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#photobybozzo

沖縄→東京→竹野と流転する、bozzoの日々。

【Feb_27】GRINDER-MAN

2014-03-08 | UNITE!NIPPON
震災から3年目の3月11日、
東京芸術劇場にてパフォーマンス小作品「よころびの歌」を発表するGRINDER-MAN

その稽古場を見学。代表のタグチヒトシさんに話を聞いた。

震災直後、タグチさんは自分の無力さに愕然となった。
その年の4月におこなわれたスパイラルでのイベント「アートのちから」に参加したときも、

 「アートのちからってなんなんでしょう。僕が机上で頭を捻っても、それを人前で踊っても、きれいな水が湧き出るわけではありません。
  恵みの雨がふってくる訳でもない。現社会では、表現(と呼ばれるもの)は間接的なものだとされています。
  ただし、「観る」「感じる」関係には、作り手と受け手の両者に明確な主体性が不可欠です。
  みんなが面白いといったから、僕も面白い、なんていう道理はない。それはとても閉じた直接的なやり取りですが、
  人の数ほどあるのだ。僕はそこにアートのちからがあると今は思います。」
GRINDER-MANブログより)
 
…という一縷の望みを託している。

あれから3年。ふたたび東日本大震災を主題とするプログラムに参加。その意義は?

  人間には『忘れる』という能力が備わっている。だから、嫌なことは忘れたって、いい。
  苦々しい悔恨の傷跡を引き摺り、『忘れる』ことへの強迫観念に怯えて日々を過ごすぐらいなら、
  『忘れる』ことで前向きに生きるほうが、よっぽど良いのではないか?
  ダンスはその一助になる
…たしか、そのようなニュアンスを語ってくれた。

今回の「よろこびの歌」は、無音の小作品だ。
参加するダンサーは、22人。みなタグチさんの思いに賛同して駆けつけた。

  それぞれが心に「よろこびの歌」を響かせて、踊って欲しい。
  その共鳴が、「いま・ここ」を共有する会場に居合わせた人たちにも必ず伝わるはず。


タグチさん率いるGRINDER-MANは、「いま・ここ」の一回性を志向するグループだ。
身体を動かし、心を表現するダンスを通じて、0311という3年前の過去に通じる今が、大きく昇華する。
タグチさんが込める「よろこびの歌」とは、そのような跳躍なのだ。

その思いを伺い、ボクはユダヤの哲学者レヴィナスの言葉を思い出した。

  「無意味に死んだ」同胞たちの死に責務を負い、彼らの分の未来に向けて「最善」を尽くす。

  …それはつまり、死者の存在が,自身の存在を相補完していると考える。
   無意味に死んだ六百万人の魂は「死者」としてレヴィナスの存在を支えている。
   死者が生きたであろう未来に向けて「最善」を尽くす…とは、
   今生きている「隣人(他者)」の未来に向けて「最善」を尽くすということである。

無意味に死んだ約2万人の死者たちの未来に向けて、
彼らが生きたであろう「時間」のために
今「生き残った」私たちが、「最善」を尽くす。

3年目の今年、そのような跳躍を見出したい。


 

【白井聡】「未完のレーニン」が教える社会構造

2014-01-24 | UNITE!NIPPON


  国家は、階級対立が客観的に和解せられ得ないところに、またそのときに、その限りで、発生する。
  逆にまた、国家の存在は、階級対立が和解できないものであることを証明している。


資本主義という社会構造がこれほど明快に解説された書物を、ボクは知らない。
1917年のロシア革命時に、レーニンは「国家と革命」によって資本主義の限界を明快に提示していた。

今から100年ほど前に、今の社会システムには限界があることを警告し、
抑圧される側であるわれわれプロレタリアートの意識改革を促していたのである。

  怖ろしき慧眼!

その思考の背景には、ユダヤ教という一神教の思想構造が横たわっている。
ユダヤ人が往々にして優れているのは、なによりもこの一神教の思想体系があるからだと、
この本を読んで、深く合点した。

何よりも「目からウロコ」なのは、この図式である。

国家とは、支配する側であるブルジョアジーと抑圧される側であるプロレタリアートの階級対立を
永続的に保持するための巧妙なシステムとして存在している…と。

資本家階級であるブルジョアジーは、資本蓄積を至上目的とし、
労働者階級であるプロレタリアートの労働力商品を巧みに操り、無際限に資本を蓄える。
抑圧・搾取される側のプロレタリアートは、支配する側であるブルジョアジーに楯突くが、
その対立を国家権力が「法的な暴力」によって押さえつける構図なのだ。

具体的には、
たとえば工場労働者が待遇の改善を求めて労働を拒否し、工場に立てこもるストライキを起こしたとして、
工場の支配者である資本家が、労働者を弾圧するために自ら武装して工場に乗り込むということは、あり得ない。
代わりに乗り込んでくるのは、警察官・憲兵・軍隊…といった「公的な暴力」なのである。

  それは、なぜか?

これはひとえに「労働力の商品化」にある。

プロレタリアートが労働力を商品として差し出したがために、
雇い主は経済活動を通してプロレタリアートを支配することとなる。

それは、一昔前の武力による一元支配の社会を「政治」「経済」で切り分けることで
巧妙にその対立を隠蔽した構造となったのだ。
ブルジョアジーとプロレタリアートの対立軸を、国家とプロレタリアートに変換することで、
経済支配をブルジョアジーが、政治支配を国家が、それぞれ担う。
ブルジョアジーと国家は結託し、プロレタリアートの労働を極限まで搾取する。

バブル崩壊以後、国家の至上命題が経済活動に集約されているのも、そのような図式からである。
経団連と政府組織が相塗れ、上納金やらパーティ券が行き交うのも、そのような理由からだ。

グローバル社会と称して、経済活動が国外へと進出し、プロレタリアートの確保と、資本獲得に血眼なのも、
際限ない資本蓄積と、有限な労働力商品とのアンバランスが生む、資本主義の歪みゆえ。

