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ごまめの歯ぎしり・まぐろのおなら

サンナシ小屋&京都から世界の愛する人たちへ

ピアノコンサートと「ふるさと」

2011-06-19 | 日記風
夕食もそこそこに、コンサートホールに出かけた。いまでは世界でも1.2を争う菊池洋子さんのピアノコンサートを聴きに行った。ピアノのコンサートなどというのは、人生長くやっているが、あまり行った覚えがない。ましてや世界に伍するピアニストの演奏など、テレビで見る以外、聴いたことはない。菊池洋子さんというピアニストも、みんな知っている有名なピアニストなのだろうが、私は聞いたことが無かった。クラシック音楽は、BGMとして聴くことはあっても、それを目的として聴くこともなかったし、聴いても分からない。それでは、なぜピアノコンサートに聴きに行ったのか。無料の入場券があったからに他ならない。

 案の定、彼女がもっとも力を入れていたと思われるベートーベンの曲を聴いているうちに、眠気を催してきた。どこかで聴いたような気もする曲だけど、真面目にクラシックを聴いたことがない私には、皆目分からない。真っ赤なドレスに身を包んだ彼女の白い指が真っ白な鍵盤の上で、目にも止まらない速さで動いているのを、不思議な気持ちで見ていた。彼女の指は鍵盤の上を右に左に上に下にと、踊り、飛び、跳ねていく。ところが前の方に陣取った客席から見上げる舞台上のピアノの鍵盤は、まったく動いているようには見えない。学校の先生や、生徒たちが弾くピアノの鍵盤は、弾く人の指が触れれば、下に押し下げられるのが見える。ところが、菊池洋子さんの弾くピアノの鍵盤は、まったく下に下がっていない。いくら目をこらしても鍵盤が押し下げられているようには見えない。しかし、流れるような、轟くような、そして絶えず流れる小川のせせらぎのような音楽は流れ続ける。

 それが気になって、眠気はどこかへ行ってしまった。楽曲は、いつのまにかショパンの短いものに変わり、1回の演奏が3-5分程度になった。演奏が1曲終わるたびに、ためらいがちの拍手があったが、だんだんと拍手も熱を帯びてきた。私でも知っているショパンの「別れの曲」など親しみやすい曲が流れると人々の拍手もいっそう熱を帯びる。そして、演奏曲は終わった。おきまりのアンコールを催促する拍手があり、これも予定通りのアンコール演奏があり、それでも拍手を止めようとしない観客のために、彼女は「ふるさと」を演奏し始めた。これならみんな知っている。そして長い演奏は終わった。クラシックはよく分からないが、彼女の演奏のうまさは、十分よく分かった。音楽だけを聴いていたのでは、きっとその良さは私には分からなかっただろう。弾いている指の動き、手の動きを見て、初めて彼女の凄さが分かったような気がした。

 先月だっただろうか、ある雑誌の投書欄で、「君が代」の起立斉唱を強制する都の教育委員会や、大阪府の橋本知事などのやり方を批判した投書があった。その投書氏は、いまもっとも国歌にふさわしい歌は、「ふるさと」だとして、この歌こそ国歌にして欲しいと言っていた。ウサギ追いし かの山 小鮒釣りし かの川 ・・・・ 大震災で被災した人たちを慰めるために行われた地元の高校生の合唱で歌われたこの歌に、多くの被災者が涙を流した。「ウサギ追いし」を「ウサギ美味し」と勘違いしている若者もいると聞くが、誰しもこの歌を聴いて自分たちの故郷を忍んで涙しない人はいないだろう。いつどこで聴いても良い歌だ。「君が代」を聴いてもだれも感動などしない。ぜひとも、「ふるさと」を日本の国歌にして欲しい。この歌なら、すべての人が起立して斉唱したいと思うに違いない。それこそ国歌にもっともふさわしい歌である証拠だ。

反原発集会に参加した

2011-06-11 | 日記風
今日は6月11日。3月11日の大地震、大津波と原発事故から3ヶ月目である。3ヶ月経ってもフクシマ原発事故の収束の目処も立っていない。やはり原子力は人間が制御できないものであることが、明らかになってきた。原発を核の平和利用だとして原発を作り続けたことが誤りであったことは間違いない。それでもいまだに原発推進を掲げ続ける人間がいる。よっぽど美味しいことがあるのだろう。そんな奴らに人々の将来を託すわけにはいかないと、今日、全国で「反原発100万人集会とパレード」が全国で行われた。

