森達也監督作品「FAKE」@渋谷ユーロスペース
「ドキュメンタリーby森達也、出演by佐村河内守」(共通キャッチ)
「好きな人と観に来て欲しい、これはふたりの物語」(チラシ用キャッチ)
「誰にも言わないでください。衝撃のラスト12分間」(web用キャッチ)
この文言を見るだけでも、この映画が様々な位相に彩られているか分かると思う。
タイトルもFAKE。仕掛ける…という意味である。
森達也&佐村河内守の組み合わせで異例の盛況ぶり。
その振り回し方&振り回され方が、この映画の真髄を物語っている。
ボクのうちにはテレビがないので、2014年の一連の騒動の熱といったものは、正直よく分からない。
佐村河内さんの作品も聴いたことがないので、
このアーティストがどの程度「現代のベートーヴェン」だったのかも、知らない。
だから冷静にこの映画を捉えることができた。
要はこないだのゲンロンカフェでオリザさんが語っていたこと、
そのままがカタチになった映画だと思う。
世間の「分かりやすさ」への希求に応えたマスコミの徒花が佐村河内さんなのだと。
森達也監督もそのことをよく理解していて、
決して「佐村河内=善、マスコミ=悪」の勧善懲悪の二元論に落とし込んでいない。
その証拠に相方の新垣隆氏のコメントを組み込んでいない(断られたにしてもだ)。
徹頭徹尾、佐村河内さんの閉塞した自宅からの目線で映画は語られている。
それでも勧善懲悪に落とし込まず、最後の最後まで「虚偽」「真実」のあいだを行き来する、
グレイゾーンに終始しているのは、オリザさん言うところの
「答えを出さない=問題を提示するのが作品の務め」であることを監督が分かっているからだろう。
とはいえ、これだけこの映画が話題となっているのは、
「分かりやすさ」を希求している受け手の思考停止が末期的症状に陥っているからだと、ボクは考える。
2014年の報道で、散々このアーティストをコケ落としていた聴衆が、
自責の念も込めてこの映画によって彼に懺悔を捧げているのか、
この映画の語る「真実」を鵜呑みにして、賛美を与えようとしているのか。
どちらにしても、受け手は思考停止の状態のままである。
「分かりやすさ」&「答え=真実」を引き出そうとしている。
映画の中でフジテレビが、佐村河内さんを年末のバラエティ番組に出演依頼をかけ、
その出演を断った番組を視聴した彼が憤る場面で監督が
「マスコミは話題の人物をどう料理すれば視聴者が喜ぶか、その一点で番組を作っている。
あなたの真実がどうかというのは、ハナから頭にないのだ」と語るのだけれど、
それが結局、「分かりやすさ」への希求なのだ。
これは資本主義が生んだ「消費者思考」が
敗戦後の71年で完全に染み付いてしまった結果だと、ボクは思う。
すべての取引が「金銭」を媒介にして成立してしまう「消費社会」においては、
「消費者」は常に上目線である。
自身の理解度を高めるのではなく、「商品」の価値に応じるカタチで、常に取引を行っている。
理解不能な「商品」には手を出さない。だから取引は成立する由もない。
市場は「消費者」のレベルに応じた「商品」をとにかく大量生産する。
たくさん売れれば「もうけ」になるからだ。
マスコミもその坩堝に完全に取り込まれている。
つい最近の舛添報道にしても、
彼の「真実」よりも彼の「去就」が数字になるという理由だけで、追求の手を止めなかった。
「消費者思考」はこのようにポピュリズムにとことん平準化されていく。
「カネで全てが解決する」そのマインドを棄てなければ、
物事はすべて「分かりやすさ」へと堕落していくことだろう。
この映画はその現象を自ら作り出すことで
客体化することに成功しているのだと、ボクは感じた。
まずは思考せよ…なのだ。
「ドキュメンタリーby森達也、出演by佐村河内守」(共通キャッチ)
「好きな人と観に来て欲しい、これはふたりの物語」(チラシ用キャッチ)
「誰にも言わないでください。衝撃のラスト12分間」(web用キャッチ)
この文言を見るだけでも、この映画が様々な位相に彩られているか分かると思う。
タイトルもFAKE。仕掛ける…という意味である。
森達也&佐村河内守の組み合わせで異例の盛況ぶり。
その振り回し方&振り回され方が、この映画の真髄を物語っている。
ボクのうちにはテレビがないので、2014年の一連の騒動の熱といったものは、正直よく分からない。
佐村河内さんの作品も聴いたことがないので、
このアーティストがどの程度「現代のベートーヴェン」だったのかも、知らない。
だから冷静にこの映画を捉えることができた。
要はこないだのゲンロンカフェでオリザさんが語っていたこと、
そのままがカタチになった映画だと思う。
世間の「分かりやすさ」への希求に応えたマスコミの徒花が佐村河内さんなのだと。
森達也監督もそのことをよく理解していて、
決して「佐村河内=善、マスコミ=悪」の勧善懲悪の二元論に落とし込んでいない。
その証拠に相方の新垣隆氏のコメントを組み込んでいない(断られたにしてもだ)。
徹頭徹尾、佐村河内さんの閉塞した自宅からの目線で映画は語られている。
それでも勧善懲悪に落とし込まず、最後の最後まで「虚偽」「真実」のあいだを行き来する、
グレイゾーンに終始しているのは、オリザさん言うところの
「答えを出さない=問題を提示するのが作品の務め」であることを監督が分かっているからだろう。
とはいえ、これだけこの映画が話題となっているのは、
「分かりやすさ」を希求している受け手の思考停止が末期的症状に陥っているからだと、ボクは考える。
2014年の報道で、散々このアーティストをコケ落としていた聴衆が、
自責の念も込めてこの映画によって彼に懺悔を捧げているのか、
この映画の語る「真実」を鵜呑みにして、賛美を与えようとしているのか。
どちらにしても、受け手は思考停止の状態のままである。
「分かりやすさ」&「答え=真実」を引き出そうとしている。
映画の中でフジテレビが、佐村河内さんを年末のバラエティ番組に出演依頼をかけ、
その出演を断った番組を視聴した彼が憤る場面で監督が
「マスコミは話題の人物をどう料理すれば視聴者が喜ぶか、その一点で番組を作っている。
あなたの真実がどうかというのは、ハナから頭にないのだ」と語るのだけれど、
それが結局、「分かりやすさ」への希求なのだ。
これは資本主義が生んだ「消費者思考」が
敗戦後の71年で完全に染み付いてしまった結果だと、ボクは思う。
すべての取引が「金銭」を媒介にして成立してしまう「消費社会」においては、
「消費者」は常に上目線である。
自身の理解度を高めるのではなく、「商品」の価値に応じるカタチで、常に取引を行っている。
理解不能な「商品」には手を出さない。だから取引は成立する由もない。
市場は「消費者」のレベルに応じた「商品」をとにかく大量生産する。
たくさん売れれば「もうけ」になるからだ。
マスコミもその坩堝に完全に取り込まれている。
つい最近の舛添報道にしても、
彼の「真実」よりも彼の「去就」が数字になるという理由だけで、追求の手を止めなかった。
「消費者思考」はこのようにポピュリズムにとことん平準化されていく。
「カネで全てが解決する」そのマインドを棄てなければ、
物事はすべて「分かりやすさ」へと堕落していくことだろう。
この映画はその現象を自ら作り出すことで
客体化することに成功しているのだと、ボクは感じた。
まずは思考せよ…なのだ。