「ルイス・バラガン邸をたずねる」は文字通り、
ワタリウム美術館にバラガンが40年過ごしたメキシコシティの自邸を再現した展覧会。
展示を楽しむ…というよりも、その空間に思いを馳せる。
日曜日の昼だというのに客足もまばらで、じっくりとその空間を味わうことが出来た。
しかし、バラガン邸を知っている人間なら、その空気も想起されたのだろうが、
写真だけの前知識では、さすがにメキシコの光までは見えてこなかった。
だが、3階では美術館スタッフが自ら足を運んで捉えたバラガン邸の映像が流れており、
その映像を堪能することで、自邸の空気感・立体感が面前に現れてきた…ように思う。
食い入るように分け入るように自邸の空気を読みとろうと画面を凝視した。
すると、メキシコの強烈な太陽が上から注ぎ込み、調度品に反射するような錯覚が生まれた。
リビングの大きく開かれた窓からは露出オーバーな庭木のシルエットが見える。
●
書棚に詰め込まれた本…壁に掛けられた黄一色のキャンバス…物陰には足の塑像…。
すべてが調和を持って、そこに在った。
それぞれが没することなく、しっかりとした存在感でどっしりと、そこに在った。
バラガンが愛したモノたちが、主人への敬意を持って、そこに在った。
●
それが何よりも、気持ち良かった。
おそらく実際の自邸は、もっと強烈なインパクトで
訪れる者を迎えてくれるのだろう。
この空間は理想だ…そんな思いで、美術館を後にした。
●
11月2日。月曜日。
昨日とは打って変わってどんよりとした天気。
国立の藤川孝之さんを訪ねる。
ちょうどアトリエ展を開催中だ。(明日まで)
藤川さんとは予備校時代からお世話になっていた先輩で
もう22年の付き合いになる。
個展の案内は、オキナワ時代にも常に送って頂いてたので、
今回こそはしっかりとその絵を堪能しようと中央線に乗り込んだ。
移り住んでから初の中央線。
眼下に高円寺の町並みを眺め、また懐かしく思う。
(なんだか懐かしんでばかりだ)
およそ1時間ほどで国立駅に到着。
東から西へトウキョウを横断したカタチ。
なるほど、これはちょっとした距離。
歩いて藤川さんのアトリエへ。
●
時代に逝き遅れた墓標のように、住宅街に忽然と、その2階建ての建物は、そこに在った。
木製の引き戸に這い上がるような木の階段。
2階は窓も大きく、晴れた日には木漏れ日がキラキラと部屋いっぱいに舞うのだ…という。
今日のような曇り空には吊された裸電球がよく似合う。
綺麗に展示されたドローイングたちや塑像が息を潜めてお出迎え。
ミルで丁寧に挽かれた味わい深い珈琲をいただき、ゆっくりとドローイングたちを鑑賞する。
バラガン展で味わった感慨がよみがえる。
すべてが調和を持って、そこに在った。
描かれたドローイングたちはもちろん、長年使われた道具たちや、
積み上げられたキャンバス、堆積した20年という時間が沁み込んだ壁。
その息づかいが訪れる者に呼応するかのように、振幅する。
…さっと降り注がれた雲間の光。
木の葉のカタチに輪唱する白壁の光の軌跡。
モノを愛し、愛でることで生まれるであろう…その充溢した空間。
まるで日だまりのように、あたたかなひととき。
バラガンがそうであったように、藤川さんもまた、
この場所で思索し、試行し、一歩ずつ創造の輪を広げていったことだろう。
その調和が、なにより心地よいのだ。
●
この感覚をシカと刻もう…そんな思いで、
藤川さんのエッチングを購入して帰る。
ルイス・バラガンは語る。
ノスタルジーとは、個人の過去に対する詩的な認識のことです。
芸術家にとっては、自分自身の過去は、創造力の源になります。
建築家も、自らのノスタルジーの啓示に、耳を澄ませてみなければなりません。
「そこに在る」心地よさとは、
「そこに在った過去」から連綿と続く「現在」へと貫いていた。
まさに時間の堆積が生む心地よさではなかったか。
おのれを偽らず、おのれの過去を偽らず、
堆積した時間をリスペクトし、在るがままを表出しよう。
創造とは、過去との呼応がその飛躍の鍵を握るのだ…。
