#photobybozzo

沖縄→東京→竹野と流転する、bozzoの日々。

【CAMEL】操上和美×町口覚(2)

2009-11-27 | memories
1936年生まれの操上和美さんが
2009年から新たな媒体を立ち上げる。

…写真集ではなく、雑誌という形態で。

そこには写真家・操上さんなりのスタンスがあった。

「じっとしていると観念が勝っちゃうんですよ。
 運動をしないと駄目なんで。」

「写真に向かうエモーショナルな感覚を大事にしたい」

「コンセプトありきで動くと写真がつまらなくなる。
 ブレながらも直感を第一に。だから運動が必要なんです。」

写真は欲望の断片…と語った操上さん。
自分の感性をニュートラルに維持するにも
運動としての雑誌【CAMEL】は必要なのだという。

観念で撮ったら、つまらなくなる…そのスタンスは
どこまでも写真家操上和美そのもの。

今回のアイコンである「清原和博」も、
無冠の帝王が持つ不器用で一途な生き方に
「生きる哀しみ」を見たから。

そこに自分の欲望が動いたから…だという。

      ●

トークショー終了後、
サイン欲しさに購入した「NORTHERN」手に
操上和美さんの前へ。

40年以上第一線で突っ走ってきた操上さんの
唯一過去を振り返った写真集「NORTHERN」(2002年出版)。

生まれ故郷、北海道富良野の情景が132点も収められた
ルーツを辿る旅も、操上和美なりの欲望が動いた結果なのだろう。

84歳で荼毘に付された父の写真のあとに、娘であるボクの友人の写真があった。

「この下にサインしてください。」

少し照れながらも、筆ペンをゆっくり走らせ、
…Kurigami…とサインする操上さんに
あらためて畏敬の念を抱き、見つめる。

最後に握手を交わし、しかとパワーを受け取った。

「Respectが人を育てる。」
そんな言葉を思い出した。

今ボクがここに立っていること、
それはリアルな写真家「操上和美」のおかげだ!
…と、23年の月日を振り返りながら思う。

胸がいっぱいになった一日だった。






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【CAMEL】操上和美×町口覚 (1)

2009-11-27 | memories
11月26日。木曜日。
ヒートテックでは汗ばむ陽気。
今週末はこんな感じで温かいらしい。

18度が温かいって、…2ヶ月住めば人間変わるもんだ。

西麻布のSwitchにて行われた
雑誌CAMEL発刊記念トークショーへ行く。
写真家操上和美がしかける
彼自身の責任編集による季刊誌…とのこと。

エディトリアルデザインを務めた
パリフォト帰りの町口覚さんも
今日は少し緊張気味。

そりゃそうだ、あの操上和美だ。
見てる側も血潮がドクドクとしてきた。

      ●

話は高校時代に遡る。

高校二年生の春休み、友人に感化されたボクは
美大受験の名門予備校であったすいどーばた美術学院の春期講習会に参加する。

1986年のころだ。

バブルが徐々に上がってきて
「カネは天下の回りもの」な感が出てきたころ。
中森明菜が「デザイヤー」を歌い、欲望を扇動していた。

練馬の高校生だったボクは、
アタマこそ紫色のロン毛ではあったが、
世間擦れしておらず、ウブな可愛い男だった。

だから美大に行くことで開ける世界も
まったくわかっておらず、ただ「絵が好きだから」
…という理由だけで来てしまった志望動機の希薄な生徒だった。

少数先鋭ながらも
都内各地から志しの高い高校生が
その春期講習会には集まった。

毎日が目からウロコの状態だった。

こんな衝撃は男子校に入った時以来。

練馬の田舎モンからすれば、
渋谷から通ってくる高校生は
異彩を放っていた。

ファッションも奇抜でツッパッていながら、
センスもハイレベルで話題も多岐にわたり(映画・芸術・写真・・・)、
当然のごとく絵も「上等」だった。

こちらは容姿こそ派手ではあったが、
中身が伴っておらず、ツッパリ度合も生易しい
チェリーボーイってありさま。

そんな自分を逆に面白がってくれたのか、
講習も終盤にさしかかると、渋谷の連中とつるむような関係となり、
授業終了後に池袋でお茶をしてうだうだダベることもしばしば。

そのメンバーの中に、一際色彩センスの鋭い女の子がいた。
…それが操上和美さんの娘だった。

ボクはそこで初めてリアルな「写真家」を知ることとなる。

当時操上さんはADの浅葉さんやCの糸井さんらとPARCOの広告を手がけていた。
ADやCなどというアルファベットが何を意味しているのか、ウブな高校生は知るよしもない。
だいたい広告制作のイロハすら、まったくわかっていなかった。

それでも「操上和美」という名前は字面そのままのインパクトで強烈に焼き付いた。

当時のボクにとって、リアルに活躍する写真家は「操上和美」ただひとりだった。




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