 私もこれに参加しなければイケナイと、大阪中之島公園で開かれた関西集会に駆けつけた。中之島公園はほとんどがバラ園などに占められて、広場と呼べる空間は少ない。その空間に今日は人がいっぱいだ。それぞれてんでに自作のポスターやプラカード、脱原発への思いを書きつづった上着などを用意し、狭い会場に溢れている。集会の途中で主催者の見積もりでは5000人を超えたかなということであった。この原発事故が深刻化している中で、反原発集会に関西でわずか5000人かと、残念に思う。全国で100万人を集めると豪語している集会にしては、あまりに少ない。東京がもっとも多いのだろうが、それにしても関西で数万人は集めないと。原子力村の人たちからやはりバカにされるだろう。

 淀屋橋駅前から天満橋を通り、御堂筋を南下し、難波駅近くの公園まで歩いた。約2時間と15分くらい。最近の運動不足が少しは解消されたようだ。コンクリートの上をずっと歩いたので、終わった後駅の階段を上るとホッとする。足が棒のように硬くなっていたから、登るときの足の曲げ具合が気持ちいいのだ。途中、右翼の攻撃があった。といっても暴力をふるわれたわけではない。日の丸を持ち、デモ行進に向かって、ありとあらゆる暴言、侮辱をありったけの大きな声で投げかける。感心したのは彼らの声。デモ隊の声は拡声器を使う人以外は温和しく、聞こえにくいくらい。だが、かれら右翼の声はよっぽど鍛えているのか、高い声で良く通る。しかし、10人くらいがそれぞれに大声で叫んでいるので、何を言っているのかはまったく分からない。でもあの熱心さと執念にはちょっと驚いた。最近、旧来の暴力団と一体になったような右翼と異なり、若者中心の狂信的な排外主義者の集団が活動を盛んにしている。主に「在日特権を許さない会」とかいうナショナリストで、日の丸を掲げるところは旧右翼と同じだ。今日の右翼にも、若い女性が混じっていた。髪を茶色に染めて、おしゃれな帽子をかぶり、その口から聞くに堪えない汚い罵詈雑言が発せられていた。彼らは本当に愛国主義者なのだろうか。ナショナリストならもっと日本の文化を大切にして、アメリカに押しつけられた原発を拒否するくらいの気構えが欲しいのだが、彼らが言っているのは、原発反対は非国民が言うことだというのである。驚いた。国を愛するが故に、国を無くしてしまうほど危険な原発を止めようと言っている。彼らはアメリカの言いなりで日本をダメにしてしまおうというのだ。いったいどちらが愛国なのか。茶髪にするのが日本を愛することなのか。アメリカ人のまねをしていないで、もっと日本文化を愛してはどうなのだろう。

 さすがに今日の警察のデモ規制は、これまでにくらべて緩やかだった。いつもなら武装した警官も出るのだが、今日はみな警棒だけの丸腰だった。さすがに原発反対の世論が過半数を占めるようになったことに警察も無視できないのだろう。もっと人々が街頭にでることが、日本から原発を無くすことに確実につながる。結局何人が参加したのか分からずじまいで帰ってきたが、全国で10万人くらいは参加したのだろうか。予定の10分の1だが、やがてそれが10分の2になり、10分の3になれば、日本は明らかに変わることができる。そうでなければ、日本はもう人間が住めない土地になるだろう。

 3月12日にはもう燃料棒のメルトダウンは起こっていたという。そして、原子炉の圧力容器の底が溶けて、メルトスルーが起こった。それを東電も、原子力保安院も今頃気がついたという。ウソも休み休み言え。彼らはもっと早く分かっていたが、それを国民に言う勇気がなかった。そして今まで隠蔽し続けてきた。今回、それを認めたのは、IAEAへの報告書の中だ。国民には知らせようとしないで、外国の機関に報告するだけ。日本国民を無視し続ける彼ら。

 でも、管直人首相への不信任案は、いま出すべきではないと先日書いた。どうしていまになって不信任案が出たのか、よく分からなかった。しかし、それが今日、よくわかった。管直人首相が、浜岡原発を停止しただけではなく、エネルギー政策の見直しに言及し、さらに自然エネルギーへの転換を唱えだしたのが許せないと考えた奴らがいたのだ。この原発事故の最中に、地下原発推進会議を立ち上げた国会議員がいた。その一人が、鳩山前首相。その他にメンバーとして、森喜朗、平沼赳夫、羽田孜、安倍晋三、谷垣禎一、渡辺恒三など、過去に自民党で原発推進してきたA級戦犯ばかり。いままた国民を犠牲にする犯罪に手を染めようとしている。与謝野馨大臣は、かつて日本原子力株式会社で原発を作ってきた。そんな奴が、東電に罪はないと庇う。彼らが、菅首相の脱原発政策への移行に焦って行ったのが、内閣不信任案だった。小沢一郎も電力会社とずぶずぶの関係だった。みんな責任を取って辞めてくれ。

