天皇の名の下に政治を自由に動かしてきた体制の維持。
その保持のために、政権は日本の魂をアメリカに売ったのだった。

国を守る…という大命題をすべてアメリカに預け、
オカネの巡る流通のシステム=消費社会の構築に邁進した。

もはや魂はなくなったのだ。

沈思して考えることなぞ何もない。
浮き世の流れに身を任せ、自由闊達にカネの亡者となるが良い。

そうやって生きてきた71年。


魂がないから、魂にまつわる思考が育たない。
宗教や信仰に疎く、思想や思惟を積み上げる力が育たない。
時間をかけて「思考を熟成」させる忍耐がない。

取り返しのつかない所まで来てしまった…と思う。

流通=合理化とは、科学的視座に根ざした「私欲」の正当化であり、
合理化への思考に基づいて編成されるすべての組織は、
何よりもまず欲望(私欲)の実現を希求する。

魂を売ってしまったこの国に残されているのは、
ひたすら欲望をカネに変換するシステムのみ。

政治も理念を喪い、ひたすら欲望の正当化に走る。

魂は、個に宿る。
「個」を起点とし、「個」の救済が「他」へ伝播する。
明治以前に偏在していた「土俗の魂」は、
「個」の苦悩を解放すべく、「他」の苦悩を請け負っていた。
他者救済が、自己救済へとつながる「平等社会」であった。
それが、あまねく日本の信仰として、在った。

「サンフランシスコ・システム」


魂を売ったあとに残されたこの国のシステムの名だ。
1951年に締結された「サンフランシスコ講和条約」で主権を回復したとされる日本。
その裏で結ばれた「日米安全保障条約」から1960年に更新された「新日米安全保障条約」。
その条約とセットになっている「日米行政協定」のちの「日米地位協定」と、
さらにその密約とも言える「吉田アチソン交換公文」と「国連軍地位協定」。
敗戦後71年経っても効力を保つこれらの条約から導かれるこの国の態様は、「占領下の戦時体制」である。

敗戦国ニッポンは、いまも継続している。


この国を牛耳る政権は、この国の主権をすべて差し出すことで、
自己保身を成就し、国民を煙に巻くことで、そのポジションを正当化していたのだ。

「基地権」と「指揮権」の全面移譲。

国連軍=在日米軍のトリックで、朝鮮半島で平和条約が締結されない限り、
米軍は自由に日本国土を使う権利と、自衛隊を指揮する権利を持つ。

そもそも9条が存在する中で「警察予備隊=自衛隊」が1950年に創設された背景は、
このトリック=指揮権を持たない軍隊だから違憲ではない…という理屈。
たとえ自衛隊が核兵器を保持しようが、海外へ派兵しようが、指揮権が米軍にある限り、違憲ではない…という理屈なのだから。

「安保法案」の成立はその法化であり、「緊急事態条項」とは米軍指揮の体制を整えるためのもの。

安倍政権が目指している「憲法改悪」の根幹は、このサンフランシスコ・システムの固定化なのである。
GHQによる制定だから自国の憲法を…とのたまうのなら、まずは「占領下の戦時体制」を覆すことが先決であるのに、
その言明は避け、対米属国の事実に向き合わず、対国民に対して威厳を固持する。

トルコ軍がクーデターを興したニュースが、先日紙面を騒がしていたが、
そのニュースに対しての日本国民の、マスコミの鈍感なこと。
自衛隊の将校がどのように制定されているか、少しでも疑念は浮かばなかったか?
この国の軍隊とも言える自衛隊が、蜂起しないとも限らない…とは思わなかったのか?

国の軍隊であれば、このようなクーデターを想定した将校選定の法が存在する。
アメリカでは国会による審査が行われ、国民の耳目を集めた上で将校の選定となる。他国も同様。
この国では、自衛隊に対しての客観的視点が失われたままだ。何故か?
それは「指揮権」を持たない軍隊だからである。
政府は傀儡であり、内実はすべて米軍に移譲されている。
だから、将校への審査も存在しない。クーデターもあり得ない。飼い慣らされた犬で在り続ける。

中上健次の「路地」であり、
高橋和巳の「邪宗門」であり、
三島由紀夫の「豊饒の海」であるところの、魂の消滅は1970年から警鐘されていた。

個の救済が信仰を産み、「慈愛」を行き渡らせるのだ…という、作家の訴えも潰えた。


残された道は、ひとりひとりがこの状況を真摯に受け止め、沈思することのみ。
「国家」こそ妄想である…という事実に早く向き合い、魂の救済へ一丸となって進むべし。

【Jul_16】高橋和巳『わが解体』

2016-07-17 | BOOKS&MOVIES
三島由紀夫、中上健次とともに
ボクの中では忘れることの出来ない作家、高橋和巳。

これは全共闘世代に最も読まれた学園紛争のドキュメント。
1971年3月の刊行。装幀は杉浦康平氏。

「如何せん如何せんと言うことなき者、我これを如何せん」

彼が生涯を通じて訴えたのは、
この世界は変革されるべきものであるという一貫した主張であり、
文学とはそのための手段である…という貫かれた姿勢。

三島由紀夫、中上健次、高橋和巳…。


真摯に時代と向き合い、瓦解してしまった作家たちの
その崇高な生き様を、今こそ見倣うべきとき。