帝国主義とは、この構造を肥大化させ、民族を飛び越えて
「帝国」という国家の名の下に自国の経済活動を邁進させる行為であり、

第一次、第二次の世界大戦は、「領土獲得」を表向きにした「経済活動」の拡大行為だということ。

つまり、資本主義とは構造的に国家間の対立が避けられない設計となっている。

いま、安倍政権を筆頭に国粋主義的な指向が表立ってきているのも、
裏を返すと、ブルジョアジーとプロレタリアートを国家が取りもつ構造体が、脆弱になりつつある顕れだと言えるのだ。

1917年のレーニンは、その先を行く。

階級対立の均衡がどんどん歪みを生み、その圧力を公的な「特殊な力」でもって制圧しようという動きが
ますます高まっていくと、どうなるか。

安倍政権の動きに見えるように、「特殊な力=公的暴力」が強大化し、警察・軍隊の権限が肥大化する。
【力】でもって国内外を制圧していくことで、脆弱した経済活動を補完しようという動きが今後活発化するだろう。

しかし、警察・軍隊という「特殊な力」も資本主義の構造に含まれているので、
その末端である警官・兵卒はプロレタリアートである。雇い雇われの図式はここでもしっかり働いている。

プロレタリアートひとりひとりが、この「抑圧された構造体」を意識化することで、
「特殊な力」である公的暴力を内に向かわせること、それがすなわち【革命】である…と、説く。

それが、1932年の「五一五事件」であり、1936年の「二二六事件」であった。

帝国軍隊の兵卒のそのほとんどが、貧に窮した農民の息子たちであり、
貧しさゆえの志願兵であったことを、その上司である下士官や将校たちが汲み取り、
社会構造の歪みを糺すべく一大クーデターを興したのが、日本における【革命】であった…と。

日本の開戦は、二二六事件から一年半後の1938年12月8日である。

クーデターの不祥事を覆い隠すように、陸軍が率先して開戦の途を拓いていく。
「革命よりも開戦がまし」であり、「革命よりも敗戦がまし」である日本の国家支配層の発想は、
この二二六事件のトラウマから来ているのである。

そして、いまだにこのトラウマが「戦後レジーム」として日本の政治家に巣喰っているのは、なぜか。
安倍晋三を筆頭として、日本の政治を牛耳っている面々が、二二六事件における支配層と、なんら変わるところがないからなのだ。

つまり、日本の社会構造は、いまだにプロレタリアートが目覚めていない…ということ。
この自覚が、大いなる構造改革へと進展する。その示唆を、この本は与えてくれるのである。










【未完のレーニン】意識と無意識の交錯

2014-01-23 | UNITE!NIPPON

写真はダンサー高原伸子とのPhoto_Session より、

【on_Flickr】DANCER_07


レーニンは「『自然発生的要素』とは、本質上、意識性の萌芽形態に他ならない」と言っている。
そして、社会民主主義者は、この無意識的なもののなかにある意識的なものを高めるということに他ならない。

しかし、この一方で、この意識の高まりとは「革命的な意識の高まり」であって、
そのようなものは先述したように、労働者階級の即自的な意識の外部にしか存在しえないものである。

つまるところ、それは労働者階級の自然発生的な意識にとって
「無意識」の領域に属するものが高まるということである。

無意識が意識であり、意識が無意識である。

こう言うと、レーニンの議論は救い難い混乱と錯綜に陥っているかのように一見思われる。
しかし、経済的領域政治的領域の峻別という視角から議論を整理すれば、混乱した外皮は取り除かれる。

すなわち、自然発生的な意識とは経済闘争において自然に労働者階級において発生する意識であり、
闘争が経済闘争にとどまるならば、革命を目的とする政治的領域に進入することはなく
革命政治から見れば、それは無意識的な闘争のままである。

一方で、革命的意識は労働者階級には自然には意識されえない、つまり無意識的なものである。
このままでは二つの意識、すなわち「経済闘争から発生する意識」と「革命的な意識性」は永遠に出会うことはできない。

しかし、レーニンにおいて事態はそうならない。

すなわち、資本制社会における搾取・抑圧が生じる場所が、
当然のことながら経済的領域においてである以上、葛藤は経済過程において現れる。
そして、経済闘争はこの搾取・抑圧を緩和することしかできない

一方で、資本主義的な搾取・抑圧の本当の原因は、
原理的に言えば、「労働力の商品化」というトラウマ的な出来事にある。

そしてマルクス主義とは、
この出来事によって創始された世界を覆すための思想と実践に他ならない。


だがしかし、この原初の視角が見失われ、
労働運動が労働運動にとどまることをよしとするならば、
搾取・抑圧の原因に遡行するための道は絶たれ、それらは永続される


してみれば、フロイト的に言えば、レーニンが為そうとしたことは、
かつて搾取・抑圧の原因を作り出したがそのことが忘却され、無意識的領域へと追いやられた「心的外傷」を、
全面的な「暴露」「煽動」を通じて労働者階級に認識させるということに他ならなかった。

そして、経済闘争が資本主義的経済闘争でしかありえない以上、
この無意識を労働者が自覚するためのイデオロギーは、
当然労働者の現存状態にとって外部から注入されるものとしてしか現れえない
同じく、労働者という範疇が経済的なものである以上、このイデオロギーは政治的なものでなければならない

こうしてレーニンの語るイデオロギーは、労働者階級に対して「抑圧されたものの回帰」として現れる。

労働者階級が、日々の搾取によってすでに病的状態(=神経症)に置かれているとすれば、
それを治そうとするレーニンが語りかける言葉は、その原因に労働者階級が突き当たることを促すものであり、
その原因の記憶が労働者階級にとって「抑圧されたもの」である以上、レーニンの言説は精神分析家のそれと同じ位相にある。

ゆえに、それは外部からの言葉として現れ、別の形を取った一種の神経症的なものをもたらすのである。

この神経症の交替が、レーニンにとって「進歩」を一義的に表すものであったことは言うまでもない。
なぜなら、それによって実現されるのは革命に他ならないからだ。
そして、それはフロイトの言う「精神性における進歩」とも合致する。
社会主義革命は前代未聞の出来事であり、表象不可能である以上、それへの信仰はまさに高度な「精神性」を要するのだ。


 ※フロイトにおける「精神性における進歩」とは…
 
 多神教であるトーテミズムは、「欲動断念」である一方で、性的支配者として息子たちの嫉妬・羨望を一身に集めた原父の殺害、
 そしてそれへの和解という「性的な」出来事ににこだわりつづけるのに対し、
 ユダヤ教にみられる一神教においては、タブーが神を造形することへの禁止へと集中することによって、
 「欲動断念」は欲動の起源(=性的なもの)から離れ、感官によってとらえることができない神を信じる…という、
 精神性のみによる信仰へと「昇華」されていることを、定義づけたもの。

 
 


【未完のレーニン】民主主義とは?

