地方の三文小説家「東義久」の独白

東義久のブログです。

友だち数珠つなぎ ⑦橋本伸一よ永遠なれ

2008-07-26 10:41:53 | 友だち数珠つなぎ

ぼくの授賞式での記念写真です。

橋本伸一、通称しんちゃん。
彼はもういない。死んでしまいもう随分になる。
彼の死はあまりにも早い。
彼はぼくにギターを教えてくれた。当時、彼の家は河原町三条上るにあった。まちのまっただ中であった。
街なかで育った彼は、全くのスポーツ音痴だった。だから、彼は音楽や芸術的な方向に自分の才能を向けたのだろう。
そんな彼が服飾の世界に興味を持った。大学に行きながら、藤川学園という服飾の学校に通い出した。
スポーツ音痴といったが、彼は車の免許を取った。
走る凶器になるから、車は運転するな、と皆はアドバイスをしたのだったが、彼は一切耳を貸さなかった。
拘りのある彼は古いルノーを2台買って、1台の愛車を作った。
その車が入る日、ぼくは彼に試乗のため呼ばれた。
得意気な彼に招き入れられ、ぼくはルノーに乗り込んだ。
彼は運転を始めた。ぼくは後部座席で体を硬くしていた。
25メートルほど走って、恐れていたことが現実になった。
そのまま電柱に衝突したのだ。
広い道だったので、本来は有り得ない電柱への体当たり。
いかに彼の運動神経が立派だったかが判る。もちろんルノーは買った日にパーである。
以来、彼はペーパードライバーであった。
当時は、個人デザイナーの時代は過ぎ、集団デザイナーの時代に入っていたこともあって、東京の鈴屋(?)に就職した。彼の作品が装苑を飾ったこともあった。
が、東京での生活に見切りをつけ、彼は京都に帰って来た。
そして服飾関係の会社に所属した。
東京を離れるについては、いろんな思いがあったのだろうが、そんなことには一切、ぼくとの話ではふれなかった。
彼は京都に戻ると、以前、ズームズというバンドを作っていたので、バンドをやりたい、とよくもらしていた。
久しぶりにズームズが集まりバンドもやったりもした。
が、突然の訃報だった。
酒と音楽が好きだったしんちゃん。
もし生きていたら、きっといろんなおもしろいことを、ぼくらといっしょにしていることだろう。

友だち数珠つなぎ ⑥ウクレレ漫談のチャーリー

2008-07-26 10:38:26 | 友だち数珠つなぎ

ぼくの授賞式で一曲やってくれました。

チャーリーにはいいことも悪いこともいろいろ感化されました。
彼は京都のフォーク界では結構知られている存在です。
WSのギターも彼に教えてもらい買いました。
当時、マーチンが買えなかったぼくらは、WSのヘッドにマーチンと書いて喜んでいたのですが、それも彼に教示してもらいました。
とにかくフォークソングに関しては、彼のセンスには脱帽です。
かたくななまでにコピーバンドに拘泥し、PPMやモダンフォークカルテットなどに傾倒していました。
彼にツーフィンガーは教えてもらいました。PPMはスリーフィンガーではなくツーフィンガーである、と。
それから悪さすることも彼に教わりました。
ぼくの母親が健在なころ、彼から電話があると、アホぼんから電話や、といっていたのを懐かしく思い出します。
そうなんです。彼は自他ともに認めるアホぼんなのです。
彼と会わなければ、ぼくはもっと真っ当な人生を歩んでいたかも知れません。
そんな彼は、仕事の関係で東京にいます。
東京ではたまに、横田と山田の3人でPPMのナンバーを引っ提げライヴをしているということです。
この前、電話で話したら、最近、ウクレレに凝っている、といっていました。
ウクレレでラブシックブルースなど、カントリーのナンバーをやっているということです。
きっと格好いいと思います。
そんな彼に、ブレンダ・リーの「一人ぼっちの寂しい夜」が聴きたくなり、なんとかレコードを見つけてくれ、というと、ないので彼の歌を録音して送ってくれました。
なかなか雰囲気があってよかった。
ファニーカンパニーの芳子ママが、ぼくとチャーリーでライブしよし、といってくれています。どうなることやら……。
彼のウクレレ漫談を聴いてみたい気もします。
もう少しすると、定年で京都に帰って来るだろうし、チャーリーの歌を聴けることでしょう。
チャーリーはこれからウクレレ漫談家として再出発されます。
もしチャーリーを見かけたら、
「ウクレレ漫談で有名なチャーリーさんですね」
 と、声をかけてみてください。
 機嫌がいいときは、漫談をしてくれるかもしれません。

