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沖縄→東京→竹野と流転する、bozzoの日々。

【Mar_23】人間はすべて障害者である。by辺見庸

2016-03-23 | ACT!
人間はすべて障害者である」by辺見庸氏。
生きるコトを全肯定する力強いコトバたち。一読あれ。


「人間というのは疾病なのだ」と。僕も、ほぼ同感ですね。
巨視的に見た場合、物質には健常体などというものはありませんよね。
それと同様に、人間存在にも健常体などというものはない。
哲学的な意味で「人間とは疾病なのだ」というイメージを持つことにより、
僕なんかは個人的にほっとするところがある。

健常という概念は、常に「健常であるべき」という強制力=イデオロギーを含みますしね。
それともう一つ、僕はなぜか、不揃いで欠損のあるもの、
そして“正気”ではないもの、正気ではないとみなされるものに、強く惹かれるのです。

その逆には吐き気をもよおします。

「病院という閉域は、刑務所や拘置所、学校同様に、
人と人の関係性がいわば制度的に偏方向的になりやすい。
患者と医師、囚人と看守というように<見る>と<見られる>が不当にはっきりします」(「自分自身への審問」)。

たとえば障害者福祉の現場でも「見守り」という言葉があるように、
障害者は健常者に一方的に<見られる>存在でしかない。
この双方向性を欠いた一方的な視線こそが、健常幻想の暴力の根なのではないか。

そもそも人間存在が有用であるべきかどうかということがあります。
僕はそうは思わないですけれど、人間存在が有用ではないかもしれない
という前提を持つこと自体、いまの社会は許さないようなところがある。

それともう一つは、人間存在が「どう望まれているか」ですね。
たとえば障害者とカテゴライズされた人々は何を期待されているのか。
おそらく、有用であるように望まれているのだと思います。
社会ないしは国家というものに──あるいは労働力という機能としてともいえるでしょうが──
役に立てるような身体たるべく強制されている。

それは、人間は健常であるべきという圧力と等しい。

──まあ、健常であるべきだという圧力は強いですよね。

ますます強くなってきている。
それは政治的なというよりも、むしろ資本主義的な圧力でしょう。
健常さを迫られているとでも言いましょうか。

こう、みんなで同じ歌を歌うとか(笑)、
みんなで統一されたシュプレヒコールを乱さないように叫ぶとか。

その中で一人だけ違うことを言ったり、違う行動を取ったりすると、
たちまち病者にされてしまう。

僕はそうした嫌な光景を色んな現場で見せられました。
われわれはいま、そんな社会に生きているのだと思います。

国家というのは純粋国家化といいますか、剥き出しの国家と化しつつあるのですね。

それで、僕が最近、いちばんグロテスクだと思い、
恐怖を覚えたのが「一億総活躍社会」というスローガン。

国民すべてに活躍せよと強制する──これは暴力以外の何物でもありません。

このスローガンに反発する声が少ないことに僕は驚くのです。
かつては、こういうことは冗談でもなかなか言えなかった。
一億総活躍って、余計なお世話だっての(笑)。

仮に体が動こうが、お役に立てようが、
こちらは活躍なんてしたくないわけですから。

それはともあれ、一億総活躍とはとんでもない国家スローガンであって、
そうした文言が出てくる状況というのは、やはり1930年代あたりに似ている。
ファシズムの時代ですね。

ある意味、現在の日本国はファシズムを反復しようとしているように見えます。
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