2014-01-21 | UNITE!NIPPON

写真はダンサー高原伸子とのPhoto_Session より、

【on_Flickr】DANCER_07

  
  民主制は、少数者が多数者に服従することと同じではない。
  民主制は、少数者の多数者への服従を認める国家、すなわち、
  ある階級が他の階級に対して、住民の一部分が他の住民に対して、
  系統的に暴力を行使するための組織なのである。


ここでレーニンはデモクラシー・民主制を定義しようとしているわけだが、
この言い換えは大変興味深いものである。

一番目の文章では、民主制は「服従」ではないと言われている。
つまり、言い換えれば、民主制とは少数者が多数者に対して服従するという
決まりごと」、あるいはそのような「原則」や「主義」ではない…ということだ。

二番目の文章で言われているのは、民主制とはそのようなものではなく、
制度」や「機構」であり、もっと端的に言えば、「国家」や暴力行使のための「組織」である…ということである。

要するに、民主制とは「観念」ではなく「物質」である。

民主制は、「原則・主義」たることを欲しているにもかかわらず、
実際には「物質」的な「機構」ないし「装置」であるにすぎない、
ということをレーニンはここで言っている。

そして、この一節が置かれている場所にもまた注目せねばならない。

それは共産主義社会への移行が語られる第五章に入る直前であり、
すなわちそれは旧社会に関する記述の最後の部分であるということだ。

つまり、階級が存在する旧社会においては、
その最良の原則=民主制は、ついに原則であることを僭称するのみであり、
原則として通用しているものの実在態は物理的強制に他ならない
という洞察をここに見て取ることが出来る。




  

【未完のレーニン】帝国主義による解決とその矛盾

2014-01-21 | UNITE!NIPPON

写真はダンサー高原伸子とのPhoto_Session より、

【on_Flickr】DANCER_07

帝国主義とは、国民国家が原則として民族共同体であり、
したがって基本的には地縁的な結合にもとづいているにもかかわらず、
それを無際限に空間的に拡張しようとするという、
そもそも途轍もない矛盾を孕んだ運動であった。

それゆえ、国民国家の帝国主義化という現象には、
国民国家の概念的否定が含まれていると言わねばならない。

このような矛盾を犯してまでそれが追求されたのは、
端的に言えば、一国内ではもはや有効に継続することのできなくなった資本蓄積を
国民国家を空間的に膨張させることによって継続させようとする要求のためである。

ハンナ・アレントはこのことを鋭く指摘している。

  帝国主義が成立したのは、
  ヨーロッパ資本主義諸国の工業化が自国の国境ぎりぎりまで拡大し、
  国境がそれ以上の膨張の障害となるばかりか、
  工業化過程全体にとって最も深刻な脅威となり得ることが明らかになったときだった。
  経済自体に強いられてブルジョアジーは政治化した。
  もし、不断の経済成長をその内在的な法則とする資本主義制度を存続させたいのならば、
  ブルジョアジーはこの法則を自国の政府にも押し付け、
  膨張が外交政策の究極の目的であると主張するほかなかったのであった。


この「ブルジョアジーの政治化」とは、われわれの図式で言えば、
ブルジョアジーから国家への力の備給の最たるものであり、
ブルジョアジーは自ら支配しない階級である以上、
それはブルジョアジー自身によるブルジョア的原則の否定であると言えよう。

ブルジョアジーによる国家への力の備給の量が高まれば高まるほど
国家の正統性が失われるということをわれわれは見てきたわけだが、
それが帝国主義国家の段階に達すると、国民国家(=ブルジョア法治国家)は
概念的にも実質的にも否定され、その正統性はゼロへと達することとなる。

それでもなお、資本蓄積が継続される限りこの構図自体は再生産可能であり、
再生産可能である限りは維持されうる。
しかし、言うまでもなく、この解決方法は矛盾をより一層爆発的なものへ
先鋭化させるものに他ならない。

つまり、この為の解決は、帝国主義諸国家は無際限の膨張を欲するが
一方で地表の面積は一定であるという矛盾に逢着し、
世界の再分割のための戦争を噴出させたのであった。

付け加えて言えば、今日かつてのような帝国主義国家が姿を消したからといって、
ここに語られた矛盾の本質は解決済みの問題となったわけではない。

資本主義を根本原理とし、資本蓄積が至上命題である社会において、
この矛盾が根本的に解決される道理はない。
そして、資本主義が純粋なものになればなるほど、
この矛盾は深化せざるを得ない。

本書で分析された資本主義と権力とが織り成す相互依存的な構造は、
たとえばマイケル・ハート=アントニオ・ネグリが「帝国」と名づけたような新しい形への再編成を受けつつ、
現在の世界をも強力に規定していると考えられるべきであろう。

すなわち、レーニンにおいていままさに問題となっているのは、
この構造からの不可避的な展開として現れる他なる社会の構図を導き出すことなのだ、ということである。
そこでは「特殊な力」を質的に凌駕するより普遍的な、したがって強力でありうる【力】の生成が問題となるであろう。

   ●

国家は「抑圧のための特殊な力」である。
そして、この定義から出てくることは、ブルジョアジーがプロレタリアートを、
すなわち一握りの金持ちが数百万の勤労者を「抑圧するための特殊な力」は、
プロレタリアートがブルジョアジーを「抑圧するための特殊な力」と交替しなければならない、ということである。









