「世界一すてきな僕たち私たち」
江東区の発達障碍を抱える子どもたちの放課後施設「こぴあクラブ」で
日々自身と格闘しながらも成長をする自閉症の子どもたちの3年間を記録したドキュメンタリー。
漠然と「自閉症」を理解したつもりでいたのだけど、この映画で認識を新たにした。
自閉症の子どもたちは、未来を予測することができない。
あらかじめ予定していたスケジュールや行き先が、何かの都合で変更になったり、
不意の出来事で日常の営みが崩れてしまうと、その不可視な先行きを受け入れなくなり、
パニック状態へと陥ってしまう。
そして、重度の障碍をもつ「こぴあクラブ」の子どもたちは、
その不安な心持ちを言葉にすることができない。
言葉に出来ない…とは、アタマで理解することが出来ないと同義。
つまり、感情の突発的な乱れに為す術が、ない…のだ。
しかし、彼らが決して閉塞的で変化を求めない…かというと、それは大きな誤解なのだ。
これが、今回映画を観て、大きく心揺さぶられたところ。
彼らは、決してその不可視な先行きに心を閉ざしているのではなく、
その新たな展開に対して、自分をどのように適応させていこうか…と藻掻いているだけなのだ。
健常者における異国体験に近い。
すぐさま異国の食事に馴れる人もいれば、いつまでも抵抗する人がいる…のと同じ。
その未開の状況をどのように呑み込もうか、どのように受け入れようか、
自閉症の子どもたちは、その適応度合いが極端に遅いだけなのだ…と。
この映画で、自閉症の子どもたちは、自分を新地に適応させようと、アタマと身体をフルオープンさせていた。
そう、「自閉」ではなく、「自開」。
その苦悶は、彼らなりのがんばりの証だったのだ。
「自閉症」と名づけ、いかに自分たちが都合良く彼らを丸め込んでいたか、自省するしかなかった。
この映画を観なかったら、完全に見過ごしていた、大いなる誤解。
人と人との理解の隔たり。思えば、世の中、そんなことばかりだ。
どれだけ相手に寄り添うことができるか、それが今後のカギなのだ…と、この映画は教えてくれた。
江東区の発達障碍を抱える子どもたちの放課後施設「こぴあクラブ」で
日々自身と格闘しながらも成長をする自閉症の子どもたちの3年間を記録したドキュメンタリー。
漠然と「自閉症」を理解したつもりでいたのだけど、この映画で認識を新たにした。
自閉症の子どもたちは、未来を予測することができない。
あらかじめ予定していたスケジュールや行き先が、何かの都合で変更になったり、
不意の出来事で日常の営みが崩れてしまうと、その不可視な先行きを受け入れなくなり、
パニック状態へと陥ってしまう。
そして、重度の障碍をもつ「こぴあクラブ」の子どもたちは、
その不安な心持ちを言葉にすることができない。
言葉に出来ない…とは、アタマで理解することが出来ないと同義。
つまり、感情の突発的な乱れに為す術が、ない…のだ。
しかし、彼らが決して閉塞的で変化を求めない…かというと、それは大きな誤解なのだ。
これが、今回映画を観て、大きく心揺さぶられたところ。
彼らは、決してその不可視な先行きに心を閉ざしているのではなく、
その新たな展開に対して、自分をどのように適応させていこうか…と藻掻いているだけなのだ。
健常者における異国体験に近い。
すぐさま異国の食事に馴れる人もいれば、いつまでも抵抗する人がいる…のと同じ。
その未開の状況をどのように呑み込もうか、どのように受け入れようか、
自閉症の子どもたちは、その適応度合いが極端に遅いだけなのだ…と。
この映画で、自閉症の子どもたちは、自分を新地に適応させようと、アタマと身体をフルオープンさせていた。
そう、「自閉」ではなく、「自開」。
その苦悶は、彼らなりのがんばりの証だったのだ。
「自閉症」と名づけ、いかに自分たちが都合良く彼らを丸め込んでいたか、自省するしかなかった。
この映画を観なかったら、完全に見過ごしていた、大いなる誤解。
人と人との理解の隔たり。思えば、世の中、そんなことばかりだ。
どれだけ相手に寄り添うことができるか、それが今後のカギなのだ…と、この映画は教えてくれた。