二つの聖地を訪なう

2011-05-17 | 日記風
連休は混雑するのであまり遠出はしない。今年は連休を利用して、比較的近い比叡山と高野山に登った。今回は山歩きではなく、比叡山では延暦寺にお詣りし、延暦寺境内にある法然堂を訪ねた。高野山は金剛峯寺にお詣りした。延暦寺は最澄が開いた天台宗の総本山で、高野山は空海すなわち弘法大師が創建した真言密教のお寺だ。

 京都では、今年、法然大遠忌800年と親鸞750年の記念の催しが開かれており、いろんな仏教の宗派が入り乱れていて、昔覚えたはずの日本史における仏教の関係が今ひとつよく分からなくなったので、自分ながら整理してみようという意味もあり、大震災の被災者の鎮魂を兼ねて、比叡山と高野山にでかけた。
 
 比叡山は普段なんども登っているが、今回はバスで延暦寺の根本中堂を目指した。かなり急な登り道をバスはあえぎながら上っていく。連休なので、普段はがらがらのバスも、ほぼ満員だ。延暦寺の境内に入るのも、今回が初めて。いつも延暦寺の前を通って比叡山頂上を目指すのだが、今回は頂上に行かず、寺の境内に入る。織田信長に焼き討ちされ、一宇も残さずに焼き尽くされた延暦寺だが、今はおそらく焼き討ちに遭う前よりもずっと立派なお堂が建ち並んでいる。1200年前に都が京都に造られたときとほぼ同じ頃に、この延暦寺が開かれたことを思うと、昔の人はすごいなあと思う。都の鬼門に当たる比叡山の山頂近くにどうしてお寺を建てようとおもったのだろうか。都の人口も今よりずっとずっと少ない時代だから、街を少し離れれば、東山や北山にいくらでも人里離れたところはあっただろうに。やはり都から眺めるもっとも高い山である比叡山の上に造るのが、意味があったのだろう。都からいつでも比叡山の頂上を見ることができるのだから。見られることに意味があったのだろう。延暦寺の存在価値を認識させることもできたのだろう。
 