友だち数珠つなぎ ⑤サーちんは半ズボンが似合う。

2008-07-25 19:02:36 | 友だち数珠つなぎ

かわいいですね。まだ髪の毛もフサフサしてます。

サーちんは中学のときから世話になっています。
彼は中学のとき半ズボンをはいてこられました。みんなはちょっと引きました。ぼくも、な、な、なにすんねん!と、驚いたものでした。
サーちんは奈良の人間です。
奈良には独特の文化があってしょうがないのやな、とその奇抜なファッションに半ば諦めに似た気持ちを抱いたことを覚えています。
奈良の田舎もーん!サーちん。以後、ぼくが彼のセンスをよくするために、どれだけ苦労をしたことか……。
そんな彼は、一時、世の中は金や、とバブルに呼応して金儲けに突っ走っていたころがありました。
当時、彼の家の庭にはプールがあったし、ボートも2台持ってたんです。
金だけでは人間寂しいよ、とぼくが彼を導いてあげたのですが、耳を貸しませんでした。ぼくもかれにはいろいろ世話をかけているので、それ以上厳しいことはいえませんでした。ぼくの息子も、毎年、暮れから正月にかけてスキーに連れて行ってくれています。
サーちんには3人の娘がいますが、長女が結婚しました。
結婚式では泣いていました。
順風満帆、サーちんは加山雄三に憧れていますが、もう加山雄三そのものでした。あの半ズボンをはいた田舎のダンディーではありません。
ところが体調を崩したのです。
みんなが心配したのですが、彼はみごと復活しました。
さすがの彼も何か感じるものがあったのか、ぼくにも優しくなりました。
やっと人間らしい顔つきになってきたものです。
これもぼくの長年にわたる諭しのおかげでしょう。
あのかわいかったサーちん。加山雄三だったサーちん。
でも見てくれで大きく変わったことがあります。
それはちょっと髪が……。
髪はなんとも豊に出来ないのですが、これからはぼくが人生の師としてサーちんの人生を豊かなものにしてあげましょう。
さて、奈良のまちで鹿に追いたてられるサーちんを発見したら、
「半ズボンの加山雄三さん、かっこいいー」
と、声をかけてみてください。
今はきっと昔のように怒らず、笑顔を返してくれるでしょう。

ピアノマン野村哲夫復活ライブ

2008-07-25 13:35:24 | 音楽の部屋
野村哲夫といえばぼくらには忘れられない名前です。
彼はディランセカンドのバックでピアノを弾いたり、杉田二郎のバックをつけたり、知る人ぞ知るという存在でした。
もともとはジャズの人でしたが、ぼくらの演奏にも気軽につきあってくれる、気のいいピアノマンでした。
表の仕事は某銀行の支店長でしたが、脳梗塞で倒れました。
厳しいリハビリをし、復帰したのですが、右手が自由に動かない、ということを聞き、野村はんのピアノが聴けなくなる、という淋しさを感じていました。
以前、ぼくも含めて、これまでに野村はんといっしょにプレイした橋本の建っちゃんやタクも、復活ライヴをしようと盛り上がってくれたので、今回の運びとなった次第。
9月23日(祝)午後7時半ごろスタート。場所は京阪伏見、近鉄桃山御陵前下車3分の『ココ』というお店です。
左手でバッキングだけしか出来ない、と野村さんはいっていますが、久しぶりのピアノマン野村の復活が楽しみです。
ぜひ皆さん、おこしください。まだ詳しいことは決まっていないため、はっきりしたら。また、ブログでお知らせします。

コンサートをやります。アンプラグドの。

2008-07-25 11:42:57 | 音楽の部屋
この前、ファンキーチキンの橋本の達ちゃんと話をしていたら、最近、生ギターを弾いて歌ってみたいなと思うねん、との話題で盛り上がりました。
それに、昔の曲をやれたらいい。フォークソングでもブルースでも、とにかくアンプラグドの音楽も楽しいのではないか、ということになり、それもお酒を呑みながらがいい、などと、おっちゃん二人は好きなことをいいあっていました。
それには続けて行くことが大事や、ということになり、
「プレイ・ワンモア・アンプラグド・クラブ」と、名づけて続けて行こう、ということになりました。
第1回目は8月31日(日)、夕暮れ時から桃山の「ココ」と、いうライブのお店でやります。
バンドは4~5バンドの予定で、たっちゃんとこはブルースをやる、といってますし、ぼくとこは今回はフォークっぽい感じで行きます。
これから、ぼくらのライヴの趣旨に賛同してくれるバンドが集まってくれ、この会が続いて行ってくれるといいと思う、今日このごろです。
暇なおかたはどうぞのぞいてやってください。

