2013年1月11日の京都新聞山城版に随想やましろが掲載されました。
興味のあるひとはどうぞ。
2013年1月11日の京都新聞山城版に随想やましろが掲載されました。
興味のあるひとはどうぞ。
病院で。 いつも会ったのは祇園の弥すだ。
澪標出版の松村さん、吉田さんたちと、出版の打ち合わせ。
年があ明けた。昨年はいろいろとあった。この年齢になると悲しい別れも出てくる。
高林陽一監督との別れもそのひとつである。
最近になって、映画化に向けて配役なんかは決まってなかったのか、とよく訊かれるように
なったので、書き留めておこうと思ったのである。
生前、監督とぼくは一週間に一度のペースで会い、映画のことを話し合った。監督はぼくの
「夜が明けたら」という作品を映画監督人生の最後の作品にしたい、。そして、最後は普通
の映画館で上映出来る作品にしたいともいわれていた。
脚本も三度書き直してこられた。
「東さんの原作を見せて、映画の構想を話すと、、まだこんな艶っぽい話を撮るんですか、
と、いわれましたよ」と嬉しそうに笑いながらいわれたとき、監督は本気なんだな、とぼくは
思った。
脚本の第一稿が出来上がると、原作と脚本の合本を出版したらどうだろうか、という話にな
った。
これには監督は思いのほか乗り気だったように思う。本があると映画化の話をして協力を
得るのに都合がいいともいわれた。本の話は澪標出版のおかげでとんとん拍子に進んだ。
監督も脚本の出版は初めてのことだと喜んでおられた。
そうなると、ぼくらは配役の話に興じていた。ぼくにはたいそう楽しい時間だった。
「夜が明けたら」はもともと登場人物が多くない。登場人物は三人にすることになっていた。
主人公の三宅秀子、秀子の夫の武、そして、陶芸家の八波の三人である。
最初、三宅秀子はオセロの中島知子か友近、武は香川照之、八波は松重豊であった。
しばらくすると例の事件で中島知子がダメだろうな、との話になった。が、ぼくらは中島知子
の狂気を見ていたのだ、と嬉しくなったものであった。
最後はオーディションもいいかもしれない、という話も出ていた。そうこうしている間に監督
は入院され、かえらぬひととなった。
今思えば、楽しい濃厚な時間であった。