私の町 吉備津

藤井高尚って知っている??今、彼の著書[歌のしるべ]を紹介しております。

「吾輩は猫である」と「暴君坊ば」

2009-08-25 09:56:54 | Weblog
 珍野家の三人娘の朝食風景がまだまだ続きます。末っ子「坊ば」の暴君振りをご自分の子供時代と比べながら見てください。

 「・・・・・坊ばは隣りから分捕(ぶんど)った偉大なる茶碗と、長大なる箸を専有して、しきりに暴威を擅(ほしいまま)にしている。使いこなせない者をむやみに使おうとするのだから、勢(いきおい)暴威を逞(たくま)しくせざるを得ない。」
 と。誰もが手出し出来ないような勝手気ままな暴威を逞しくしています。数えの3歳の顔が横長な女の子です。

 「坊ばはまず箸の根元を二本いっしょに握ったままうんと茶碗の底へ突込んだ。茶碗の中は飯が八分通り盛り込まれて、その上に味噌汁が一面に漲(みなぎ)っている。箸の力が茶碗へ伝わるやいなや、今までどうか、こうか、平均を保っていたのが、急に襲撃を受けたので三十度ばかり傾いた。」
 漫画か何かを見ているような感覚に陥ります。「三十度ばかり傾いた。」このあたりの書き振りはなんとも言えません。この後どうったかは一目瞭然です。
 突然の「三十度」と言う数が何かい生き生きしたもののように思われます。

 「同時に味噌汁は容赦なくだらだらと胸のあたりへこぼれだす。坊ばはそのくらいな事で辟易(へきえき)する訳がない。坊ばは暴君である。今度は突き込んだ箸を、うんと力一杯茶碗の底から刎(は)ね上げた。同時に小さな口を縁(ふち)まで持って行って、刎(は)ね上げられた米粒を這入(はい)るだけ口の中へ受納した。」
 酒飲みが一杯に盛られた茶碗酒を口で迎えに行くのに似ています。ご飯がこぼれたぐらいでめそめそする坊ばではありません。その余りにも自由奔放なる傍若無人ぶりを「暴君である」と、「吾輩の猫」が感じたのです。

 「打ち洩(も)らされた米粒は黄色な汁と相和して鼻のあたまと頬(ほ)っぺたと顋(あご)とへ、やっと掛声をして飛びついた。飛びつき損じて畳の上へこぼれたものは打算(ださん)の限りでない。随分無分別な飯の食い方である。」

 なんてお行儀の悪い食べ方でしょう。でも、此の中に、なんだかとても懐かしい遠い過ぎ去って行った故郷の匂いを感じませんか。
 「畳の上へこぼれたものは打算(ださん)の限りでない」。不思議なことですが、昔の自分の周りに起きていた日常茶飯事の姿が何とはなしに目に浮かんできます。
 
 それくらいの事でこせこせする必要はない。そんな事は小さい小さい。それでこそのびのびと子供が伸びるのだとでも言いたいのでしょうか、母親や父親、さらにお手伝いのお三は、この風景の中にはでてきません。総て子供任せです。女の子だからと言うわけではありますまいに。後で書きますが、父親、そうです。苦沙弥先生は大仰なものです。

 まだまだ珍野家の朝食風景は続きます。今では何処へ行ったって見える風景ではありません。家庭の躾の第一に、挨拶や返事に取って代わって、この食事風景が挙げられているそうです。ここに現代における教育問題の根本が存在しているのではと思えるのですが?
 
 この後はいかになりますやら。此の後は、また明日以降にでも。