地方の三文小説家「東義久」の独白

東義久のブログです。

随想やましろ8月分が京都新聞に掲載になりました。

2014-08-15 10:06:58 | 文学の部屋
2014年8月15日、京都新聞の山城版にぼくの原稿が掲載になりました。興味のある方はご一読を!



うちのお地蔵さん
                      東  義  久  

 地蔵盆の話をしたら、それはなんですか、と訊かれた。その方は東京出身だったようで、どうも地蔵盆というのに馴染みがないみたいで、ぼくは驚いた。そこで調べてみると、地蔵盆というのは、毎年、八月二十三日か二十四日に京都を中心に関西で行われるものであるということだ。
 その起源は、「難波鑑」と、いう上方随筆なるものに、江戸時代の初期には地蔵盆が行われていたと記されている。随分と昔から行われている行事なのである。
 ぼくは現在、宇治市に住んでいるが、実家は久御山。久御山の家にはお地蔵さんが二体祀られている。そのため、八月二十三日にはお地蔵さんの守りをするために戻るのだが、二体のお地蔵さんの前掛けを一年に一度新しく縫って、「奉納」という字を書き持って行く。
 先ずは、地蔵堂を掃除し、お地蔵さんの一年の汚れを洗い、持ってきた紅白の前掛けを一体ずつ新しいものに替える。それから、お供えの料理や花、提灯を飾りいざ本番だ。
 辺りはようやく陽が落ちて、提灯が明々と地蔵堂の位置を誇示する。
 やがて、頼んでおいたお寺の坊さんがお経をあげに。そのころになると、チラホラと村の人たちがお参りに来てくれる。
 お婆さんたちは、ぼくの親父はどうしている、元気か、と訊いてこられる。数年前までは親父も一緒にお地蔵さんの守りに来ていたが、最近は齢には勝てず来られなくなってしまった。そういうと、あんたのお父さんとは小学校の同級生やった、と昔を懐かしむようにいわれる。親父は来られなくなったが、親父もこのうちのお地蔵さんをこれまで守って来、またお地蔵さんに守られて来たのだ。
 この地蔵盆は地蔵信仰の側面と子どもの行事の側面、さらには盆の行事の側面も持つともいわれている。現在のように医療も発達してはいず、流行病や天変地異、飢饉などで命を落として行く子どもたちの親にとって、お地蔵さんは心の拠り所だったに違いない。二体のお地蔵さんを見ていると、毎年フッ、と思う。
 浴衣姿の子どもたちが小さな掌を合わせて一所けん命に拝んでいく。気持ちばかりのお下がりのお菓子をあげながら、ぼくの次の代まで引き継ぎたいものだと思う。
 今年ももう直ぐ地蔵盆がやって来る。
 


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