【未完のレーニン】ブルジョア階級の国家への直接的依存

2014-01-20 | UNITE!NIPPON

写真はダンサー高原伸子とのPhoto_Session より、

【on_Flickr】DANCER_07

 
  〔中略)

ブルジョアジーと国家はあくまで分離しているということは、上記のような利点をブルジョアジーにもたらすと同時に、
ブルジョアジーにとっての致命的な弱点を生む。
…というのは、ブルジョアジーがブルジョアジーたり得るのは、プロレタリアートへの人格的支配は存在しない以上、
端的に言えば生産手段の私的所有が法的に承認されることのみによる。

言い換えれば、ブルジョアジーの存在根拠は法的規定による。それと同時に、法を定めこれを強制的に執行する機能は、
資本制社会においては国家に集中している。こうしてブルジョアジーは自らの武力には立脚しない以上、
自らの階級の存在根拠(すなわち私的所有の法的根拠)を国家に直接的に依存しているということになる。

つまり、ブルジョアジーは自らの力で自らをあらしめることができない…という弱さを持つ。

それゆえにブルジョアジーは、国家が中立的な外皮を纏いながらも実質的にブルジョアジーの代理たるように、
国家に対して影響力の備給を何らかの形でおこなわなければならなくなる
ここでレーニンは、官職の買収、議会の買収、官金横領などをこの備給の例としてあげている。

おそらくわれわれは、ここでその内容について詳論することはできないが、
アルチュセールのイデオロギーについての洞察にしたがって、
諸々のイデオロギー装置をそこに加えるべきだろう。

ブルジョアジーと国家を結ぶベクトルが、ブルジョアジーから国家への備給を顕す矢印のみでなく、
国家からブルジョアジーへ対しても描かれなければならないのは、このブルジョアジーの国家への直接的依存のためである。
そして、この時期のレーニンが革命の問題を、国家権力の問題に収斂させたのは、まさにブルジョア社会における
国家とブルジョアジーとのあいだの力関係が相互的なものであり、ブルジョア階級はその存立の可否を直接的に国家に負うこと
そしてそこにブルジョア階級のアキレス腱があることを強く確信していたことを示すだろう。

してみれば、プロレタリアート国家への移行の可能性は、言い換えれば革命の課題は、
プロレタリアートと国家とのあいだの直接的(物理的)闘争において、
プロレタリアートがいかに国家に勝利し、またブルジョアジーから国家への力の備給を防ぎうるのかという問題に収斂するだろう。
レーニンのあの一元的な【力】の生成とその強靱さが問題になるのは、この場面においてである。

     ●

さらにこの図の構造を再生産することを考えると、
この構図がきわめて不安定なものであることが理解される。

というのは、資本蓄積の要請から搾取が激化し、階級対立が先鋭になると、
それに比例して国家の位置が高くなり、そこに力を備給するブルジョアジーはより多くの力を得なければならないが、
ブルジョアジーがこれを得るにはプロレタリアートからの搾取を強めるほかない。

このことは階級対立の激化を必然的に引き起こすから、
国家の位置はより高くなり、そこに備給をおこなうことはますます困難になる。
したがって、ブルジョアジーはプロレタリアートへの搾取をより強める…という悪循環が生じる一方で、
国家の位置は、正統性を減じつつますます上方へと昇ることになるから、
国家から降り下ろされるベクトルはより長くその角度はますます鋭角的になり、
つまりその強度を増し、それに比例してブルジョアジーは自立性を減じることになる。

あるいは、より具体的に言えば、ブルジョア階級が自らの存立の基盤を、
国家による生産手段の私的所有の法的保障、
および国家の暴力によるブルジョア的法秩序の維持のみに依存するその依存度は、
構図の再生産によって累進的に高まるということだ。

ここで明らかになったのは、この構図の破滅的な不安定さである。

なぜなら、この構図を維持することの出来る限界は、
ブルジョアジーがプロレタリアートの維持再生産が可能な範囲で
プロレタリアートを搾取できる度合いという限界によって明らかに画されざるをえない。

しかしその一方で、資本累積にはその限界が原理的に存在しない。
したがって、ブルジョアジーは二律背反したふたつの命令を受けとることになる。
すなわち、彼らは一方で被搾取者階級の維持再生産のための限界内で搾取せよという命令を受けながら、
その一方で、資本累積の要請は、あらゆる限界をも踏み越えて蓄積することを命ずる。
したがってブルジョアジーは、資本累積の要請に呼応して搾取を無制限に強化し、この構図を極大化することもできなければ、
ある程度の水準に保つことも出来ない。
構図は不安定な動揺状態に置かれるほかないのである。



【未完のレーニン】近代資本制社会における国家の実像

2014-01-20 | UNITE!NIPPON


世界史が階級戦争の歴史であることは、すでに古くから知られていた。
実際共産党宣言の新しさはその点にあるのではない。
共産党宣言の新しさと魅力は、それとは別のものである。
すなわち、階級闘争を人類史上唯一最後の闘争、
つまりブルジョアジーとプロレタリアートの緊張の弁証法的絶頂まで体系的に集中した点にあるのである。
多数の階級の間の対立は、一つの最後の対立に単純化される。

およそ単純化ということは強度の異常なる昴進を意味する。

     ●

この図式に、ブルジョア社会の構造の強さと弱さが集約されていると言ってよい。
言い替えれば、プロレタリア革命の困難と可能性とが同時に現れているということだ。

いま述べたように、この図においては、
ブルジョアジー(C1)とプロレタリアート(C2)とのあいだの闘争的な関係は、
ブルジョアジー(C1)と国家(state)とのあいだに置換される。

このことは、ブルジョアジー(C1)は実際には根源的にプロレタリアート(C2)と対立関係にあるにも係わらず
プロレタリアートと直接的に闘争せずともすむ、つまり階級闘争において自らの力を費消する必要がないということを意味する。