 高野山はどうだろう。弘法大師(空海)が各地を回り、命の危険を冒して唐の国に渡って仏教の修行を積み、帰国して高野山を開いた。最澄の延暦寺とほぼ同じ時代だ。最澄も空海と同じ時に唐に渡っている。高野山はしかし、比叡山のように都からすぐに行けるところではない。歩くか蓮台に乗って担いでもらうかしかなかった時代、人々は何日もかかって高野山へ詣った。参詣も修行もおそらく命がけだっただろう。高野山は生まれて初めて訪れた。こんなに奥深い山の中に何百という寺が建ち並んでいる。もっとも多いときで、1500ほどの寺が軒を連ねたという。今では寺の数は500くらいらしい。それでも山の上の小さな盆地にこれだけのお寺が建ち並んでいるのは、壮観でもある。いったいここのお寺のお坊さんは、どうやって生活をしているのだろうか。参拝客のお賽銭だけではとても生活できないだろう。でも、その謎は簡単に解けた。高野山にはホテルも旅館もない。多くの参拝客はお寺の宿坊に泊まるしかない。私も宿坊に泊めてもらった。宿坊と言っても、立派な旅館の部屋のようで、個室になっていてテレビもあればお茶の道具もある。お坊さんが食事を運んでくるのが違っているくらいで、宿坊は民宿みたいなものだ。料金も旅館並みだ。けっして安いとは言えない。
 夕食は精進料理が出た。肉けも魚けもない、本当の精進料理だった。おいしかった。当然だが、食事の前にお飲み物は何にしますかなどと聞かれない。酒も飲まず肉を食べない私にとって、まったく安心して食べることができた。味も抜群だった。こんな精進料理なら、毎日でも食べたい。お腹もいっぱいになり、デザートもおいしかった。食べ過ぎたほどだ。
 高野山には、いっぱいのお墓が立ち並んでいる。十万くらいのお墓があるらしい。見ていくと、なかなか面白い。いや、お墓を見て面白いと言っては怒られる。でも、面白い。有名な人のお墓もいっぱい見つかる。歌舞伎俳優の市川団十郎の墓も何代にもわたってある。安芸国の浅野家代々の殿様の墓もある。豊臣秀吉の墓もある。歴史を勉強しながら歩いた。奥の院で尼僧の法話を聞いた。御詠歌を澄んだ声で詠ってくれた。子供の頃、讃岐の家の前を通るお遍路さんたちが、鈴を鳴らしながら御詠歌を詠っていたのを聞いて以来のことだ。この尼さんは涙もろい人で、法話を話しながら、ご自分の父親の死について話すときに、涙で目を真っ赤にしながら法話を説いていた。法話を聞いた後、この尼さんとしばらく話をした。苦労をして成人し、出家した後もいろいろあったのだろう。涙なしでは語れないのだろう。高野山で心が洗われたような気持ちになった。
 後に、浄土宗を開いた法然も、浄土真宗を開いた親鸞も、若いときに比叡山にも高野山にも上って修行をした。仏教の修行の仕方など細かいところは宗派で異なるが、どれも仏教という意味ではみんな同じだ。他の宗派を悪く言うのは創○学○の宗派くらいで、あとはみな仏のありがたさを説く。外国へ行ったときに、肉を食べない理由を聞かれたときには、私は仏教徒だから、といってすませていた。そういうのがもっとも納得してくれるからだ。実際、私はキリスト教やイスラム教のような一神教よりは、仏教の方が心に落ちる。自分は無神論と長い間言ってきたが、ひょっとしたら無神論と仏教は両立するのかもしれないとも思っている。
 それでも日頃はあまり仏のことなど考えもしないが、最近、京都へ来てからだが、寺院に行くと心が落ち着くようになった。周りにいっぱいお寺があるので、寺に行く機会が増えたのもその理由かもしれない。仏様の話をしても京都なら、それほど周りの人たちから浮いては見えないということもあるのだろう。なにより、仏様が多様である。大日如来から阿弥陀如来、観世音菩薩、地蔵菩薩、などなど、中には不動明王のような恐ろしい顔をした仏様までいる。お寺を回って仏様を眺めていてもけっして飽きない。イタリアのフィレンツエに何日か滞在したことがあるが、どこの教会へ行っても、どこの美術館へ行っても、キリストの絵ばかりなのには本当に飽き飽きしたことを思い出す。
 なにはともあれ、比叡山と高野山、並び立つ二つの聖地を訪れて、震災で亡くなった人に鎮魂の祈りを捧げることができた。この連休は、心に触れる何かがあったような気がする。何かはよくわからないけれど、きっと私のこれからの短い人生において、良かったと思うことに貢献するだろうと思う。

動物たちに 最後に自由を

2011-05-13 | 日記風
先日、新聞を読んでいたら、福島第一原子力発電所事故で避難していた人が、自宅に一時帰宅したとき、飼っていた犬が死亡していたという投書があった。それを読んで、驚いた。二・三度、途中で家に帰って餌をやっていたという。でも、鎖で繋ぎっぱなしだったらしい。いくらペットとはいえ、鎖に繋ぎっぱなしで餌をやらなければ犬は苦しみながら死んでしまうのは当たり前だ。なぜ、この人は鎖を解いてやらなかったのだろうか。死ねと言わんばかりの扱いではないか。私にはこのようなペットを飼う人の気持ちが分からない。まさに虐待死ではないだろうか。

 そして昨日の新聞では、政府が福島第一原子力発電所の半径20km内の家畜を安楽死させることに決めたという。テレビではがれきの中を駆け回っている肉牛の姿が映っていた。彼らを捕まえて毒を注射して殺すらしい。これを虐殺と言わずしてなんという。飼育している家畜を避難させることができないなら、縛めを解いて自由に動けるようにして置けば良いだけのことではないか。彼らは自分で草を食み、原発の放射能の影響が出るまでは、それまで味わえなかった自由を謳歌できるはずだ。20km圏内から出てくれば、それはそれでかまわない。日本の国土はこの程度の家畜が野生化して暮らせる自然は残っている。何のために多くのお金を使って彼らを殺す必要があるのだろう。ひょっとしたら、彼ら牛たちが原発の放射能をあびて死んでいくのを見られるのは、政府にとって困ったことなのだろうか。その前に殺してしまえということかも。