KCN京都の童話屋でござるの収録をしてきました。

2008-07-24 18:41:45 | 文学の部屋

風呂ちゃん、緊張の連続。しゃっくりが出なくてよかったですね。


今回絵を描いてくださったイラストレーターの早川和子さん。


村瀬プロデューサーと。彼女がいつもいじめてくれるんです。


7月24日、ケーブルテレビ「KCN京都」の「童話屋でござる」8月、8月分の収録をしてきました。
今回は学研都市記念公園でロケ。
出演メンバーはぼくと風呂ちゃんと、今回、絵を描いていただいた早川和子さん。
8月分としては「森のしずく」、9月分は「オーケストラはいい気持ち」の2作です。
風呂ちゃんが体調を崩し、緊急入院をしていたため、撮影がずれこんでいたのですが、無事退院。夏の陽射しの強いなか、なんとか収録は終わりました。
風呂ちゃんは原因不明の「しゃっくり」が退院後も続き、語りが心配されましたが、しゃっくりも止まったようで、なんとか収録も無事終わりました。
8月分の「森のしずく」は早川和子さんというプロのイラストレーターが担当してくださり、いい感じの雰囲気をだしてもらっています。
早川さん、ありがとう。
そして、風呂ちゃん、祝!退院です。

北村謙ちゃんのライヴ観てきました。

2008-07-24 18:38:18 | 音楽の部屋

先ずは記念撮影です。


なかなかいい感じでした。

7月23日、夜8時から北村謙ちゃんのライヴを観に行きました。
熊野神社の近くの日生ビルにあるエルラティーノ。
けんちゃんはあの「花嫁は夜汽車に乗ってー」の、はしだのりひこがつくったエンドレスに参加。その後、京都のラジオなどではディスクジョッキーなどで活躍。
バンジョーの名手です。
その夜は、依頼していた原稿を取りに行ったのですが、ツアー続きで用意していた原稿を忘れ、奥さんに電話し、滋賀から持って来てもらいました。
奥さん、ご苦労さんでした。
さて、久しぶりのけんちゃんのライブは、おもしろかった。
歌を語るようになった、と思いました。
チャーリーに最近、「ひとりぼっちの寂しい夜」を歌ってもらったよ、というと、急遽、ライブで歌ってくれました。けんちゃんの、「ひとりぼっちの寂しい夜」も良かったよ。
それから、バンジョーでの「サマータイム」も、いい感じでした。
ベースの森さんとのちょっとオデブなビジュアルもいい感じでした。
けんちゃん、原稿、ありがとうね。

友だち数珠つなぎ ④おくだのぼんのこと

2008-07-24 18:33:16 | 友だち数珠つなぎ

よっ、おくだのボン!頼むで、これからも。


ホールインワンのパーティーで挨拶。おめでとう。


おくだのボンが、このたびホールインワンを達成されました。
ゴルフをしないぼくには、それがどんな偉業であるか、もうひとつピンとこないのですが、まわりの人に訊くと、なかなか出来ないことだということ。
そりゃー、いくらゴルフを知らないぼくでも、あのだだっ広いゴルフ場の小さな穴に1回で打ち込むのだから、たいしたもんだということぐらいは判ります。
それも話に聞くと、今回で2度目だというから、やっぱりおくだのボンは凄いなにかを持っておられるんやな、と思った次第。
おくだのボンは高校のころ、失礼を覚悟でいうとただのぼんでした。
そのため、高校の文化祭で「岩倉の馬鹿大将」という劇の脚本を書き当て付けに上演しました。若気の至り、反省です。
ところが、彼は18歳のときに父上を亡くされます。それが彼にとってはまさに大きな転機だったといえます。以後、彼はただのぼんから、頼りがいのあるいい男になります。同期生などの面倒見もよく、「岩倉の馬鹿大将」から本当に「岩倉の若大将」に変身です。
ボンもいろいろ苦労をされたそうです。会社のことでも、ぼくには想像もつかない危機を乗り越えられました。
会社も彼の力でよい方向に進んでいます。
ボンと話していると、「ぼくも生活を改めたんや」と、坊さんのようにシミジミおっしゃいます。ほんとうかな?本当ならちょっと淋しい気もします。
が、信用しときましょ。きっとそれがホールインワンに結びついたのでしょうから?
ボンもいろいろ悪さをしてこられましたが、いまや双子のお祖父ちゃんになり二重のおめでたです。そして、ボンの会社の軒にツバメが巣をつくり、これもめでたい。さらにはホールインワンです。
これだけめでたいことが続けば悪さするのもここまで。
同期生の核となって今後もいろいろ世話して、そのめでたさをみんなにわけてあげてください。みんな感謝してるんですよ。
それでこそ「岩倉の若大将」ですよ。
祝ホールインワン。みんなでお祝いしましょ。
彼をどこかでみかけたら、「ボン、おくだのボンボンやおまへんか?」と、声をかけてみてください。
あなたの運気もきっと上昇しますよ。