ブルジョアジー自身の代わりに国家がその闘争を代行してくれるからである。

支配階級が自ら武装することなしに支配を維持するシステムを手にしたのは、
有史以来おそらく初めてのことだろう。
この巧妙な仕組みが、ブルジョア社会におけるブルジョアジーの強みの一つである。

さらに、ブルジョアジーにとっての決定的に重要なもうひとつの利点がこの構図にはある。
ここでは、ブルジョアジー(C1)はもはや直接的にはプロレタリアート(C2)を支配しない。
なぜなら、述べてきたように、資本主義的搾取は人格的支配によってではなく経済過程を通じて行われてるからである,

したがって、ブルジョアジーの道具としての国家がなすべきことは、
この経済過程を支える商品売買秩序ーーより端的に言えば私有財産ーー
(ブルジョアジーにとっては生産手段であり、プロレタリアートにとっては労働力商品)を、
社会の全成員に対して普遍的に維持・保証することのみであり、
そしてこれを実行するのが法体系とその背後に控える国家の暴力装置である。

そしてこの際、
法秩序は社会の全成員に対して普遍的に妥当するものとして現れるため、
国家権力は脱人格化される。

かつてミシェル・フーコ―は『監獄の誕生』において、
犯罪の概念が王の身体という具体的人格に対する侵害から
抽象的な秩序に対する侵害へと変容してゆく近代の歴史過程を描いたが、
この過程は国家権力の脱人格化と相即していると言えるだろう。

このようにして、ブルジョア国家は、国家暴力の人格的起源を措定することのできない、
すなわち特定の人格とは無関係な(ものとされる)『法の支配』が貫徹する法治国家として、現れることとなる。
このことから次の事柄が帰結する。

それは、軍隊・警察・官僚からなるこの行政的執行能力ーーこの真のブルジョア国家権力ーー
の直接の人格的担い手は必ずしも資本家であることを要しないということである。
ということは、この執行能力がどのような階層によって担われようと、
それが私有財産的法秩序の維持執行権力として機能しさえすれば、
資本家階級は、商品経済的な価値法則を通じて階級搾取を自動的に実現することができるからであり、
したがって、それが資本家諸君の階級抑圧のための組織された暴力にかわりはないからである。

このことは、逆に言えば、ある国家権力がブルジョア権力であるか、否かは、
その直接の人格的担い手がブルジョアジーであるか、否かによって定まるのではなく、
それが私有財産的法秩序の維持執行権力として機能しているか、否かによって定まるということを意味する。


【未完のレーニン】トラウマの普遍化と死の欲動の反転

2014-01-15 | UNITE!NIPPON

写真はダンサー高原伸子とのPhoto_Session より、

【on_Flickr】DANCER_07



それでは、レーニンにおいて何が「偶像崇拝の禁止」をもたらす
「死の欲動」の内面化の機能を担っているのだろうか。

もちろん、レーニンは「死の欲動」などという概念を用いて志向していたわけではない。
その代わりに彼が依拠したものは、資本主義の発展運動そのものだった。

言うまでもなく、資本主義はある意味で破壊的である。

それは農村共同体を破壊し、搾取される労働者を生み出す。
だから、資本主義が発達するということは、これらの破壊的作用が昂進することである。
しかし、レーニンはこのことをまったく怖れず、資本主義の発展を否定的なものとは見なさなかった。

その理由はもちろん、マルクスの根本的展望、すなわち資本主義の発展は既存の社会構造を破壊するのと同時に、
その墓堀人を不可避的に生み出し、それによって社会主義革命が導かれる、という展望にある。

つまり、マルクス・レーニンにとって、資本主義の発展はフロイトの想定する「死の欲動」と同じ形で両義的なものである。
それは、破壊的な力であるのと同時に、その攻撃性が内へと向けられるならば、もっとも「文化」的なものとなる。

してみれば、レーニンにとって、社会主義革命とは、
資本主義の発展運動という「死の欲動」の破壊性が反転され、
資本主義の発展それ自体に向け変えられる瞬間を指すことになるだろう。

レーニンが初期の著作においてナロードニキ主義批判を展開したとき、
彼は批判対象を単に否定したのではなかった。
正確に言えば、ナロードニキ主義がロシアの近代思想・革命運動の形成において
果たした重大な役割を積極的に評価しつつも、
その根本教義が現に資本主義発展の途に入ったロシアの現状にはもはやそぐわないものとなった、
という主張をしたのであった。

つまりそれは、資本主義発展の不可逆的な開始と同時に、「悔悟する知識人」に限定された
思想・運動は無効なものとなったということを意味する。

それがいまや無効なのは、資本主義の浸透がトラウマの克服を全人民的問題とするからである。

してみれば、レーニンにとって、社会が資本主義的発展の軌道に入ることの進歩性の究極的な根拠とは、
それによって知識人に限定されていたトラウマが全人民へと普遍化され、したがって歴史的主体性を獲得するべき主体が知識人に留まらず、
全人民へと拡大されたということに存ずる、といえよう。

このようにして、資本主義の発展によって全人民が歴史の形成に参与することになってはじめて、
客観的必然性を持った現実的なものとしての革命が世界の有り様を規定するようになる。

すなわち「革命の現実性」が世界に充満しはじめる。

ゆえにこそ、レーニンの『何をなすべきか?』が提起する「新しいタイプの党」は、
「暴露」「顫動」によって大衆の「革命的積極性の培養」をめざし、
また労働者階級から「職業革命家」を多数引き入れるべきものとして提起された。

それは実に、大衆をして資本主義の発展という「死の欲動」の反転へと向かわしめることを、企図したものであった。


【未完のレーニン】死の欲動による革命

2014-01-14 | UNITE!NIPPON
写真はダンサー高原伸子とのPhoto_Session より、

【on_Flickr】DANCER_07


フロイトが描くユダヤ教において、
徹底的な欲動断念が偶像崇拝を禁じる一神教として現れざるを得なかった理由は何なのか。
この問に答えるためにわれわれが見出した手がかりは、それが「死の欲動」の内面化という機制に関わるということであった。

