私の町 吉備津

藤井高尚って知っている??今、彼の著書[歌のしるべ]を紹介しております。

「吾輩は猫である」と挿絵

2009-08-16 09:27:36 | Weblog
 始めて漱石が、子規の依頼で「吾輩は猫である」を「ホトトギス」に投稿したのは明治38年の1月でした。

 このホトトギスには以後(十一)まで「吾輩は猫である」が掲載されます。最初は一回だけで終わる予定だったようですが、その猫様の猫様ならぬ生きざまが好評を博したので、その後、十回もの長きにわたって連載されることになったのだそうです。
 挿絵を担当した画家も不折先生をはじめとして、勿論、月村さんも加わります。そのほか2,3人の画家の挿絵も見ることができます。

     

 でも、不思議なことですが、この「ホトトギス」に載っている「吾輩は猫である」の挿絵の中には、主人公である猫の挿絵が一枚もありません。昨日取り挙げた「ステーションスケッチ」にしても、すべてが物語とは関係のない挿絵ばかりです。

 どうも猫様に対して申し訳ないような気分がしてなりません。猫様に同情しながらいつも読んでいるのですが。

「吾輩は猫である」と岡山名物吉備団子③

2009-08-15 13:34:02 | Weblog
 「不折か月村か、そんなこたあどうでもええどう」と、言う声が方々から聞こえてくるようですが、まあ、私としては決着を付けたい気分です。

 と、言うわけでもないのですが、漱石以外には誰も正解は答えられないのだということは十分に分かっているのですが、まあまた、あれこれ考えてみました。

 この「岡山名物吉備団子」は「吾輩は猫である(三)」に書かれています。此の(三)の挿絵は全部で七枚ありました。すべて不折先生の挿絵です。題は「ステーションスケッチ」です。

 そのうちの4枚を貼り付けますので見てください。

  

 此の(三)「吾輩は猫である」の内容とは何なら関係のない挿絵です。
 すべて駅の風景です。旅行をテーマにしたものです。すると、この絵から浮かんでくるのは、誰かが態々旅に行くというイメージが浮かんできます。郷里から帰ってきたというイメージではありません。そんなことから「吉備団子」のお土産を「猫様にでもあげてください」と、買ってきた人は、不折ではならないと結論付けました。なお、月村の挿絵が登場するのは(九)からです。(三)には出ていません。そんな意味からも不折でなくてはならないと思うのですが。こんな事はどうでもいい枝葉末節なことだということはよく分かっているのですが、退屈まぎれに書いてみました。

 どうでしょうか。

吾輩は猫であると吉備団子②

2009-08-14 09:06:03 | Weblog
 昨日は、猫様へのお土産「吉備団子」は、不折先生の岡山土産ではないかと想像してみたのですが、また、例のお節介屋さんからメールを頂きました。
 
 「あんたみてえに、吉備団子を土産に持ってきたのが、不折とか言う画家だと決めつけてしまっているが、もうちょっと考えてみにゃー」
 と、言うのです。どんなに考えてみるのか、この不折先生を置いて、皆目見当すらたちません。
 「『吾輩は猫である』の挿絵は、中村不折一人が描いたものではないのじゃ。岡本月村と言う画家もおるのじゃ。この人が持って行ったのかもしれんど』

 と言うのです。
 
 「岡本月村」、そんな名前の画家なんて、お恥ずかしいことですが、今までに聞いたこともありません。
 そこで、早速ホトトギスに掲載されている「吾輩は猫である」の挿絵を捜してみました。ありました。本当にありました。「吾輩は猫である(九)」に「月村」の挿絵が三枚もあるではありませんか。
    

 今まではこのホトトギスに掲載されている挿絵は全部不折のばかりだと思っていました。でも、此の月村のも、その他楓散人など2、3人の名前が見えます。

 でも、どうして、挿絵画家のこの月村が「吉備団子」を持っていかんければならないのか、そこらあたりの理由は、とんと分かりません。

 なおしばらく調べてみて、ようやく辿り着いたのが、この画家の出身地が岡山であるという事実でした。
 ひょっとすると、不折ではなく、この月村が、何かの都合で郷里の岡山に帰って、そのお土産に岡山名物吉備団子を持ていったのかもしれません。
 「つまらんもんですけーど、お猫さんにでも食べてもろうてつかあせえ」
 とか、何か言って、差し出したのかもしれません。

