【on_Flickr】
JORDAN_2015
【on_Flickr】
0920_JORDAN
ネボ山からエルサレムを見下ろす光景は、絶望的な土漠地帯である。
海抜マイナス400mの「死海」までゆるやかに土漠の裾野が広がっている。
ココに独り放擲されたら、あっという間に絶命するだろう…そのぐらいの厳しい自然環境。
だからこそ、ユダヤ教が生まれ、キリスト教が生まれ、イスラームが生まれた。
絶望的な自然環境の中で「生き延びるため」には、神の存在が必要だった。
ノマドの民が「水に通ずる道」がすなわちイスラームである。
神は絶対であり、人間の認識を超えたもっとも遠い存在である。
それは何故か。
厳しい自然環境の下では、どんな苦境も起こりうる。
その理不尽な処遇を受け入れるためには、神は遠い存在でなければならなかった。
たとえ飢え死にすることがあったとしても、
その事実を肯うために。
しかし人間も知恵を付け、自然環境に抗う術を徐々に身につけるようになる。
その術が欲を生んだ。人よりも賢く生きたい、人よりも長く生きたい…という欲を。
運命共同体(ゲマインシャフト)の集団生活から、農耕的個人主義へ。
「神曰へリ、人を我等の像と、我等の肖とに從ひて造るべし」(旧約聖書1章26節)
いつの間にか、
神と人間の距離が縮まり、人は神の似姿であると説かれる。
そして、
人間は神に近づけ得る存在である…という、誤った至上主義が生まれてしまう。
神の前では、森羅万象生命のすべてはみな平等であった状態から、
人間だけが神に近づけ得る存在として、優位に立つ状態へ。
森も海も草花も獸も虫もひとしく等価な存在であった状態から、
人間だけが神に代わって司れ得る状態へ…と。
神の子イエス・キリストは、神の言葉そのものであり、
そのイエスを拝する教会は貴い場所であり、その祭司は
崇めるべき聖職者である…と、
神の存在が人間に近づいてから、その
ヒエラルキーが生まれ、
神に近い存在、神に遠い存在というグラデーションが人為的になされるようになる。
聖職者である祭司は、神の名の下に君臨し、信者を意のままに扱うようになる。
「告解制度=懺悔」を導入し、
心の罪を暴くことで、聖職者が信者を精神的にも支配する構図。
背信する者や、異教徒たちに対しては、
心の闇を「言い訳」に断罪可能とする仕組みが生まれる。
どこまでも神の存在に近い、
睥睨する人間の振るまいを可能にした。
国家というフィクションの原型は、まさにここにある。
表向きは政教分離を掲げてはいるが、国家を崇める構図は
信仰そのものだ。
背信する者や、異教徒たちに対して、心の闇を「言い訳」に断罪可能とするのが、
宗教ではなく、何というのか。
「共謀罪」は「魔女狩り」そのものじゃないか。
競争社会を促し、「資本主義」に殉ずる者を優遇し、「強い個体」だけが生き残れる
【社会】という名の信仰。
【社会】という空間には、人間以外の存在が排斥されている。
【世界】には、これだけの生命があふれているというのに。
人間が【世界】で「生き延びるために」生み出した神が、
いつのまにやら「神=人間」となって【社会】に君臨する。
【社会】は滅びても【世界】は存続しつづける。
その視点を養うことが、いまこの【社会】では急務だ。