今回の地震は桁違いに大きかったようだ。私はそのとき、札幌のビルの中にいた。最初は気がつかなかった揺れが、すぐに大きく体を左右に揺すり始めた。大きいな、と感じたのだけど、まあこの程度の地震は道東にいる頃にはかなり頻繁に経験していたから、今度はどこで起こったのかな、と言う程度の関心だった。そのうち北海道の太平洋岸に大津波警報が出たので、震源が三陸沖だと分かった。
夕方ホテルに帰ってテレビをつけて驚いた。東北の太平洋沿岸が巨大な津波ですべて流されたという。とうとうその日は夜中までテレビの前に釘付けになってしまった。茨城県の沿岸はほとんどすべての海岸を見て回ったことがある。日立市の海岸では歩いて見て回った。海岸で地元のおばさんたちと海岸の変化についていろいろ話をしたこともあった。福島県の沿岸は原発がいっぱいあるのであまり近寄れなかったが、相馬市の海岸、松川浦の干潟にはわざわざ車で見に行ったこともあった。東北地方の太平洋岸では数少ない素晴らしく広い干潟があった。
宮城県では、仙台空港は何度も利用した。海に近い空港だと知ってはいたが、あの空港が津波の被害に遭おうとは、驚くばかりだ。近くの七北田川の河口には有名な蒲生干潟があり、多くの友達がここで仕事をしていた。仙台、石巻、女川など若い頃何度も通った町だった。聞き取れない方言に驚いたのもこのあたりの漁師たちとの交流から感じたことだった。その北の南三陸町には、自然活用センターというところがあり、ここで行われた観察会に参加したこともある。センター長は古くからの友達でもあった。センターの職員もみな顔見知りだ。この南三陸町の住民の2人に1人は、行方不明という状態が続いているという。このセンターも津波で完全に崩壊したようだ。
岩手県では、大船渡、越喜来、釜石、大槌、山田、宮古とほとんどすべての町で、たくさんの思い出を持っている。主に漁師さんたちとのつきあいだったから、私が出会ったほとんどの人たちが、被災したことだろう。考えたら涙が自然に出てくる。
あの人たちは、どうなっただろうか。日本の漁業の大きな部分が失われたというだけではない。個人的に言えば、多くの友人や友人になる人たちを失った。
羽田空港がまだ一部使えないというので、東京経由だった飛行便を札幌-関空便に急遽変更してもらい、なんとか京都へ帰り着いた。京都は雪が積もっていたが、地震の影響はなく、平穏な毎日が続いているように見えた。でも、テレビなどで知る現実は悲惨を通り越したものだった。そして福島の原発事故。まだまだ最悪へのシナリオは閉じられていない。そして、最悪になっていない今でさえ、恐ろしい事態が始まっている。
フィリピンで潜水したときに、鼓膜を損傷してしまったのが、しばらく私の耳の能力を妨げていた。片方の耳が何も聞こえず、頭の半分がなにか詰まってしまったようで、考える力も半減したようになっていた。大地震、大津波、そして原発のメルトダウン。すべてまるで真っ白くなった頭の半分が感じる夢のような毎日が続いた。地震から一週間、ようやく耳が乾燥してきて、少し聞こえるようになった。それとともに地震と津波と原発事故が現実のものとして感知されるようになった。でも、夢なら夢のままの方が良いような気がしている。
被災地では、ようやく復興が始まったようだ。幸いにも私の近しい知人たちはほとんどが無事だったようだ。ホッとしているが、彼らがこれからどうやって生きていくか、彼ら自身もわからないようだ。地震と津波被害を直接受けなかった私たちができることは何か。なんとかしてあげたい。
夕方ホテルに帰ってテレビをつけて驚いた。東北の太平洋沿岸が巨大な津波ですべて流されたという。とうとうその日は夜中までテレビの前に釘付けになってしまった。茨城県の沿岸はほとんどすべての海岸を見て回ったことがある。日立市の海岸では歩いて見て回った。海岸で地元のおばさんたちと海岸の変化についていろいろ話をしたこともあった。福島県の沿岸は原発がいっぱいあるのであまり近寄れなかったが、相馬市の海岸、松川浦の干潟にはわざわざ車で見に行ったこともあった。東北地方の太平洋岸では数少ない素晴らしく広い干潟があった。
宮城県では、仙台空港は何度も利用した。海に近い空港だと知ってはいたが、あの空港が津波の被害に遭おうとは、驚くばかりだ。近くの七北田川の河口には有名な蒲生干潟があり、多くの友達がここで仕事をしていた。仙台、石巻、女川など若い頃何度も通った町だった。聞き取れない方言に驚いたのもこのあたりの漁師たちとの交流から感じたことだった。その北の南三陸町には、自然活用センターというところがあり、ここで行われた観察会に参加したこともある。センター長は古くからの友達でもあった。センターの職員もみな顔見知りだ。この南三陸町の住民の2人に1人は、行方不明という状態が続いているという。このセンターも津波で完全に崩壊したようだ。
岩手県では、大船渡、越喜来、釜石、大槌、山田、宮古とほとんどすべての町で、たくさんの思い出を持っている。主に漁師さんたちとのつきあいだったから、私が出会ったほとんどの人たちが、被災したことだろう。考えたら涙が自然に出てくる。
あの人たちは、どうなっただろうか。日本の漁業の大きな部分が失われたというだけではない。個人的に言えば、多くの友人や友人になる人たちを失った。
羽田空港がまだ一部使えないというので、東京経由だった飛行便を札幌-関空便に急遽変更してもらい、なんとか京都へ帰り着いた。京都は雪が積もっていたが、地震の影響はなく、平穏な毎日が続いているように見えた。でも、テレビなどで知る現実は悲惨を通り越したものだった。そして福島の原発事故。まだまだ最悪へのシナリオは閉じられていない。そして、最悪になっていない今でさえ、恐ろしい事態が始まっている。
フィリピンで潜水したときに、鼓膜を損傷してしまったのが、しばらく私の耳の能力を妨げていた。片方の耳が何も聞こえず、頭の半分がなにか詰まってしまったようで、考える力も半減したようになっていた。大地震、大津波、そして原発のメルトダウン。すべてまるで真っ白くなった頭の半分が感じる夢のような毎日が続いた。地震から一週間、ようやく耳が乾燥してきて、少し聞こえるようになった。それとともに地震と津波と原発事故が現実のものとして感知されるようになった。でも、夢なら夢のままの方が良いような気がしている。
被災地では、ようやく復興が始まったようだ。幸いにも私の近しい知人たちはほとんどが無事だったようだ。ホッとしているが、彼らがこれからどうやって生きていくか、彼ら自身もわからないようだ。地震と津波被害を直接受けなかった私たちができることは何か。なんとかしてあげたい。