ところで、フロイトは罪責感の源泉を成す「不安」の感情について、二つの源泉を措定している。
すなわち、「優位に立つ他者に対する不安」と「超自我(=良心)に対する不安」とである。
前者はその起源を、幼児の親に対する感情、つまり親からの保護を失うことに対して幼児が感じる「寄る辺のなさ」に持っているとされる。
そして後者は、前者から促された「欲動断念」がなし終えられる
(つまり、幼児の成長によって他者への依存が軽減され「寄る辺のなさ」が解消される)ことによって
一旦は解消された前者の感情を受け継ぐものである。
だがなぜ、本来外発的なものとされる前者が解消された後に、罪責感は「超自我」という形で内面化されうるのか。
この問に対してはフロイトはかなり思弁的な回答を試みているが、その要点は
「超自我の峻厳さは本来、(中略)超自我に対する自我自身の攻撃欲動の代理」であるということだ。
つまり、後者の「不安」感情の厳選には「死の欲動」が横たわっているということになる。

そして、フロイトの「不安」の二つの源泉についての論理を敷衍して「神的なるもの」の起源を措定するとすれば、
前者の「不安」は多神教的心性へとつながり、後者のそれはユダヤ教的なそれにつながっているに違いない。
それはなぜか。
まず、前者の「不安」は「(人が生きていくうえで依存せざるをえない他者からの)愛を失うコトへの不安、
つまり一種の『社会的』不安」を背景にしている。このような罪の意識は真正のものではない。というのも、
この「不安」の背景にあるのは超越的な善悪の基準ではなく、
自分が生きていく上で必要不可欠な他者からの「愛を失う」わけにはいかないという功利計算にほかならないからだ。
ゆえに先に引用したフロイトの「未開人」の行動は次のように解釈できる。
すなわち、彼らの呪物が役に立たなかったとき、呪物の方は彼らを愛していなかったことが明らかになったのであり、
それゆえにもはやその呪物は無用の長物であり、むしろ空しい期待を抱かせた憎むべきものとして打ち毀されるのだ、と。
先述したように、これらの呪物は、それがいかに高い敬意を払われていようとも、
いわゆる「御利益」をもたらしてくれるものとして崇拝・強制されているにすぎない。
そして、このような世界においては、さまざまな呪物が立ち代わり崇められ、そして貶められるだろう。
言うまでもなく、これは先に述べた多神教的、偶像崇拝的世界の姿にほかならない。

してみれば、偶像崇拝の禁止が呪物を持つことに対する禁止であるならば、それが意味するところは、
功利を超えた善悪の基準を持つべしという当為であるはずだ。
そして、功利計算というものがおこなわれる目的が自己の生命・身体などの維持にあり、
したがってそれが自己愛の命ずるものだとすれば、功利計算を棄てることとはその逆を思考すること、
すなわち「死」を志向すること、そして『文化への不満』における主要テーマのひとつであった
「隣人愛」の実現への志向を意味することになるだろう。
偶像崇拝の禁止という教えが「死の欲動」に基づく、もっと言えば、それのみにも基づくものだというのは、このような意味においてである。
偶像化しえない神、それは内面化された「死の欲動」が外に投射されたものだ。
してみれば、フロイトの主張する「精神性における進歩」とは、「死の欲動」を内面化することをやり遂げることにほかなるまい。



【未完のレーニン】攻撃欲動を馴化する可能性

2014-01-14 | UNITE!NIPPON
写真はダンサー高原伸子とのPhoto_Session より、
皇居東御苑にある桃華楽堂。

【on_Flickr】DANCER_07


  『ロシアにおいて新しい共産主義文化を建設しようという試みが
   ブルジョアジー迫害によって心理的に支えられていることも、充分理解できる現象だ。
   ただちょっと心配なのは、ソヴィエトでブルジョアジーが根こそぎにされたあと
   果たして何が起こるだろうかという点である』(S.フロイト「文化への不満」(1930)より)

いわゆる大テロルを約5年後に控えた1930年の段階で、このように不気味・までに正確な予言をなしえたことについては、
まさに慧眼と言うほかない。要するに、フロイトからすれば、レーニンのやろうとしたことは「文化」的にすぎるのだ。
人間はこのような「文化」に到底耐えられず、結局のところ攻撃欲動の方が勝利するであろう、というのがフロイトの見立てである。
しかし、精神分析の始祖があくまで慎重に革命(無意識による、あるいは社会主義による)の両義性を見つめ、
進歩にいたる途を発見することの徹底的な困難性を自覚していたのに対し、ボリシェヴィキ革命の指導者はその進歩性を
いささか無邪気に信じていたということを確認するだけで、問題は結着するのだろうか?

今日まで再三再四語り尽くされてきた事柄、すなわち
「人間性に関する見方の根底においてフロイトはペシミストであり、レーニンはオプティミストであった」
ということに問題は尽きるのだろうか?

仮にフロイトが『モーゼと一神教』という謎に満ちたテクストを書かなかったとしたら、
われわれはこのような結論に満足すべきであるのかもしれない。
だが、すでに論じたように「精神性における進歩」をフロイトは他の彼のテクストにおいては見られないような口調で
そこでは強調したのであり、しかもそれがなされたのは、まさに攻撃欲動の圧倒的勝利の確証であるかのごとき
ナチズムが猖獗を極める最中においてのことであった。
そして、『モーゼと一神教』によってやがて打ち出されることになる観点から遡及的に見てみるならば、
『文化への不満』においてすでに、攻撃欲動をいかに昇華しうるかについての道筋は語られていたことがわかる。
それは「罪責感」をめぐる議論においてである。もっと言えば、攻撃欲動を馴化する可能性、
「文化発展」の可能性が賭けられうる唯一の途として、それは論じられていた。