 ペットを震災のがれきから救い出すボランティアの人たちが活躍している。それはそれで有益な活動であるだろう。しかし、ペットを助けて元の飼い主に戻すのは、ペットのためではない。飼い主の人間のためである。もし、ペットの動物を救い出すのが目的なら、むしろ繋がれてしまっているペットたちを、くびきから解き放ち、自由にすることをこそ、するべきことではないだろうか。ペットたちは、生まれて初めての自由を謳歌して、自由の喜びを知るだろう。

大地震、大津波に思い出す人々

2011-03-20 | 日記風
今回の地震は桁違いに大きかったようだ。私はそのとき、札幌のビルの中にいた。最初は気がつかなかった揺れが、すぐに大きく体を左右に揺すり始めた。大きいな、と感じたのだけど、まあこの程度の地震は道東にいる頃にはかなり頻繁に経験していたから、今度はどこで起こったのかな、と言う程度の関心だった。そのうち北海道の太平洋岸に大津波警報が出たので、震源が三陸沖だと分かった。

 夕方ホテルに帰ってテレビをつけて驚いた。東北の太平洋沿岸が巨大な津波ですべて流されたという。とうとうその日は夜中までテレビの前に釘付けになってしまった。茨城県の沿岸はほとんどすべての海岸を見て回ったことがある。日立市の海岸では歩いて見て回った。海岸で地元のおばさんたちと海岸の変化についていろいろ話をしたこともあった。福島県の沿岸は原発がいっぱいあるのであまり近寄れなかったが、相馬市の海岸、松川浦の干潟にはわざわざ車で見に行ったこともあった。東北地方の太平洋岸では数少ない素晴らしく広い干潟があった。

 宮城県では、仙台空港は何度も利用した。海に近い空港だと知ってはいたが、あの空港が津波の被害に遭おうとは、驚くばかりだ。近くの七北田川の河口には有名な蒲生干潟があり、多くの友達がここで仕事をしていた。仙台、石巻、女川など若い頃何度も通った町だった。聞き取れない方言に驚いたのもこのあたりの漁師たちとの交流から感じたことだった。その北の南三陸町には、自然活用センターというところがあり、ここで行われた観察会に参加したこともある。センター長は古くからの友達でもあった。センターの職員もみな顔見知りだ。この南三陸町の住民の2人に1人は、行方不明という状態が続いているという。このセンターも津波で完全に崩壊したようだ。

 岩手県では、大船渡、越喜来、釜石、大槌、山田、宮古とほとんどすべての町で、たくさんの思い出を持っている。主に漁師さんたちとのつきあいだったから、私が出会ったほとんどの人たちが、被災したことだろう。考えたら涙が自然に出てくる。

 あの人たちは、どうなっただろうか。日本の漁業の大きな部分が失われたというだけではない。個人的に言えば、多くの友人や友人になる人たちを失った。

 羽田空港がまだ一部使えないというので、東京経由だった飛行便を札幌-関空便に急遽変更してもらい、なんとか京都へ帰り着いた。京都は雪が積もっていたが、地震の影響はなく、平穏な毎日が続いているように見えた。でも、テレビなどで知る現実は悲惨を通り越したものだった。そして福島の原発事故。まだまだ最悪へのシナリオは閉じられていない。そして、最悪になっていない今でさえ、恐ろしい事態が始まっている。

 フィリピンで潜水したときに、鼓膜を損傷してしまったのが、しばらく私の耳の能力を妨げていた。片方の耳が何も聞こえず、頭の半分がなにか詰まってしまったようで、考える力も半減したようになっていた。大地震、大津波、そして原発のメルトダウン。すべてまるで真っ白くなった頭の半分が感じる夢のような毎日が続いた。地震から一週間、ようやく耳が乾燥してきて、少し聞こえるようになった。それとともに地震と津波と原発事故が現実のものとして感知されるようになった。でも、夢なら夢のままの方が良いような気がしている。

 被災地では、ようやく復興が始まったようだ。幸いにも私の近しい知人たちはほとんどが無事だったようだ。ホッとしているが、彼らがこれからどうやって生きていくか、彼ら自身もわからないようだ。地震と津波被害を直接受けなかった私たちができることは何か。なんとかしてあげたい。