 とにかく、こんなことで「吉備団」と「吾輩は猫である」を結び付けるような人物が二人もでてきたのには驚きました。

 「小説より奇なり」です。
 朝から、驚きのお盆です。

 お盆と言えば、話ががらりと変わりますが、昨日はお盆の入りです。あなたの家では御先祖様を、どんな方法でお迎えしていますか。
 我が家では、家族全員で、お墓に参り、その墓の前で迎え火を焚いて、御迎えをしました。ご近所では、ご自分の家の玄関先で迎え火を焚く家もありますが。それから家に帰って、盆用の飾棚をしつらえ、お位牌などを並べて「おかんき」を上げます。なお、我が家は真言宗です。真言宗のおかんき本をとなえて、祖先をお迎えします。

 それぞれの土地によって、それぞれの方法でお盆を迎えます。

 

「吾輩は猫である」と岡山名物吉備団子

2009-08-13 09:55:29 | Weblog
 「吾輩は猫である」の中に、なぜだか分からないのですが、漱石は、全国数ある中の名物に、岡山の「吉備団子」を取り上げております。
 なぜ、吉備団子がここに、です。
 
 その辺りのことは、今まで誰も取り上げておりませんので(無論、あの森田草平すらもです、取り上げるだけ無駄なのかもしれませんが)、敢えて、その仮説みたいなものを出してみたいと思います。

 まず、この「吉備団子」と言う字が載ったホトトギスを見てください。

   

 ホトトギス百号に載った「吾輩は猫である(三)」です。字が小さくて読めないかもしれませんが、上段の四行目に
 
 「・・・此間は岡山の名産吉備団子を態々吾輩の名宛で届けて呉れた人がある。・・・」
 
 と、出ています。

 「なぜ吉備団子を、誰が」という、私の大胆な仮説を書いてみますので、ご批判くだされば幸いです存じます。

 それは、漱石の猫の挿絵を画いていた中村不折が、この前の豪渓風景の写生のため岡山に来ていて、そのお土産に
 「これを猫様にでも差し上げてください」
 と、挨拶代わりに、態々(わざわざ)漱石のためにと買ってきてくれたものではないでしょうか。
 この写生旅行がいつだったかは不明なのですが、朝日新聞社にでも尋ねてみれば分かるのではと思いますが、それほど重大なことでもないので、私の頭の中だけに止めておこうと思っています。
 

「吾輩は猫である」と岡山

2009-08-12 12:45:26 | Weblog
 不折の絵葉書はこれで終わりにします。
 でも、ついでですので、不折が挿絵を描いた夏目漱石の「吾輩は猫である」のついて、もう少しばかり気になっている部分がありますので書いてみます。

 というのは、皆さんはと言っても、岡山に住む人にとってはと言う意味ですが、既に、十分にご承知だとは思いますが、「吾輩は猫である」の中に。次のような文章があります。

 「・・・この間は岡山の名産吉備団子(きびだんご)をわざわざ吾輩の名宛で届けてくれた人がある。だんだん人間から同情を寄せらるるに従って、己(おのれ)が猫である事はようやく忘却してくる。・・・・・」「吾輩は猫である(三)」

 岡山(吉備地方)と漱石の猫様とのわずかな関係です。
 
 この猫様にと、わざわざ送って貰った「吉備団子」も、
 「・・・・主人が吾輩に一言の挨拶もなく、吉備団子をわが物顔に喰ひ尽したのは残念の次第である。・・・・」
 
 たったこれだけの関係です。

 なぜ、ここに漱石は全国に多々ある銘菓から岡山の「吉備団子」を挙げたのでしょうか?