そんな思いに触れた二日間だった。
ワタリウム美術館にバラガンが40年過ごしたメキシコシティの自邸を再現した展覧会。
展示を楽しむ…というよりも、その空間に思いを馳せる。
日曜日の昼だというのに客足もまばらで、じっくりとその空間を味わうことが出来た。
しかし、バラガン邸を知っている人間なら、その空気も想起されたのだろうが、
写真だけの前知識では、さすがにメキシコの光までは見えてこなかった。
だが、3階では美術館スタッフが自ら足を運んで捉えたバラガン邸の映像が流れており、
その映像を堪能することで、自邸の空気感・立体感が面前に現れてきた…ように思う。
食い入るように分け入るように自邸の空気を読みとろうと画面を凝視した。
すると、メキシコの強烈な太陽が上から注ぎ込み、調度品に反射するような錯覚が生まれた。
リビングの大きく開かれた窓からは露出オーバーな庭木のシルエットが見える。
●
書棚に詰め込まれた本…壁に掛けられた黄一色のキャンバス…物陰には足の塑像…。
すべてが調和を持って、そこに在った。
それぞれが没することなく、しっかりとした存在感でどっしりと、そこに在った。
バラガンが愛したモノたちが、主人への敬意を持って、そこに在った。
●
それが何よりも、気持ち良かった。
おそらく実際の自邸は、もっと強烈なインパクトで
訪れる者を迎えてくれるのだろう。
この空間は理想だ…そんな思いで、美術館を後にした。
●
11月2日。月曜日。
昨日とは打って変わってどんよりとした天気。
国立の藤川孝之さんを訪ねる。
ちょうどアトリエ展を開催中だ。(明日まで)
藤川さんとは予備校時代からお世話になっていた先輩で
もう22年の付き合いになる。
個展の案内は、オキナワ時代にも常に送って頂いてたので、
今回こそはしっかりとその絵を堪能しようと中央線に乗り込んだ。
移り住んでから初の中央線。
眼下に高円寺の町並みを眺め、また懐かしく思う。
(なんだか懐かしんでばかりだ)
およそ1時間ほどで国立駅に到着。
東から西へトウキョウを横断したカタチ。
なるほど、これはちょっとした距離。
歩いて藤川さんのアトリエへ。
●
時代に逝き遅れた墓標のように、住宅街に忽然と、その2階建ての建物は、そこに在った。
木製の引き戸に這い上がるような木の階段。
2階は窓も大きく、晴れた日には木漏れ日がキラキラと部屋いっぱいに舞うのだ…という。
今日のような曇り空には吊された裸電球がよく似合う。
綺麗に展示されたドローイングたちや塑像が息を潜めてお出迎え。
ミルで丁寧に挽かれた味わい深い珈琲をいただき、ゆっくりとドローイングたちを鑑賞する。
バラガン展で味わった感慨がよみがえる。
すべてが調和を持って、そこに在った。
描かれたドローイングたちはもちろん、長年使われた道具たちや、
積み上げられたキャンバス、堆積した20年という時間が沁み込んだ壁。
その息づかいが訪れる者に呼応するかのように、振幅する。
…さっと降り注がれた雲間の光。
木の葉のカタチに輪唱する白壁の光の軌跡。
モノを愛し、愛でることで生まれるであろう…その充溢した空間。
まるで日だまりのように、あたたかなひととき。
バラガンがそうであったように、藤川さんもまた、
この場所で思索し、試行し、一歩ずつ創造の輪を広げていったことだろう。
その調和が、なにより心地よいのだ。
●
この感覚をシカと刻もう…そんな思いで、
藤川さんのエッチングを購入して帰る。
ルイス・バラガンは語る。
ノスタルジーとは、個人の過去に対する詩的な認識のことです。
芸術家にとっては、自分自身の過去は、創造力の源になります。
建築家も、自らのノスタルジーの啓示に、耳を澄ませてみなければなりません。
「そこに在る」心地よさとは、
「そこに在った過去」から連綿と続く「現在」へと貫いていた。
まさに時間の堆積が生む心地よさではなかったか。
おのれを偽らず、おのれの過去を偽らず、
堆積した時間をリスペクトし、在るがままを表出しよう。
創造とは、過去との呼応がその飛躍の鍵を握るのだ…。
そんな思いに触れた二日間だった。