Retrospective...

イラストレーター/ライター遠藤イヅルの困った嗜好をばらす場所

【てつどう】名鉄600V路線の廃線跡に涙する(2)揖斐線跡は今

2010-05-26 | てつどう。
GWのGTの記事の続きです。長くて済みません(汗



谷汲駅を出てつぎに向かった先は...。




架線柱と線路がはずされただけ、といった感じで、いつモ750がひょっこり現れても
おかしくないような谷汲線廃線跡と並走して走り、
黒野駅跡を目指します。




黒野駅は揖斐線の駅で、谷汲線の始発駅でもあった小さな乗りかえ駅でした。
揖斐線の前身である岐北軽便鉄道時代以来の駅で、1926年築の瀟洒な駅舎が有名でした。
また、揖斐線・谷汲線の車庫もあって、運転の中核駅としての責も担っていました。



末期は赤+白の塗り分けだったので、今見るとむしろ新鮮に感じる単一塗装のモ510と、
1987年ごろまで市内直通の相棒だったモ520(奥)。どちらも美濃電の出自。
黒野にて、1987年。



2001年に谷汲線と揖斐線の黒野駅以北、本揖斐までが廃止になり、
かつての構内のにぎやかさは少し無くなりましたが往時の雰囲気はそのままでした。
でもそれも長くは続かず、ついに2005年、揖斐線自体の廃止を迎えてしまうことになったのです。



廃止後5年、駅舎が残っていたことは知っていました。
なので、足しげく通った黒野駅はすぐに見つかりました。
C5を停め、少し離れて眺めます。懐かしい。
でもカフェすらも営業しておらず、入口は板が塞がれていて
駅前の通りも誰もいない。これは寂しいぞ。




リフォームはされていますが、開業時から建つ由緒正しい建物の面影は十分です。
第一回中部の駅百選に選ばれただけあって、貫録もあります。




駅舎には現役当時の案内板が。揖斐線も谷汲線も記載が残っています。




でも、もっと胸をかきむしられるような光景があったのです。
それは、駅舎のすぐ裏、遺構が思った以上に残っている駅構内でした。










...ホームと上屋がそっくり残っているのです。
ここにはもう電車は来ないのに、それほど朽ちていない状態で目の前にそれはあるのです。
それは、衝撃でした。
まっさらな状態か、そこそこ残っているのではない、極めて半端な状態なのです。




黒野駅の現役時代。モ770登場のころ。まだ赤の単色塗り。
切り替え表示式の次列車告知板も懐かしい...。1987年。



小さな駅でしたが、揖斐線は決して本数は少なくないので、この構内をひっきりなしに
赤い小さい電車が行き来していました。
あの頃を、いろいろ思い出してしまいました。



...こういう気持ちになるのは分かっていたから、廃止されたらもう来ないだろうな、
と思っていたんですが、
ちょっとした拍子に来てみたら、まさかの状態を目の当たりにして、
思った以上に心に重かったです。

そしてなぜか、ieの心には、
揖斐線を初訪問してからの20年余にあったいろいろな出来事が、
まるで走馬灯のように脳内を、こころの中を駆け巡っていきました。

そのまま、静かな、あまりにも静かな昼下がりに、
ieはぽつねんと黒野駅跡の前に立ち尽くすばかり...。









...切ないなんてもんじゃない。
このやるせなさは、何だ...。





確かに足しげく通ったとはいえ、この沿線の住人だったわけではないんです。
それに、ここ以外にも、廃止される前に乗り、廃止後に訪ねたことのある路線もたくさんあります。
その無情感というものを、いろいろなところで感じたことは無論あります。

それでもここまでieに虚無感を与えたのは、それはこの揖斐・谷汲線が、
友人たちとはるばる訪ね、歩き、研究し、
小作品ながらも映画を作ったという「青春の1ページ」だったから。
ieの鉄道趣味の方向性への大きな影響を与えた場所であるということもあります。


それと、やりきれなかったんです。なぜ残らなかったのだろう?と。
平成になって路面電車が廃止される時代じゃなくなって
見直されようとしていた時期に、名鉄もそれなりに設備投資までしてきたというのに、
行政などの壁、そして自動車社会、さらには住民の意思の多くが、
この小さな電車たちの存続の道を阻んでしまった、とわかっていても。



しばし黒野駅に佇んだ後、とぼとぼC5に戻ります。
そして、揖斐線跡に沿って岐阜市内に向かうことにしました。
まるで思い出をトレースするように、駅の跡をたどります...。





政田駅跡。ここもホームが残ります。ホームのわきには新築住宅が建築中でした。
路線跡はこうして消えていくんだなと思った次第。
でも敷地はまだ名鉄のものなのかな?



下方駅跡。鉄橋に続く築堤は残りますが、駅舎やホームは跡かたもありません。



堤防に面したホームも懐かしい下方駅現役時代。1987年頃。




たぶん美濃北方~真桑付近。黒野へ向かう朝晩走っていた3重連。
まだモ520がいて、モ510に2種類の塗り方がいた時期。1987年。




美濃北方駅跡。駅舎とホームがここもそっくり残っています。
レールを敷いたらすぐにでも復活出来そうで、かえってそれが切ない。




そして、珍しい駅名で知られていた尻毛(しっけ)駅跡。
ここもホームがそのまま。やるせない。
たぶん廃止後に生まれたと思われる小さな子供が、すぐ脇で遊んでいました。




尻毛駅現役時代。モ751。



尻毛~旦ノ島間の鉄橋を渡るク2320型+モ700。1997年。



なんだか廃駅をたどるのがつらくなってきた(涙
んですが、このままie、市内線抜けて、美濃町線方面まで走ることにしました。
ということで、まだ続きます。



...ちなみに、忠節(ちゅうせつ)駅もショッピングセンターになって、もはやどこが駅だったのか
わからなくなっていました(号泣




>>鉄道のあとを担って行きかうバス。でも乗客の数はまばら。
道路にはクルマがあふれ、駅前は(もとから寂しかったとしても)
さらに閑散として、街の中心部の機能を失っていました。
きっと鉄道が無くなったことで、クルマへのシフトが進んだのでしょう。
鉄道を失った街と風景の寂しさが身にしみました。

>>でも、クルマを愛し、使う自分には、地方公共交通を残せ、
と声高らかには言えないんですよね...。
コメント (7)
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