 今朝の朝日新聞によりますと、今、お土産と言うと北海道の六花亭の「マルセイバターサンド」だそうです。「吉備団子」など十位にも入っていません。あまりおいしいお菓子だとは、私自身も岡山に住んでいるのですが、思いません。
 それなのに、何故、漱石は、わざわざ「吉備団子」と言う名前をあげたのでしょうか。

 その辺りを、不折の挿絵と一緒に、明日にでも、少し深く掘り下げてみたいと思います。

 なお、此処でちょっと不折先生の自画像をご覧に頂きます。
 「猫である」より5年後の明治43年「ホトトギス」に、不折先生は「画書雑談」と言う文を寄稿なさっておられます。その挿絵に自画像を載せておられます。

          

 どうです。不敵な面構えではありませんか。「正月前」と題が賦してあります。

 中村不折の絵葉書  番外

2009-08-11 09:00:53 | Weblog
 昨日の「豪渓毘沙門堂」で、私の持っている不折の絵はがきは最後です。多くの方に見て頂きましたが、何となく、まだ、し残したような気がしてなりません。もう一枚、何となく私の持っている絵ハガキの中に隠れているような感じがしてなりません。かってどこかで見たことがあるような、ないようなそんな気分です。
 そこで、物置の隅にしまったある絵ハガキの束を紐解きました。一枚一枚丁寧に捲ってみますが、それらしき絵ハガキは見つかりません。私の思い違いだったのかなと思いながら最後まで見ていきます。後2,3枚残した所にやっぱりありました。
 多分、不折の絵はがきです。セットではないのですがたった1枚だけありました。
  
      

 壬子とありますから大正元年に出た絵葉書です。不折が何のために書いた絵かは分かりんせんが、その絵を元に誰かが絵ハガキにしつらえたことには間違いありません。

 こんな絵ハガキも持っています。「たったの2枚だけではありません」よと、あのメール氏に返事をしておきました。

 中村不折の絵葉書   豪渓⑥

2009-08-10 13:32:23 | Weblog

 長々と書き綴って参りましたが、不折の豪渓絵ハガキも最後となりました。 

 毘沙門堂です。 このお堂も、今は見当たりませんが、不折が書き残してくれたお蔭で、かって、この地にも毘沙門様をお祭りしたお社があったこと分かります。

          

 毘沙門堂前に立ちて仰いで天柱の絶巓を望む。豪壮雄比するものなし。此一峯を以て天下に呼號するに足る」 と、その印象を不折先生は、旅行記に書いています。

 以上、「見返り橋より天柱をのぞむ」・「鸚鵡石」・「三鈷の淵」・「金毘羅社」・「毘沙門堂」の五枚の絵ハガキについて書いてきました。この絵ハガキは、不折先生が朝日新聞に掲載した豪渓記から写し取って絵葉書に作り替えたものだそうですから、その絵が大変不明瞭になっています。

 なお、ここへ通じている県道は、現在、岩崩れのために通行止めになっていて、車で通り抜けして吉備中央町には行くことはできませんが、紅葉の秋には相当な人が訪れています。 まだ一度もと言う人は是非訪ねてみるだけの価値はあります。
  ここに挙げた写真は「三鈷の淵」かもしれません?まあ、こんな風景が至る所で見られます。どこが、不折先生の描い「三鈷の淵」か探してみるのも、また違った豪渓探索にもなります。
 一見の価値は十分あります。夏もまた良しです。裸足になって谷川の冷たい水に足を浸すと、昔懐かしい匂いまでが、頭の中にも、、飛び込んで来ること間違いないです。

 


中村不折の絵葉書   豪渓⑤

2009-08-09 08:46:48 | Weblog
 不折が豪渓を訪れて最初に描いたのは豪渓の入り口付近(市場)から見た岩山の頂きにある金毘羅社でした。

   

 「市場村の出はずれに金毘羅社を祀れる岩山がある。九十度以上の傾の其巓(いただき)には、松が生えて居る。横になって居るのや逆になって居るのも見えて、水は清く、砂が白い」