寒いベトナム

2011-02-15 | 日記風
ベトナムに来て予想外だったことは、寒いこと。ハノイの気温が14℃と機内で聞いて、びっくり。暑いと思って無理して雪の京都を薄着で出たのに、ベトナムも寒いとは思わなかった。さすがにフエはハノイよりかなり南なので、それほど寒くはないが、小雨に濡れて風にさらされると寒さでふるえる。こちらの人はみんな厚手の防寒着を着込んでいる。私はTシャツの上になけなしの長袖を着ているだけだ。でも18℃くらいはあるので、我慢できないほどでもない。初日に風と雨でかなりやばいと思って、二日目はこちらの人がバイクに乗るときに着ているポンチョのような雨具を一着150円で買って着た。使い捨てのつもりで買ったのだが、これがあるとずいぶん助かった。

 フィリピンやタイにはしばしば出かけてきた。これらの国ではいつもTシャツと短パンだけだ。今回もそのつもりで来たのだが、ベトナムは熱帯ではないそうだ。亜熱帯なので、沖縄の冬と同じくらいは寒いらしい。ましてハノイは内陸だし、標高も少し高い。海辺のフエやもっと南のホーチミンは暑くなるが、それでも冬はあるらしい。もっとも今年は異常気象らしくて、もう乾期なので暑くなっているはずなのに、熱帯の雨とは思えないようなこぬか雨が降っていた。

 今日は船と車で川をさかのぼった。川で生活している人たちの暮らしは、まだまだ多いようだ。川の水もあまりきれいとは言えないが、それでもあらゆる川や水路では、人々が洗濯をしたり、野菜を洗ったり、魚を掬ったり、シジミを獲ったりしている。そして今は都会の建設ラッシュでコンクリートに入れる砂の需要が大きい。川のあちこちで砂利を採取して船で運んでいる。日本の川の砂は、建設用コンクリートのために取り尽くされ、とうとう採取禁止になってしまい、今では海岸の砂浜さえも無くなっている。でもベトナムではまだまだ砂は豊富にあるようだ。その理由は、川岸がまったくコンクリート化されていないから、岸から川へ砂がどんどん供給されているからだ。砂が溜まるところがあり、陸が削られて砂が川に入ってくるところもある。本来の川の姿が残っているから、砂もまだ取ることができる。もっとも、いつか日本の二の舞になりそうな気もするが、できればそうなる前に気がついて欲しい。

 川の上流に行くと、途中で道が消えて大規模な工事現場に行き着いた。ダムの建設現場だった。こんな大規模なダムの建設は、日本などの外国の援助で行うことが多いと聞く。日本の土建業が意外とこんなところでダムを造り続けているのかもしれない。日本の後追いはもう止めて方が良いのではないかと思う。ベトナムも中国も、日本のたどった自然破壊の道を歩かないようにして欲しいと、フエの街を歩きながら考えた。 

牛を殺し、鳥を殺し 次は何?

2011-02-12 | 日記風
全国各地で鳥インフルエンザに感染した野鳥やニワトリが見つかって大騒ぎになっている。養鶏業者は死活問題になりかねない。鳥インフルエンザに感染したニワトリが出た養鶏場の周囲何キロかのニワトリはもうすでに何十万羽と殺処分された。これからも殺されるニワトリはものすごい数になるだろう。殺されるニワトリには、本当に同情する。

 宮崎県は、牛や豚の口蹄疫騒ぎで畜産農家が大打撃を受けた後だけに、新燃岳の噴火も加わって、天罰が降ってきたように恐れおののいているのかもしれない。宮崎県の人たちにも、本当に同情するしかない。

 でも、あれだけの牛を殺しても、日本人の食卓にはまだまだ牛肉は溢れているように見える。まあ、半分以上は外国の肉なのだろうから、宮崎県の牛が全滅したところで、牛肉を食べる人には何の心配もないのかもしれないが。

 それでも、私にはどうも腑に落ちないことがある。あれらの牛や豚や鳥は、本当に殺されなければならなかったのだろうか。そして殺された彼らはなぜ埋めてしまわれたのだろうか。農水省や学者の言うように、口蹄疫や鳥インフルエンザに感染した動物を食べても人間の健康には何の心配もないというのなら、なぜ彼らを殺した後の肉をみんなで食べないのだろう。彼らは無駄死にではないか。

 と殺場へ運ばれる動物たちは、自分たちの運命をある程度知っているという研究がある。殺される順番を待っている豚の血糖値を測った研究によると、殺される順番が近づくにつれて、血糖値は異常に跳ね上がるという。彼らは自分たちが殺されることをよくわかっている。彼らの立場に自分を置いてみれば、彼らの気持ちもよく分かるだろう。私も昔住んでいた場所の近くの養豚場からトラックで出荷される豚の哀しそうな鳴き声が耳に残って辛かったことがある。いつもの鳴き声とは明らかに違う。運命を呪いながら、彼らは泣いているのだろう。

