私の町 吉備津

藤井高尚って知っている??今、彼の著書[歌のしるべ]を紹介しております。

「吾輩は猫である」と二女すん子

2009-08-28 15:09:38 | Weblog
 さて、今までは総て、長女と三女の食事の風景でした。二女は挿絵を見たかぎりでは、何も問題なくお行儀よく食事をしているようです。漱石先生はあくまでも公平平等のお方であられます。二女だけ、お行儀よくお澄ましして食事させる訳にはいかんかったのでしょう。その食事の様子も、また、「特と、ごろうじあれ」とお書きになっていらっしゃいます。即ち、

 「この時ただ今まではおとなしく沢庵(たくあん)をかじっていたすん子が、急に盛り立ての味噌汁の中から薩摩芋(さつまいも)のくずれたのをしゃくい出して、勢よく口の内へ抛(ほう)り込んだ。」
 
 この子もあまりお上品な食べ方ではないようです。勢いよく口の中に抛り込むなんて、甚だしく下品な食事の仕方だと非難されても仕方ないような食べ方です。


 「諸君も御承知であろうが、汁にした薩摩芋の熱したのほど口中(こうちゅう)にこたえる者はない。大人(おとな)ですら注意しないと火傷(やけど)をしたような心持ちがする。ましてすん子のごとき、薩摩芋に経験の乏(とぼ)しい者は無論狼狽(ろうばい)する訳である。」
 
 ご丁寧なる薩摩芋の行く末が暗示させています。

 「すん子はワッと云いながら口中(こうちゅう)の芋を食卓の上へ吐き出した。」
 当然の結末です。

 「その二三片(ぺん)がどう云う拍子か、坊ばの前まですべって来て、ちょうどいい加減な距離でとまる。坊ばは固(もと)より薩摩芋が大好きである。大好きな薩摩芋が眼の前へ飛んで来たのだから、早速箸を抛(ほう)り出して、手攫(てづか)みにしてむしゃむしゃ食ってしまった。」

 我が家ではと、言っても私だけですが、時々、自分の箸で食卓に並んでいるお総菜を御幼少時分のくせがつい出て取ります。すると、どうでしょう。間髪をいれずに、忽ちに
 「きたないじゃあないですか。ちゃんと添え箸を添えているのじゃないですか。それを使ってください。きたないじゃないですか。何回言えば分かるのですか」と。
 食事の時は、いつもこんなお小言を頂戴している私です。「どこがきたないもんか」と、心の奥で思うのですが、悲しいかな「はいはい分かりました。以後気い付けます」と、いと素直なる返答をします。
 それだからと言うわけでもないのですが。こんな坊ばやすん子などの朝食の風景に出くわすと、なんだかほっとし気分になります。

 苦沙弥先生のご家庭では、坊ばは姉の口から出た薩摩芋を瞬く間に何の躊躇もなく平気で、それも、箸をそこらあたりへ投げ捨てて手づかみで口に入れてしまうのです。なんと大らかなのんびりとした家庭でしょうか。
 こんな懐かしい風景は、現在、われわれの周りの家庭の中から、きれいさっぱりと消え去ってしまってしまいました。

 それが躾だ。これが美徳なのだと、自慢している世のお母さん方に、この場面をもう一度とくとご覧んじあれと、呼びかけたいような気分にるのは私だけでしょうか。