夕食もそこそこに、コンサートホールに出かけた。いまでは世界でも1.2を争う菊池洋子さんのピアノコンサートを聴きに行った。ピアノのコンサートなどというのは、人生長くやっているが、あまり行った覚えがない。ましてや世界に伍するピアニストの演奏など、テレビで見る以外、聴いたことはない。菊池洋子さんというピアニストも、みんな知っている有名なピアニストなのだろうが、私は聞いたことが無かった。クラシック音楽は、BGMとして聴くことはあっても、それを目的として聴くこともなかったし、聴いても分からない。それでは、なぜピアノコンサートに聴きに行ったのか。無料の入場券があったからに他ならない。
案の定、彼女がもっとも力を入れていたと思われるベートーベンの曲を聴いているうちに、眠気を催してきた。どこかで聴いたような気もする曲だけど、真面目にクラシックを聴いたことがない私には、皆目分からない。真っ赤なドレスに身を包んだ彼女の白い指が真っ白な鍵盤の上で、目にも止まらない速さで動いているのを、不思議な気持ちで見ていた。彼女の指は鍵盤の上を右に左に上に下にと、踊り、飛び、跳ねていく。ところが前の方に陣取った客席から見上げる舞台上のピアノの鍵盤は、まったく動いているようには見えない。学校の先生や、生徒たちが弾くピアノの鍵盤は、弾く人の指が触れれば、下に押し下げられるのが見える。ところが、菊池洋子さんの弾くピアノの鍵盤は、まったく下に下がっていない。いくら目をこらしても鍵盤が押し下げられているようには見えない。しかし、流れるような、轟くような、そして絶えず流れる小川のせせらぎのような音楽は流れ続ける。
それが気になって、眠気はどこかへ行ってしまった。楽曲は、いつのまにかショパンの短いものに変わり、1回の演奏が3-5分程度になった。演奏が1曲終わるたびに、ためらいがちの拍手があったが、だんだんと拍手も熱を帯びてきた。私でも知っているショパンの「別れの曲」など親しみやすい曲が流れると人々の拍手もいっそう熱を帯びる。そして、演奏曲は終わった。おきまりのアンコールを催促する拍手があり、これも予定通りのアンコール演奏があり、それでも拍手を止めようとしない観客のために、彼女は「ふるさと」を演奏し始めた。これならみんな知っている。そして長い演奏は終わった。クラシックはよく分からないが、彼女の演奏のうまさは、十分よく分かった。音楽だけを聴いていたのでは、きっとその良さは私には分からなかっただろう。弾いている指の動き、手の動きを見て、初めて彼女の凄さが分かったような気がした。
先月だっただろうか、ある雑誌の投書欄で、「君が代」の起立斉唱を強制する都の教育委員会や、大阪府の橋本知事などのやり方を批判した投書があった。その投書氏は、いまもっとも国歌にふさわしい歌は、「ふるさと」だとして、この歌こそ国歌にして欲しいと言っていた。ウサギ追いし かの山 小鮒釣りし かの川 ・・・・ 大震災で被災した人たちを慰めるために行われた地元の高校生の合唱で歌われたこの歌に、多くの被災者が涙を流した。「ウサギ追いし」を「ウサギ美味し」と勘違いしている若者もいると聞くが、誰しもこの歌を聴いて自分たちの故郷を忍んで涙しない人はいないだろう。いつどこで聴いても良い歌だ。「君が代」を聴いてもだれも感動などしない。ぜひとも、「ふるさと」を日本の国歌にして欲しい。この歌なら、すべての人が起立して斉唱したいと思うに違いない。それこそ国歌にもっともふさわしい歌である証拠だ。
案の定、彼女がもっとも力を入れていたと思われるベートーベンの曲を聴いているうちに、眠気を催してきた。どこかで聴いたような気もする曲だけど、真面目にクラシックを聴いたことがない私には、皆目分からない。真っ赤なドレスに身を包んだ彼女の白い指が真っ白な鍵盤の上で、目にも止まらない速さで動いているのを、不思議な気持ちで見ていた。彼女の指は鍵盤の上を右に左に上に下にと、踊り、飛び、跳ねていく。ところが前の方に陣取った客席から見上げる舞台上のピアノの鍵盤は、まったく動いているようには見えない。学校の先生や、生徒たちが弾くピアノの鍵盤は、弾く人の指が触れれば、下に押し下げられるのが見える。ところが、菊池洋子さんの弾くピアノの鍵盤は、まったく下に下がっていない。いくら目をこらしても鍵盤が押し下げられているようには見えない。しかし、流れるような、轟くような、そして絶えず流れる小川のせせらぎのような音楽は流れ続ける。
それが気になって、眠気はどこかへ行ってしまった。楽曲は、いつのまにかショパンの短いものに変わり、1回の演奏が3-5分程度になった。演奏が1曲終わるたびに、ためらいがちの拍手があったが、だんだんと拍手も熱を帯びてきた。私でも知っているショパンの「別れの曲」など親しみやすい曲が流れると人々の拍手もいっそう熱を帯びる。そして、演奏曲は終わった。おきまりのアンコールを催促する拍手があり、これも予定通りのアンコール演奏があり、それでも拍手を止めようとしない観客のために、彼女は「ふるさと」を演奏し始めた。これならみんな知っている。そして長い演奏は終わった。クラシックはよく分からないが、彼女の演奏のうまさは、十分よく分かった。音楽だけを聴いていたのでは、きっとその良さは私には分からなかっただろう。弾いている指の動き、手の動きを見て、初めて彼女の凄さが分かったような気がした。
先月だっただろうか、ある雑誌の投書欄で、「君が代」の起立斉唱を強制する都の教育委員会や、大阪府の橋本知事などのやり方を批判した投書があった。その投書氏は、いまもっとも国歌にふさわしい歌は、「ふるさと」だとして、この歌こそ国歌にして欲しいと言っていた。ウサギ追いし かの山 小鮒釣りし かの川 ・・・・ 大震災で被災した人たちを慰めるために行われた地元の高校生の合唱で歌われたこの歌に、多くの被災者が涙を流した。「ウサギ追いし」を「ウサギ美味し」と勘違いしている若者もいると聞くが、誰しもこの歌を聴いて自分たちの故郷を忍んで涙しない人はいないだろう。いつどこで聴いても良い歌だ。「君が代」を聴いてもだれも感動などしない。ぜひとも、「ふるさと」を日本の国歌にして欲しい。この歌なら、すべての人が起立して斉唱したいと思うに違いない。それこそ国歌にもっともふさわしい歌である証拠だ。