 野鳥のインフルエンザを防ぐすべはない。昔から鳥だってインフルエンザにかかることはあっただろう。でも野鳥がインフルエンザに感染して絶滅したという話は聞いたことがない。ではなぜニワトリは大量に死んでいくのか。それは簡単な理由だ。あの異常な詰め込み飼育が原因だ。身動きも出来ないような狭いケージでただ餌を食べ、卵を産み、生まなくなった鳥は殺されて肉にされる。そういう工場で製品を作るようなニワトリを生き物と認めない飼育方法が、鳥インフルエンザに感染したニワトリを大量に死なせることになる。野鳥の多くは、鳥インフルエンザに感染してもおそらく死なない。弱った鳥が一部死んでしまうだけで、ほとんどの野鳥は回復するのだろう。でも、ケージに詰め込まれて生き物として扱われていないニワトリたちは、全滅する。

 口蹄疫もきっと同じではないだろうか。不自然な生き方を強要された動物は、疫病で大量に死ぬ。人間も同じだ。爆発的な人口の増加で不自然な超過密で住んでいる都会では、インフルエンザに感染して死ぬ人が多くなる。そして難病が流行り、薬品抵抗性を持つ病原菌が進化してくる。この状態をどうすればいいかは、実は明らかだ。不自然な命の取り扱いを止めること。これしかない。過密な人口を支えるために、過密な飼育をする。それなら人口を減らす努力が必要だ。過密な人口をそのままにして、過密飼育や遠くの國からの輸入でごまかしては、結局のところ、すべてひずみが溜まるばかり。いつかはそれがカタルシスを引き起こす。

 肉はなるべく食べないようにしよう。私は卵も魚も食べる「ゆるベジ」だが、一応ベジタリアンだ。肉の消費はなるべく止めれば、もう少し日本の環境も良くなってくる。魚も最近はマグロなど大型魚を食べることはなるべく止めるようにしている。少しずつ本当のベジタリアン(ヴィーガン)へ近づく努力が必要なのだと感じている。

今年は寒かったか?

2011-02-05 | 日記風
今年は寒いという声が良く聞こえる。温暖化はウソだという声も耳にする。たしかに寒いと感じる。しかし、待って欲しい。本当に今年は寒いのだろうか。寒く感じるというのと、寒くなっているというのとは違うのだ。気温の変化は、毎年毎年一定の傾向で変化し続けるものではない。年によって上がったり下がったり変動が激しい。温暖化というのは、そういう毎年の変化を超越して、長い年月を通してみると平均的な気温が上昇している傾向が見られることを言う。だから温暖化しているからといって、毎年暑くなっているのではない。

 そう思ってよく考えると、私の子どもの頃は、冬といえば学校へ通う道すがら、道路に溜まった水たまりが厚い氷で覆われているのを、傘の先でつついて遊んだり、滑って遊んだりしたものだった。用水桶には1cmを超える厚い氷が張っていた。その記憶のあるのは、四国の香川県だ。しかし、寒いと言われている今年の京都でも、氷が張っている光景を見たことはあまりない。寒くて凍えるような日でも、道路が凍って滑りやすいような日は1日か2日あった程度だ。そうしてみると、やはり気温は上がっているのではないかと体感できる。

 それでも寒いと感じるのはなぜだろうか。それはやはり現代人がぬくぬくとした生活に慣れてしまって、ちょっとした寒さにも耐えられなくなっていることからくるのだろう。暑くて汗が出るほどの暖房をいれて当たり前の生活をしていないだろうか。それが結局のところ自分たちの環境を壊し、耐えられないような暑い夏が出現したり、異常な乾燥や洪水を引き起こし、近い将来命にかかわるほどの災害や温暖化を引き起こしていることに気がつかないか気がつかない振りをしている。そう考えたくないのだろうけど。

 CO2濃度の上昇と温暖化が関係あるかどうか、科学的には異論もあるが、CO2濃度が確実に上昇を続けていることは否定しようもない。温暖化もここ20年ほどの変化を見ると明らかである。それをどうするか。今年の冬が寒いと感じるから、温暖化はウソだというような単純な議論に乗ってはいけない。

