私の町 吉備津

藤井高尚って知っている??今、彼の著書[歌のしるべ]を紹介しております。

「吾輩は猫である」と母親

2009-08-30 11:39:57 | Weblog
 とん子、すん子、坊ばの3人娘たちの体たらくな食事の様子を彼女たちの母親はどこから見ていたのでしょうか。「吾輩は猫である」の中では、一言も漱石先生は触れてはいません。
 ただ
 「細君は例の如く食事を済ませて・・・・・」と、書いてあるばかりです。
 
 いたって、これまた大仰そのものです。次に母親としての言葉が出てくるのは、
 「さあ学校に御いで。遅くなりますよ」です。食事時の作法についてのお小言はありません。それが、当時の、普通の家庭の有様でであったのかもしれませんが。

 その上、この母親の「学校に御いで」にしてもも、うっかりした思い違いなのです。母親から催促された「とん子」はすぐ反論に懸ります。

 「あら、でも今日は御休みよ」と、支度する気配もありません。
 「昨日、先生が御休だって、仰ってよ」
 
 ここらあたりの言葉使いは、こんな体たらくな食事をする子供であっても、ちゃんと礼儀にかなった返答をしています。「御休」・「仰ってよ」など対人関係の言葉が上手に使いこなせています。子供なりに敬語がきちんと使えます。
 「先生が休みだと言ってた」
 なんて乱暴な言葉使いではありません。

 細君も「そうかな」と一瞬疑問に思ったのでしょう。戸棚から暦を出して調べたりもします。カレンダーなんて現在みたいな便利な物は、一般家庭にはなかったのでしょうかね。
 そこで、初めて今日が、赤い字の御祭日と分かるような、そそっかしい細君でありますから、父親の苦沙弥同様、食事時の躾については、随分と大仰なところがあったように読めます。

 まあ、子供たちへの躾はともかくとして、感心させられるのは挿絵の持つ威力です。一枚の挿絵の中から、その後ろに隠されている家庭の様子さへ十分に読みとることができます。この場合は、父親や母親、いわんや御三に至るまで、目に見えるようです。
 
 最後に、もう一度、苦沙弥先生の三人娘の食事風景を載せておきます。特とごろうじあれ!
     
 挿絵って不思議な品物ですね。平安の昔からの絵巻物の長い歴史があるから余計に、より洗練された挿絵が生まれるのではないかとも思っています。