 と、その旅行記に書いています。

 現在、このお社は見えません。「横になったり逆さになったり」と、不折の書いている松も、松喰い虫の影響で、ほとんど姿をとどめていません。わずかに枯れ松が哀れな姿を天空に向けて悲しげに残しているだけです。
 そこを流れる水も、昔ような「清く」とまではいかないのですが、それでも、それなりには、今でも、十分に澄んで流れてはいます。しかし、不折が書いた「清く」とは、随分と、かけ離れた流れになっているように感じられるのです。本当に清冽な清らかな水の流れではありません。それと何らかの関係があるのかもしれませんが、砂の白さも昔ほどは目立ちません。なにか薄汚れた白で、灰色に近いような感じがします。時々、岸辺に流れ着いたペットボトルの空などと一緒に見ると興ざめの感がより一層強く感じられ、「本当に昔はきれいだったなー」と、七十歳の深いため息のようなものが胸にこみ上げてきます。それが哀愁と言うものでしょうか。

 それぞれの年齢で見る絵葉書の味わいも、又、随分と変わってくるものだと、懐かしみながら久しぶりに取りだして眺めています。古いアルバムと同じで、こんな絵ハガキの見方もできるものです。
 これも私の大切な宝物です。

中村不折の絵葉書   豪渓④

2009-08-08 10:00:47 | Weblog
 次に不折の絵葉書「三鈷の淵」を紹介します。
  
          
 
 この絵について、中村不折は、次のように言っています。

 「豪渓は山や岩ばかりでなく、谿が中々ものになって居る。ここを本当に研究すれば、雪舟のような大家になれること印紙を貼って保證する」

 と。

 どうです。よく見てください。そういわれると、いかにも雪舟を意識した絵とは思われませんか。筆の流れ具合や薄墨の中の岩などの描き方なんかを見ると、「いかにも雪舟だな」と、強く感じられませんか。

 雪舟の修行した井山の宝福寺から、この豪渓までは距離にすると8kmほどです。それほど近い豪渓を描いて、備中生まれの偉大なる先人雪舟に対して、それも「印紙を貼って」などという漱石流のしゃれた言葉を使って敬意を表しています。

 なお、不折が描いた「三鈷の淵」なる所が、現在もそう呼ばれているのかどうかは不明です。谿が大きく周りの花崗岩を侵食し嵌入蛇行して流れている場所が2,3か所ありますが、そのうちのどれかをそう呼んでいたのかもしれません。
 でも、三鈷と名がつくような谷川が特別に三つに分かれて流れている場所はないのではと思うのですが。



 この「三鈷」とは、「三鈷杵」と呼ばれている真言密教の仏具の一つです。
 
 これもまた、余談ごとですが、この三鈷杵についてこんな言い伝えが高野山には残っているそうです。
 
 中国で修行を終えられた弘法大師が、師から頂いた三鈷を日本めがけて東の空に投げ上げます。その三鈷杵が飛んできて落ちた場所が高野山だと言われています。そこに空海は真言密教の道場を建てたのだそう。
 此の高野山に、今でも、何代目かの、中国から飛んできた三鈷がひかっかった木「三鈷の松」を見ることができます。

中村不折の絵葉書   豪渓③

2009-08-07 13:50:05 | Weblog
 これで不折の豪渓絵ハガキは終わりにしようと思ったのですが。案外、人気がいいもんで、残りの絵ハガキも順次ご紹介して行きたいと思います。

             

 これが不折が描いた2枚目の豪渓の絵ハガキです。「鸚鵡石」と、題がつけられています。
 現在は、こんな石が、豪渓のどこかにあるのかもしれませんが、私は、もう幾度となくこの地を訪ねたことがあるのですが、まだ、かって一度も、この石は見たことがありません。又、この石には、柴山前権中納言持豊の歌が刻まれているといわれるのですが、そんな歌が詠まれたということも知りませんでした。
 どなたか、此の持豊と言う人物と一緒に、この場所をご存知の方がおられましたら、お教え願えればと思います。

  その歌は、この絵ハガキの説明によりますと、
  
   ことと走半爰よりとへよ安曳農
             山彦ならぬこたへ遠そ勢舞

 と書かれているというのです。
  
 「こととはば ここより問へよ 安曳(あしひき)?の
             山彦ならぬ 応へをぞせむ」
 
 とぐらいに読むのでしょうか。「安曳」は、どうしても「あしひき」とは読めそうにありませんが、この言葉が、次の「山」に懸かる枕詞としたら「あしひき}でなければなりません。どうでしょうか? もしかして、誰かが、「足」を「安」と勘違いして書いたのかもしれませんね。