   『われわれの攻撃欲動を無力化するため、どんな方法がとられているだろうか。
    それはちょっと想像もつかぬほど奇抜だが、考えてみるとごく当たり前の方法である。
    すなわち、われわれの攻撃欲動を取り込み、内面化する方法である。しかし実のところこれは、
    攻撃欲動をその発祥地へ送り返すこと、つまり自分自身へと向けることに他ならない。
    このようにして字がの内部に戻った攻撃欲動は、超自我の形で自我の他の部分と対立している自我の一部に取り入れられ、
    こんどは「良心」になって、本当なら自我自身が自分とは縁のない他人に対して
    示したかったであろうのと同じ厳格さでもって、自分自身の自我に対するのである』(S.フロイト「文化への不満」(1930)より)

   『イスラエルの人々は、自分たちは神の寵児だと考えていた。
    ところが、この偉大なる父が自分の寵児の上へつぎからつぎへと不幸を注ぎかけた時、
    イスラエルの人々は、神と自分たちのこの特殊な関係に疑いを差し挟むとか、
    神の力と正義を疑いの目で見るとか言うことはせず、預言者たちを生んで、
    これに自分の罪深さを責めさせ、この罪の意識を基にして、司祭宗教の厳格きわまる戒律を作り出したのだった』(S.フロイト「文化への不満」(1930)より)

ここでフロイトが言っていることは、ユダヤ教は攻撃欲動をもっとも徹底的に内面化した宗教であるということにほかなるまい。
それを信奉する者たちは、攻撃欲動を他者へと振り向ける代わりに、つねに罪責感のなかにとどまろうとするのだ。
しかし問題なのは、なぜ、また、いかようにしてこのような精神的態度が可能になるのか、ということだ。



【白井聡】未完のレーニン(2)

2014-01-09 | UNITE!NIPPON
何らかの主体が『革命を起こす』ことではなく、
革命からその主体を剥奪し、『世界そのものを革命化する』と言う戦術、
言い換えれば『世界そのものを革命の主体とする』という、
レーニンを他の社会主義者・革命家から際立った存在たらしめる独自の戦略。

         ◎

資本制の枠内での労働運動は、その枠内での利益の拡張(=労働組合主義)を意味する。
つまり、労働者階級が労働者階級として運動する限りは、
それは労働者の条件を相対的に向上させることを目指すということを意味するにすぎず、
労働者が労働者であることになんらの変更を加えられることがない以上、
それは資本制社会が実質的に肯定されているということに他ならないのである。

してみれば、レーニンの主張の要点は、真正の社会主義イデオロギーは資本制社会における
階級関係を反映してはならない、という定式に約言されうるだろう。

レーニンのイデオロギーは労働者階級の外側に立つこととなる。

そしてそれは、労働者階級がさまざまな神々(=短絡的な実質的利益)に
心を奪われることを禁止せずにはおかないであろう。


【白井聡】未完のレーニン(1)

2014-01-09 | UNITE!NIPPON
近代資本制にもとづいて成り立っている社会
(それは歴史的に「ブルジョア社会」と呼ばれ、今我々が生きている社会でもある)
の特徴は、階級闘争が隠蔽されるところに存する。
マルクス主義が主張するところによれば、
政治的なものの本質は階級闘争に存するが、それが真実ならば、
ブルジョア社会とは、この基本的真実を忘れたふりをすることによって、
あるいはそのようなものは存在しないと言い募ることによって、
言い換えれば、政治的なものの隠蔽によって、
社会に内在する敵対性を隠蔽することによって成り立っている。

まさにこのことが、通常の政治が抱えている巨大な『秘密』であり、
社会に根源的敵対性が内在的に存在していることを告白することとは、
共同体の不可能性を告白することに他ならない。
この『秘密』が秘しておかれざるをえないところから、
あらゆる政治的欺瞞、さまざまなイデオロギーが発生する。




【大澤真幸】不可能性の時代を生きる。

2014-01-09 | UNITE!NIPPON
大晦日の朝日新聞朝刊に掲載された
社会学者_大澤真幸(おおさわまさち)さんのオピニオン。
見事に言い得ているので、そのままシェア。

     ◎

私たちはいま、理想や希望を持つことが不可能な、『不可能性の時代』を生きてます。
戦後、1970年頃まで続いた『理想の時代』は、人や社会にとって何が理想か明確で、
底に向かって歩むことが『良き人生』『良き社会』なのだと信じるコトができました。
ところがいまは、何を信じて進めば良いのかわからない。
自分が何のために生きているのか、自らの生を意味づける物語を描けない。
これがいま、私たちが感じている閉塞感の源です。

     ◎

『半沢直樹』は細部にわたるリアリズムに支えられた上質なドラマでしたが、
唯一、半沢直樹という主人公だけがリアリティーを欠いています。
彼は確固たる理想を持ち、その理想に向かって突き進む。
それが家族のためにも銀行のためにも、ひいては日本経済のためにもなる。
彼は絶対的な善の体現者で、だからこそ『倍返しだ!』が許されるわけですが、
この『不可能性の時代』に半沢のような人は存在不可能です。
絶対的な善なるものがもはやあり得ないからです。
要するに彼は、『理想の時代』から連れてこられた極めて時代錯誤な人物なのですが、
視聴者は彼に賞賛を贈り、連続ドラマとしては今世紀最高の視聴率をたたき出した。
理想を取り戻したいという強い欲求が、私たちの中にあるからでしょう。

     ◎
『あまちゃん』は『ここではないどこか』に私たちは行ける、その扉は必ずある、
ということを暗示し続け、この時代の閉塞感を打ち破ろうとした意欲的なドラマです。
東京に行く、地元に帰る、そのどちらもゴールとして設定されているわけではなく、
そこにたどり着いたら必ず、その『先』が提示されるという話の構造になっています。
そして、『先』に行くために重要な役割を果たすのが、
主人公アキの母である春子と、祖母の夏という、異なる時代のエナジーです。
夏と春子に背中を押され、地味で暗くてこの時代の閉塞感を一身に背負っていたアキが、
新しい世界の扉を開けていく。視聴者は自分の背中も押されたように感じたのだと思います。

