地方の三文小説家「東義久」の独白

東義久のブログです。

先ずは、音楽の話でもしましょうか

2006-07-27 00:38:45 | 音楽の部屋
 音楽っていいな、と最近、つくずく思う。
 この世から音楽が無くなれば淋しいだろうな、と。
 ぼくの世代は、ビートルズがいて、ローリングストーンズがいて、ボブディランがいて、本当に贅沢な時代だった。
 ミックジャガーが今も元気に不良老人しているのを見ると、うれしくなってくる。
 あのころの曲は、どれでも聴いていて耳ざわりがいい。
 なにかをしているとき、文章を書いているとき、音楽が鳴っていて欲しい。
 それは、言葉の意味が判らない音楽のほうがいい。英語の歌詞のほうが、日本語よりもすんなりと流れていってくれるのでいい。
 歌詞に照れることもないし、歌詞に心を捕えられることもない。
 それでは、インストロメンタルの方がよいのでは、といわれそうだが、ぼくはやはりボーカルが入っているほうが落ち着く。
 そんな音楽のなかでもブルースが心地よい。
 あの12小節の繰り返しと、決められた中で遊ぶ音の世界は、まるで日本の俳句に通ずるようにも思える。
 そして、マイナーでなくメジャーで哀しみが表現される不思議がよいのだ。人間の哀しみというのは、つまるところ、明るさが突ききったところにあるのかもしれないことを気付かせてくれる。また、ブルースの歌詞も理屈っぽくなく他愛の無いものが多いのも気楽でよい。
 ぼくの若かったころ、テレヴィジョンがまだそんなに家庭に普及していなかったころ、ルート66という番組があった。
 オープンカーに乗った若者が66号線をシカゴからLAまで旅をする物語だった。
 アメリカが一番格好よかった時代の番組にぼくらは羨望のまなざしを向けたものである。
 そのテーマソングの「ルート66」が、いわゆるブルースの12小節で、和音の並びもブルースの基本定型だった。
 これも旅ということで芭蕉と近いものがある、といえばこじつけが過ぎるか。
 そんな時代に青春を過ごしたものには、ブルースの調べがすんなり胸に落ちてくるのかも知れない。
 もちろん、クラッシクなどと違い、ブルースは血の音楽である。そのため、本当のブルースの心はいつまでも理解出来ないのかも知れない。
 が、今のぼくには黒人音楽のブルースが最高にフイットするのだ。