 尚、お断りしておきますが、写真が少々ぼやけています。お許しください。

中村不折の絵葉書   豪渓②

2009-08-06 12:32:37 | Weblog

 さて、この不折の描いた豪渓が絵ハガキになっています。 それが「豪渓奇勝」です。五枚一組です。 

「金毘羅社」「鸚鵡石」「毘沙門堂」「三鈷の淵」「見返り橋より天柱をのぞむ」です。  

             

 不折先生が、この天柱を画いているとき、ここを案内した人たちが、しきりに、 
   「どうです。見事な字でしょう。」
  褒め称えます。でも、不折先生は、後で次のようにその時のことを述懐されています。

 「うまいうまいと、みんなが言うていたが、そんなにありがたがるような感心した字でもなかったのだが・・・」

 なお、1800年頃、この字は備前の医師武元登々庵と言う人が書いた字を、4人の職人が刻んだということです


漱石の吾輩は猫である

2009-08-05 12:48:44 | Weblog
 豪渓の絵ハガキの事については、またまた置いといて、中村不折が挿絵を描い夏目漱石の「吾輩は猫である」について少々書き綴ってまいります。

 漱石がこの小説を書いたのは明治38年(1905)1月の俳句雑誌「ほととぎす」です。
 「吾輩は猫である。名前はまだ無い。どこで生まれたか頓と見当がつかない。・・・・」
 と言うあれです。その時の雑誌を、私は、又、持っていますのでお見せします。

        

 この猫さまの見た人間模様を、漱石一流の書き振りで、面白ろおかしく書き綴った小説が「吾輩は猫である」です。

 若い時分から何度となく読んだのですが、いつも気になる漱石の書き振りがあります。
 「・・・吾輩の尊敬する筋向の・・・」に続く文章です。

 「白君は先日玉の様な猫子を8疋生まれたのである」という文章があります。正しくは<生んだのである>でなくてはいけないのではと思って、漱石もはやり人の子だと、思いながら一人で、これ又、悦に入っています。

 まあ、そんなことはどうでもいいことですが、この猫様の中には大変難しい言葉がたくさん出てきます。今も辞書を片一方に置いて読んでいます。

 獰悪な、偖、おさんの三馬を偸んで、抔、後架、波斯、酷いなどという字が文の中に見え隠れするだけでもうろうろする始末です。
 また、こんな文章も目に突き刺さります。どう解釈したらいいでしょうか?

 <果然彼は墻壁の缺所に咄喊して来た>
 などと言う、やたら難しい文章です。
  
 さて、こはいかにである。

 まあ、でも面白い小説であることには間違いありません。そんな難しい込み言った解釈が必要なところはスーッ飛ばしていきます。

 次に、この明治38年(1905年)1月号の「ホトトギ」に載った「吾輩は猫である」の中に描かれた中村不折の挿絵をご紹介します。

   

なんとなく柔らか味のある、これこそ明治の絵だと、感じる挿絵ではないでしょうか

 漱石は、子規に頼まれて「ホトトギス」の1月号だけに載せる小説をと言うことで、この猫を書いたのだそうです。そんなに1年半もの長い間、続けて書く予定は漱石にはなかったということです。
 この1月号の猫さまがあまりにも有名になりすぎて、続けて書かざるを得なくなったと言うのが現実だということです。
 なお。この初版本、上・中・下の3冊で、現在では、300万円もの値段が付けられているそうです。「坊ちゃん」と共に、それだけ有名な日本を代表する作品になったのです。

 中村不折の絵葉書   豪渓

2009-08-04 12:01:35 | Weblog
 例のお節介屋さんから、またまた、お叱りのメールを頂きました。
 「たかが昔のきたねえ絵葉書ではねえか。そげえなもなあ、どけえでもあらー。自慢げに書くもんじゃねえ。たったの2枚ぐれえで・・・」
 と、言うのです。