慰撫されたいという欲求があるのだから、
それをうまく利用すれば『先』に行ける可能性もあるということです。
いま、手持ちのブロックをいくら組み合わせても仕方がない、
決定的に違う『何か』が必要なんだという漠然とした感じをみんな持っている。
ただ、じゃあその『何か』とは何なのだと問われても、私たちはまだ言葉を持ち合わせておらず、
古い時代からブロックを借りてきて表現するしかありません。

     ◎

私たちはなぜ、次の言葉を見いだせないか…原因は大きく言って二つあります。
一つは、いつか確実に沈むとわかっていながら、資本主義という船を下りることができないからです。
『民主主義は最悪の制度だが、これ以上の制度はない』という趣旨の、
チャーチル元英国首相の発言がありますが、これは資本主義にこそ当てはまります。
資本主義はとてつもない格差を生み、善でも美でもないことを人間に要求する。
この船は必ず沈む。だけど他に船はない。社会主義という船はもっと危なそうだし、
外は嵐だから下船したら即死だと、だからみんな必死にしがみついていて、
一見すると、資本主義が信奉されているかのようにしか見えない。
笑えない喜劇のような現状です。

     ◎

もう一つは日本固有の問題で、『ここではないどこか』を目指すと必ず、
アメリカという壁が立ちはだかる。
アメリカは日本人にとって絶対に取り換えられない、
そして絶対に失ってはならない壁としてイメージされています。
日本は冷戦期、たまたま戦略的に重要な位置にあったからアメリカに守ってもらった。
しかし冷戦終結で国際情勢が大きく変わり、
アメリカには日本を守らなければならない内在的な理由が実はないことがハッキリしてきました。
愛されなくなったらおしまいだという焦りや不安が、
アメリカに愛されるためなら何でもやるという思考停止を生んでいる。
特定秘密保護法もその文脈で理解されるべきです。

恋人はどうやら自分から離れたがっている。
秘密も打ち明けてくれない。
だから秘密保護法をつくりました。
さあ安心して打ち明けてと。
これは国際社会に向けてのアピールにもなる。
『あいつはどうやらアメリカに秘密を打ち明けられているらしいぜ』と。
それでなんとなく一目おかれたいということでしょう。

とはいえ今後何十年間もこのままの日米関係が続くとは到底考えられません。
どうやったらアメリカに依存せずに我々はやっていけるのか。
それを考えることが、この社会の閉塞感を打ち破る第一歩になるはずです。


     ◎

今年の流行語大賞のひとつは『今でしょ!』でした。
みんな『今でしょ!』って何かを決然と選択し、この閉塞状況から抜け出したいんですよ。
だけど人生や社会にとって何が本当に良いことなのか、判然としない。
3・11を経た昨年の総選挙は当然、原発が争点となるべきだったのに、
みんな考えるのをやめてしまった。
原発を止めたら日本経済は破綻するかも、でも原発を続けたらもっと悲惨なことが起きるかも…
リアルに考えるととても選択できない。
だったら考えても仕方ないね…と、私たちは何も選択しなかった。
選択しなかったが故に選択されたのが安倍政権です。
05年の『郵政選挙』のように、
比較的どうでもいい問題についてならば『今でしょ!』と盛り上がれるが、
本当に重要な問題ほど棚上げされてしまう。非常に逆説的です。

     ◎

もしかしたら、ずっと不可能だと思って来たことが可能になるかも知れない
…という期待が高まったのが、09年の政権交代です。
しかし民主党政権は結果的に、
『不可能なことはやっぱり不可能だった』を証明してみせただけだった。
続く安倍政権は逆に『可能なことは可能だ』をやっていて、
いかにも起こりそうなことだけ起きると。
政権交代が無念な結果に終わったことが、
理想を語ったり語られたりすることへの忌避感につながっていて、
安倍政権がそういう気分に乗じているのは事実でしょう。
ただ一方で、無念な思いを残しているからこそ、
私たちはいつかそれを取り戻しに行かなきゃいけないという気持ちもどこかで持っている。
願望や希望って、未来に落っこちているというよりは、
過去に満たされなかったモノの中で育まれる感じがしませんか。
そう考えると、政権交代への失望があることは、失望すらないよりはある意味いいことだと思います。

     ◎

政治が本来やるべきことは、人に思考停止させないことです。
人間はね、やっぱり『不可能だ』と言っちゃだめなんですよ。
『道はある』という感じを持つと、人の思考は回転し始めるのですから。
特に政治家は、根拠がなくても『不可能は可能になる』と言ってのけるある種の勇気と、
それを人々に信じさせる言葉のチカラを持たなければなりません。

現実主義だリアリズムだと言って、
可能なことだけを追求するというのは単に、
船が沈むのを座して待つということにしかなりません。
みんなが可能なことしか求めなかったら、
可能なことしか起きないじゃないですか。
沈まない別の船を求めるならば、不可能なこと、
現時点ではあり得ないようなことを要求する方がむしろ現実的です。
歴史的には何度も不可能だったはずのことが起きている。
それは不可能なことを求める人がいたからに他なりません。
自分は本当は何を望んでいるのか。
どんな社会を目指したいのか。
まずは口にしてみましょうよ。
あなたが口にすることによって、
不可能は可能になる可能性を孕むのです。


     ◎



     

【Dec_31】おのくん@東松島

2014-01-04 | UNITE!NIPPON
奥松島生まれのおのくんストーリー

おのくんは、宮城県東松島市「小野駅前応急仮設住宅」の人々の、
住処であった奥松島の復興を願って生まれたキャラクターです。
これまでのゆったりとした暮らしから一変、被災し先の見えない状況のなかで、
さまざまな困難に立ちむかいながら、「めんどくしぇ」とぼやきつつ、
日々前向きに、あたらしい未来を自分たちの手で築いていこう、という思いが込められています。

元祖は、支援者がおしえてくれた、米国の貧しい労働者階級のおかあさんが、
子どもにプレゼントするために、おとうさんの靴下を改良したソックモンキー

そのかわいさに惚れこんだ小野のおかあさんたちも、
おのくんをひとつひとつ手縫いしています。