友だち数珠つなぎ ③男前の板前まことちゃん

2008-07-04 17:27:20 | 友だち数珠つなぎ

 まことちゃんは板前です。
 たまに会えば、お互いの体の病気自慢が始まります。(病気で勝ってどないすんねん)
 彼は、大学を卒業して、はかの者とは違う道に進みました。それは板前でした。
 ぼくらが就職をしてそこそこの給料を手にしていたころ、彼は有名な料理屋に板前修業に行き、当時一か月1万円の給金で住み込みでがんばっていました。
 そんなんでようやるな、といえば、忙しくて金を使うのは煙草だけ。むしろ貯金が出来るぐらいや、と嘯いていました。
 バンドをやり、男前のまことちゃんはよく女にもてました。
忘れられないのは、吹雪の日の恋でした。あれは哀しい純な恋でした。
 そのまことちゃんが料理人になるといったときは正直、驚いたものです。
 今は自分の店を持ち、夏場は加茂川の床料理もやっています。
 うるさい料理人のまことちゃん、味は美味しいし、さすが京料理ということで見た目も美しい。
 まことちゃんはきっと現代の北大路魯山人になる、といっております。そこでぼくはまことちゃんの大きな目をみて思わず命名しました。
 まことちゃんは『北大路半魚人』だと、……・。彼は結構この名前を気に入ってくれましたが、おまえはきっと芥川賞ならぬ茶川一郎賞やな、とのお返しもきっちりいただきました。
 お店が暇なときは怒り、忙しくなると文句をいうまことちゃん。
 いつかは六人位で満席となる小料理屋をしたい、といってます。
 それぐらいが各客の料理に対する目利きの限度だというのです。
 それなら早くそんな自分の目利きが出来る6人ぐらいのカウンターの店を始めるといいのや、というと、借金が肩に重いんじゃ、といいます。
 料理人として、納得できる料理が作れる店を開くために、働け、まこと!
 きみは偉大な料理人、『北大路半魚人』ですぞ。

包丁一本 サラシにまいて 男まことよ どこへ行く。
 

友だち数珠つなぎ ②夢見るチュー

2008-07-03 02:19:25 | 友だち数珠つなぎ

この写真はぼくが或る賞を取ったときお祝いに来てくれたチューです。

 チューとぼくは幼稚園もいっしょでした。と、いうことは、何年の付き合いになるのか、ちょっと怖ろしい気もします。
 彼は中学のころ聖書研究会に入っていた心優しい少年でした。
 今は、或る会社の社長さんです。
 彼の肩には500人もの社員の生活がかかっているのです。
 ぼくには到底、考えられない責任と向き合いながら日々を送っています。ちょっと可哀想な気もしますが、それでも彼はいつも元気で接してくれます。
 ほんの1週間ほど前、彼と久し振りに呑みに出かけました。
 今までぼくのことをいろいろと説教していた彼が、突然、
「おまえにぼくは隷属する」
 と、いったのです。
 やっと、ぼくのことを認めてくれたのかな、と思ってたら、
「そんなことはいってない」
 と、否定します。照れなくてもいいですよ。これからぼくが人生の灯台となって、チューを導いてあげますから。
 いっしょにいいことも悪いこともいろいろやりました。
 チューのダンスはぼくにはいちばん格好良かった。クルクル回転しながら踊るディスコティツクマンボは誰の視線も釘付けにしたものでした。
 それと、やはり団塊の世代ということで、服に関してはトラッドにこだわっています。
 今日は東京、明日は姫路、明後日は香港と激務をこなしているチュー。そんなチューを見ていると、社長もたいへんだなあ、と思ってしまいます。
 彼は昔から料理が好きで、家に行くとよく自作の手料理をつくってくれます。
 なかでもぼくは彼のつくったチャーハンだけは認めています。
 美味しいのです。
 そんな彼には夢があります。
 それは、モンゴルでラーメン店を開くということです。
 突拍子もない、といわれますが、彼は本気です。
 会社も順調なのに、そんな夢を本気で語るチュー。
 ぼくはそんな夢見るチューが大好きです。
一応、ぼくが曲りなりにももの書きということで、お茶屋とか、到底ぼくが覗けない世界にも連れて行ってくれたりします。貧乏文士になんでも経験させてやろうという彼の気遣いでしょう。が、舞妓さんの世界の作品は書けてはいません。
 ダンディーな夢見る不良中年社長をどこかで見かけたら、握手を求めてください。チューと握手すると幸せになれますよ。