東京国立近代美術館で行われている「岡本太郎展」へ足を運んだ。
評判通りの人だかりで、はじめためらわれたが、
それでも平日午前中とあって、館内はスムーズに見ることができた。
そこで岡本が1948年に記した文章に目が留まった。
我々は現実を正面からぶつかって行かなければならない。
この態度は単にロマンチックなものではなく、むしろ逆にロマンチックであると同時に
極度にレアリスティックなものとでも云ふべきであろう。
まづ冷静に現実を観察して、上述の二つの極性を見究め、
これを主体的にとらへることによつて、相互を妥協折衷することなく、
逆に矛盾の深淵を絶望的に深め、その緊張の中に前進するのである。
今日峻厳な魂は合理主義、非合理主義のいづれかに偏向し、安心立命すべきではない。
又それらを融合して微温的なカクテールをつくるべきものでもない。
その精神の在り方は、強烈に吸引し反撥する緊張によつて両極間に発する火花の熾烈な光景であり、
引裂かれた傷口のやうに、生々しい酸鼻を極めたものである。
これは当時の画壇で対立していた「抽象絵画」と「シュルレアリスム」を
受けて岡本太郎がとらえた【対極主義】の宣言である。
しかしボクはここに原発推進と原発反対の対立を見た。
そして、そこに対極する姿勢として私たちが取るべき態度を見たのだ。
「ロマン」とは未来志向であり、「リアル」とは現実主義である。
「事勿れ」の対応ではもはや済まされない、原発の問題。
ここはひとつ大いに議論するべきではないか。
そして、その対極にこそ、新たな地平が見える。
岡本太郎氏の「明日の神話」のように。
評判通りの人だかりで、はじめためらわれたが、
それでも平日午前中とあって、館内はスムーズに見ることができた。
そこで岡本が1948年に記した文章に目が留まった。
我々は現実を正面からぶつかって行かなければならない。
この態度は単にロマンチックなものではなく、むしろ逆にロマンチックであると同時に
極度にレアリスティックなものとでも云ふべきであろう。
まづ冷静に現実を観察して、上述の二つの極性を見究め、
これを主体的にとらへることによつて、相互を妥協折衷することなく、
逆に矛盾の深淵を絶望的に深め、その緊張の中に前進するのである。
今日峻厳な魂は合理主義、非合理主義のいづれかに偏向し、安心立命すべきではない。
又それらを融合して微温的なカクテールをつくるべきものでもない。
その精神の在り方は、強烈に吸引し反撥する緊張によつて両極間に発する火花の熾烈な光景であり、
引裂かれた傷口のやうに、生々しい酸鼻を極めたものである。
これは当時の画壇で対立していた「抽象絵画」と「シュルレアリスム」を
受けて岡本太郎がとらえた【対極主義】の宣言である。
しかしボクはここに原発推進と原発反対の対立を見た。
そして、そこに対極する姿勢として私たちが取るべき態度を見たのだ。
「ロマン」とは未来志向であり、「リアル」とは現実主義である。
「事勿れ」の対応ではもはや済まされない、原発の問題。
ここはひとつ大いに議論するべきではないか。
そして、その対極にこそ、新たな地平が見える。
岡本太郎氏の「明日の神話」のように。