ねーさんとバンビーナの毎日

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何が本当か増々わかりづらい世の中・・・って

2005年03月10日 00時32分24秒 | 考えるねーさん
何が本当か増々わかりづらい世の中になってきてるよな・・・ってことを至る所で耳にする。

これを聞くたびに「うんまあそうだけど、だから何・・・?」という気分になる。

だってね、「何が本当か?」なんていうのは最後には個人が決める事だと思うんですヨ。
「何が本当なのか!?」なんて!! それ誰かを頼ってる裏返しじゃありません?

個人が「これが本当」と判断したらそれでいいと思うんだ。
「これが本当」と判断するってことは、それに伴うリスクもふまえて「本当」と腹くくること。
自分で自分の価値とか力を信じるってことにも通じるのかなあ。

ホリエモンがフジTVの逆襲に対して「想定内です。」っていう言葉は自分の中での「本当」に対して腹くくっている裏返し。
「そこらへんが馬鹿者だ!」と思う人はそれはそれでどうぞ~。
けど彼はそんなこともへっちゃらで行動できるスゴさがある。


そして他人が言うところの「これが本当」というのが自分の尺度と違っても「それはそれ。」ってことで共存すればいいだけじゃない?
すり合わせていって公平な取り分を分配しあえばいいんじゃない?
否定したり拒否する必要はないと思うのよ。(そりゃ犯罪まがいはマズイですよ。)


んで「何が本当かわかりづらい」って言うのは、「どのルールを信じればいいのかわかりづらくなってる。」ってことじゃない?

そういうの、もう止めたらどうかな。

それ自体がもう何かに頼って生きてるだけ。
いいですよ、生きていく上の道しるべになるっていうんだったら。
どうぞどうぞ、勝手に道しるべにすりゃいいさ。(笑)

けど、ルールを道しるべにしてどうすんの?
道しるべにするものってルールでいいのかしらん?
自分の価値観とか目標を道しるべにするべく世の中とそして自分と関わっている方が楽しくないかなあ。

誰かの価値、組織の価値、誰かの指示、組織の指示にどっぷり身を置いてしまうと、自分で自分が本当に何を欲しているのかわからなくなりますよ。

それでもいいのかい? 考えてみてよん。