震災から3年目の3月11日、
東京芸術劇場にてパフォーマンス小作品「よころびの歌」を発表するGRINDER-MAN。
その稽古場を見学。代表のタグチヒトシさんに話を聞いた。
震災直後、タグチさんは自分の無力さに愕然となった。
その年の4月におこなわれたスパイラルでのイベント「アートのちから」に参加したときも、
「アートのちからってなんなんでしょう。僕が机上で頭を捻っても、それを人前で踊っても、きれいな水が湧き出るわけではありません。
恵みの雨がふってくる訳でもない。現社会では、表現(と呼ばれるもの)は間接的なものだとされています。
ただし、「観る」「感じる」関係には、作り手と受け手の両者に明確な主体性が不可欠です。
みんなが面白いといったから、僕も面白い、なんていう道理はない。それはとても閉じた直接的なやり取りですが、
人の数ほどあるのだ。僕はそこにアートのちからがあると今は思います。」(GRINDER-MANブログより)
…という一縷の望みを託している。
あれから3年。ふたたび東日本大震災を主題とするプログラムに参加。その意義は?
人間には『忘れる』という能力が備わっている。だから、嫌なことは忘れたって、いい。
苦々しい悔恨の傷跡を引き摺り、『忘れる』ことへの強迫観念に怯えて日々を過ごすぐらいなら、
『忘れる』ことで前向きに生きるほうが、よっぽど良いのではないか?
ダンスはその一助になる…たしか、そのようなニュアンスを語ってくれた。
今回の「よろこびの歌」は、無音の小作品だ。
参加するダンサーは、22人。みなタグチさんの思いに賛同して駆けつけた。
それぞれが心に「よろこびの歌」を響かせて、踊って欲しい。
その共鳴が、「いま・ここ」を共有する会場に居合わせた人たちにも必ず伝わるはず。
タグチさん率いるGRINDER-MANは、「いま・ここ」の一回性を志向するグループだ。
身体を動かし、心を表現するダンスを通じて、0311という3年前の過去に通じる今が、大きく昇華する。
タグチさんが込める「よろこびの歌」とは、そのような跳躍なのだ。
その思いを伺い、ボクはユダヤの哲学者レヴィナスの言葉を思い出した。
「無意味に死んだ」同胞たちの死に責務を負い、彼らの分の未来に向けて「最善」を尽くす。
…それはつまり、死者の存在が,自身の存在を相補完していると考える。
無意味に死んだ六百万人の魂は「死者」としてレヴィナスの存在を支えている。
死者が生きたであろう未来に向けて「最善」を尽くす…とは、
今生きている「隣人(他者)」の未来に向けて「最善」を尽くすということである。
無意味に死んだ約2万人の死者たちの未来に向けて、
彼らが生きたであろう「時間」のために
今「生き残った」私たちが、「最善」を尽くす。
3年目の今年、そのような跳躍を見出したい。
東京芸術劇場にてパフォーマンス小作品「よころびの歌」を発表するGRINDER-MAN。
その稽古場を見学。代表のタグチヒトシさんに話を聞いた。
震災直後、タグチさんは自分の無力さに愕然となった。
その年の4月におこなわれたスパイラルでのイベント「アートのちから」に参加したときも、
「アートのちからってなんなんでしょう。僕が机上で頭を捻っても、それを人前で踊っても、きれいな水が湧き出るわけではありません。
恵みの雨がふってくる訳でもない。現社会では、表現(と呼ばれるもの)は間接的なものだとされています。
ただし、「観る」「感じる」関係には、作り手と受け手の両者に明確な主体性が不可欠です。
みんなが面白いといったから、僕も面白い、なんていう道理はない。それはとても閉じた直接的なやり取りですが、
人の数ほどあるのだ。僕はそこにアートのちからがあると今は思います。」(GRINDER-MANブログより)
…という一縷の望みを託している。
あれから3年。ふたたび東日本大震災を主題とするプログラムに参加。その意義は?
人間には『忘れる』という能力が備わっている。だから、嫌なことは忘れたって、いい。
苦々しい悔恨の傷跡を引き摺り、『忘れる』ことへの強迫観念に怯えて日々を過ごすぐらいなら、
『忘れる』ことで前向きに生きるほうが、よっぽど良いのではないか?
ダンスはその一助になる…たしか、そのようなニュアンスを語ってくれた。
今回の「よろこびの歌」は、無音の小作品だ。
参加するダンサーは、22人。みなタグチさんの思いに賛同して駆けつけた。
それぞれが心に「よろこびの歌」を響かせて、踊って欲しい。
その共鳴が、「いま・ここ」を共有する会場に居合わせた人たちにも必ず伝わるはず。
タグチさん率いるGRINDER-MANは、「いま・ここ」の一回性を志向するグループだ。
身体を動かし、心を表現するダンスを通じて、0311という3年前の過去に通じる今が、大きく昇華する。
タグチさんが込める「よろこびの歌」とは、そのような跳躍なのだ。
その思いを伺い、ボクはユダヤの哲学者レヴィナスの言葉を思い出した。
「無意味に死んだ」同胞たちの死に責務を負い、彼らの分の未来に向けて「最善」を尽くす。
…それはつまり、死者の存在が,自身の存在を相補完していると考える。
無意味に死んだ六百万人の魂は「死者」としてレヴィナスの存在を支えている。
死者が生きたであろう未来に向けて「最善」を尽くす…とは、
今生きている「隣人(他者)」の未来に向けて「最善」を尽くすということである。
無意味に死んだ約2万人の死者たちの未来に向けて、
彼らが生きたであろう「時間」のために
今「生き残った」私たちが、「最善」を尽くす。
3年目の今年、そのような跳躍を見出したい。