「春の祭典」と新作「微分の堆積」の2作品、2時間強の公演。
YUKIO SUZUKI projects「warp mania #1」@シアタートラム
振付・演出/鈴木ユキオ
出演/安次嶺菜緒・堀井妙子・赤木はるか・新宅一平・五十嵐結也・鈴木ユキオ
2つの作品、アプローチは違えど、
着地点は人間の自由ってなんだ?ってことなのでは?
「春の祭典」は、楽曲を扱うにあたっての制約から100年目を迎えた「春祭」が歩んできた歴史を繙き、
自らの制約で雁字搦めになる人間を客体化し、そこから解き放たれる
本来の「人間」像を浮き彫りにしようというレクチャー仕立ての作品。
しかしその自由とは「解き放たれる=自由」ではなく、
「選択しない=自由」、やりたくないものはやらない、
隷属しない自由だということ。
それは第二部「微分の堆積」のアプローチから見事に浮き上がってきて、
とてもしっくり来たのだけど、まさに「コムニタス」そのもの。
「コムニタス=身分序列、地位、財産さらには男女の性別や階級組織の次元、
すなわち、構造ないし社会構造の次元を超えた、あるいは棄てた、
反構造の次元における自由で平等な実存的人間の相互関係のあり方」
個性的なダンサー5人がそれぞれのカラダから発せられる内なる声に従って動くのであるが、
それが時間とともに同調しあい、やがてひとつの調和を生んで結実する。
「乱れた気持ちもダンスとともに整ってゆく」と演者の堀井さんも云っていたのだけど、
構造的な制約があっての協調ではなく、
個々のカラダが整うことで親和性を深めていく同調だということ。
そこには男女の性差や社会的位置付けを超えたところに存在する、
カラダあっての「気持ちの良い」=「やりたくないことはやらない」自由が在る。
「グローバル資本主義のトッププレイヤーたちはもう身体を持っていない。by内田樹」
の逆をいくカラダ本位の考え方。
カラダ本位だから常に生身がさらされ、きわめて緊張をはらんだ、
互いに傷つきやすい関係が基本となるのだけど、
その痛みに立ち返らなければ、
【人間】が【にんげん】でなくなる時代がやってくるのだ。
「イヤなことをイヤと言えない」制度や慣習、世相からあるべき自分を導き出し、
外堀を埋められた存在を【自由】だと勘違いしている輩からは、コムニタスは生まれない。
今一度、自身のカラダを動かし、自身の内なる声を聞け!
室伏鴻さんから引き継がれるユキオさんなりのメッセージ、
鳩尾にグッと来ました〜!
大人の成熟ある2作品、ありがとうございました〜!