 「たったの2枚ぐれえで」と、いうメールにカチンときます。
 「まだあらー。そげえにばかにしたもんでもねえでー。じゃあ、もう少し見せてあげら―」と、言うわけではないのですが、しばらく、古事記の磐日売命のお話は先延しして、「私の絵葉書」について、あのメール氏が言うように、あまり自慢できるものではありませんが。話を続けてまいりますので、もう少々お付き合いください。

 これも古い吉備の国の、そうです、あの天下の奇勝「豪渓」の絵葉書です。「中村不折」と、言う画家が描いた絵を元にして作られた絵葉書です。

        


 「中村不折」と言ってもご存じないかと思いますが、ちょっと絵をご紹介します。

        

 どうです、何か漫画っぽい絵でしょう。ヨーロッパに留学した立派な洋画家一人です。1号が何万円もするような、中央では相当名の知れた偉い絵描き屋さんです。
 どうしてこんな偉い絵描き屋さんの先生が豪渓なんぞへやってきたのでしょうかね。
 
 この吉備の国辺りでは、あまり名の知られていない画家ですが、この「不折」と言う人は、あの夏目漱石が、最初「ほととぎす」に「吾輩は猫である」を連載した時、その挿絵を描いた東京生まれの画家なのです。岡山とは何ら関係がありません。その中村不折が、わざわざ岡山の豪渓まで足を運んで、その奇勝を自分の筆で描いたのは事実ですが、誰が呼ん出来たのかは分かりませんが。
 今は、ただ、絵葉書のみがわずかですが岡山の地に残っています、その一部が私の手にもあるのです。
  
 版元は「備中高梁町 芳賀芙蓉軒」と記されているのみです。こんな版元、高梁には、今は何も残っていないということでした。

 これも、また、大きく本題より脱線しますが、もう少し詳しく、夏目漱石の「吾輩は猫である」に掲載された「不折」の挿絵をご紹介したいと思います。

 竹久夢二の絵葉書

2009-08-03 13:03:43 | Weblog
 昨日に引き続きまして、今日も一枚の絵葉書です。

 私は、そんなにマニアではないのですが古い絵葉書を少々持っています。多分、日本で最初の海水浴場と言われた大礒海水浴場の風景も、そのうちの一枚です。

 次にお見せするのも、又、非常に珍しい絵葉書です。
 今、岡山に、これと同じ絵葉書があるだろうか? きっとないと、思います。それぐらい珍しいものです。

 竹久夢二の絵葉書です。写真でどうぞ。

          

 これは「千曲小唄」の中にある一枚です。

         

 さらに、もう一枚お見せしますが、これは彼の絵かどうかあやふやなところがあります。        

         

長梅雨 嘆きの行楽地 大礒海水浴場

2009-08-02 14:30:27 | Weblog
 こんな言葉が、今朝の朝刊に出ています。「海浜・プール 閑散」、それも新聞のトップ記事にです。冷夏ゆえの現象だそうです。エルニーニョとか何とか、訳の分からない地球規模の気象なのだそうです。
 そのおかげで夏野菜の高値が報道されると、途端に、スーパーでの、夏野菜が、瞬く間に空になったとか、そんな報道もしきりに聞かれます。

 あの入道雲がやたらと恋しい気持ちになります。

 このような梅雨が明けない今年の海水浴場はどこでも、パラソルもまばらで、「秋みたいにさびしい」と、関係者を嘆かせています。

 さて、私は明治の何時ごろかははっきりしないのですが、一枚の海水浴場の絵葉書を持っています。その絵葉書を、初めて、このブログで公開します。

            
 
 神奈川県の大礒海岸で遊ぶ人たちを撮った絵葉書です、。それもカラーで。
 そこに書かれている説明文は
 「・・・風光快潤言うべからず。夏季此の地に遊ぶもの五万人以上に及ぶ」と、


 これがその絵葉書です。現代と比べてみると格段の差異が感じられます。時代が進歩するとは一体どんな事でしょうかね。
 当時、この浜に、もし現代のビキニ姿の女性が現れたら、人々はなんて言いますか。新聞は、警察はどんな対応をしたでしょうかね。
 それにしても人数も、大礒で、それも一夏で五万人だなんて、信じられますか。