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ごまめの歯ぎしり・まぐろのおなら

サンナシ小屋&京都から世界の愛する人たちへ

緑の島に吹く風

2009-04-17 | 読書
吉村和敏「緑の島に吹く風 プリンス・エドワード島が教えてくれたこと」を読み終えた。といっても、読むのにそんなに大変だったわけではない。むしろ気楽に読めたし、写真をいっぱい入れてあるので、写真を楽しみながら読める本だった。だから一気に読まずに、ちょっと時間があるときとか、バスの中などで少しずつ楽しみながら読んでいた。

 旅の途中で出会ったプリンス・エドワード島の自然の美しさと人間のぬくもりに感動して、その島に住み着いた写真家の旅と写真のエッセイ集だ。プリンス・エドワード島がそれほど特別に美しいとも思わないけれども、悩みながら一人旅を続けていた青年が、旅の終わりに出会った自然と人間に感動したのは、よく分かる。それがたとえどんなに日常的なところでも。カナダの田舎。プリンス・エドワード島は、たしかに近代的な発展とはほど遠い田舎なので、東京で育ち、カナダでも都会を見てきた青年には、それが感動的に見えただろうことは十分想像できる。そんなところは、きっと世界のどこにもあるに違いないが、プリンス・エドワード島が吉村青年写真家にとって、そう言うところだったのだろう。

 では、私にとってのプリンス・エドワード島とは、どこだったろうか。そう思って生きてきた比較的長い時間を振り返ってみた。まず、与論島。若い頃、今から思えばわずか2週間ほど過ごしたところだったが、その島の自然と人間は私には、吉村青年のプリンス・エドワード島とまったく同じような感動を与えてくれた。吉村青年と私の違いは、彼がその後毎年のようにプリンス・エドワード島へ通って、写真を撮り、友人と過ごしたことだ。私は二度とそこへ足を踏み入れていない。あの時の感動が、幻滅の虜になることが怖かったからだ。その後の与論島の変わり様は、写真を見たり人から話を聞くごとに、ますます私を遠ざけてしまう。私たちを抱擁するように受け入れてくれた島の人間も、いまでは近代の資本主義に毒された生活をしているのだろう。毎年一度の便りも絶えて久しい。

 第二の場所は、おそらく北海道の道東だろう。与論島とは逆に、そこには15年も住んだ。でも、その自然に感動したのは、与論島にまさるとも劣らない。そして今では小屋も建てて、しばしば通う生活をしている。そこの人間は、しかし与論島のような感動を与えてくれたわけではない。

 たいした事件もない普段の生活を淡々と書いたこの本は、特に面白いと言うこともない。ただ、誰もがそう言う場所を持っていることを気づかせてくれる本かもしれない。

 吉村和敏が夢中になって写真を撮りまくったプリンス・エドワード島のタテゴトアザラシ。かわいいアザラシの子供がこの本を飾っている。先日のミニコミ情報では、プリンス・エドワード島でタテゴトアザラシの商業アザラシ猟を解禁し、わずか2日間で、18700頭のタテゴトアザラシが白い氷を真っ赤に染めて殺されたという。彼はそれをどう受け止めることができるだろうか。