アフリカの音を聴く

2011-01-25 | 日記風


この楽器はなんでしょう。知っている人は少ないと思う。これは、南アフリカのジンバブエという国で使われている「ムビラ」と言う楽器なんです。先日、このムビラの演奏を聴きに行ってきた。演奏している人は、サネチカ君というまだ20代の若者。ムビラの演奏を習い始めて3年が過ぎたという。毎年、ジンバブエの師匠のところに通ってムビラの演奏を習っている。年間3ヶ月以上、行っているそうだ。

 ジンバブエは南アフリカ共和国のすぐ北側に接している国で、ムガベ大統領の独裁政治で有名だ。イギリスなどの旧宗主国から「世界最悪の独裁政治」とも非難されているのは、ムガベ大統領がかつて白人が所有する大農場を強制的に接収し、貧しい黒人農民に配分したこと。米国やイギリスなどの国が国連安保理で非難決議を上げたが、ロシア、中国、リビア、南ア共和国などの反対でできなかった。現在は、連立政権が成立し、形式的には独裁政治ではなくなっている。

 ジンバブエでは、ムビラという楽器は、宗教的な儀式に使う。シャーマンがムビラの演奏をバックにトランス状態に入る。楽器は厚手の板に鋼鉄の板をならべて、指ではじいて音を出すだけの単純なしかけだ。音を共鳴させる仕掛けは、ビール瓶の蓋を4-5個、板の上に半ば固定しているだけ。使う指は両手の親指と右手の人差し指の3本だけ。それでも単純な澄み切った音を響かせる。サネチカ君は、ムビラの演奏をしていると、ジンバブエの青い空や茶色の大地などの色彩を思い浮かべるという。

 普段のコンサートでは2時間くらい演奏を予定しているらしいが、彼は演奏していると時間を忘れ、いつも3時間を超えて、時によっては夜中までついつい演奏してしまうと言う。それほどまでにムビラの音に魅せられている。今回はコンサートがメインではなかったので、彼は遠慮して1時間で止めたけれど、もっと弾きたかったようだった。メロディはアフリカ音楽に多いような比較的単調なメロディなので、寒い部屋で聞いていたので、もっともっとという感じではなかった。でもジンバブエの青い空の下、暖かな日差しの中で聴いていると、きっと癒されるだろう。心から。眠りたくなったら眠り、目が覚めたらムビラの音が近くで響き続けている、そんな音のある風景がきっとムビラの故郷なのだろう。

あけまして初詣

2011-01-03 | 日記風
新年あけましておめでとうございます。今年もごまめの歯ぎしりやまぐろのおならに耳を傾けていただければ大変有り難いと思います。

 新年が明けて、一日は雪が深くて外へ出る気持ちにならなかったが、二日目にはさすがに家の中ばかりにいるのも飽きてきたし、雪も随分溶けて、ひなたぼっこしたいような陽気に誘われて、半日初詣に出かけた。遠くの有名な神社やお寺に出かけるつもりはないので、もっとも近いお寺に出かけた。浄土宗の知恩寺。一般には百万遍のお寺として有名だ。でも境内にはほとんど人の姿もなく、静まりかえっていた。本殿に参拝して、溶けかかった雪の中を歩いて吉田神社に向かう。吉田神社は、人の群れがあちこちに見られ、ようやく正月気分になる。参拝した後、神社の振る舞いの熱い昆布茶で体を温め、吉田山に登る。吉田山は本当の名前は神楽が丘と言うが、三高寮歌「逍遙の歌」(くれない萌ゆる・・・)で吉田山として有名になってからは、吉田山で通っている。まずは麓の菓祖神社にお参りする。ここはお菓子の神社として和菓子や餡、ケーキなどの発展に貢献した職人などが祭神として奉られている。

 吉田山の頂上から、送り火の大文字が雪で白く彩られている大文字山を眺めた。雪の大文字を見るのは久しぶりだ。2年前にこの風景を見た後、大原の山で雪山行を行ったことを思い出した。今年は雪山を歩く元気が出るだろうか。神楽が丘を越えて、神楽が岡通りに下りる。麓の宗忠神社は階段を下から眺めて参拝した気分になった。神楽が岡通りを歩いて、今度は真如堂に入る。ここは天台宗の寺院。立派な大殿と三重塔が京都の風情を引き立てている。拝観料を払って近年観光客にも有名になった真如堂の庭を見学する。大文字山を借景に、釈迦の入寂を模して配置した石の庭がここの庭を有名にしている(写真)。ここの庭のモミジの紅葉が京都中でもっともきれいだと、ここの僧侶の話。今年の秋に来てみよう。



 真如堂を辞し、通りを隔てて隣の金戒光明寺に向かう。ここは百万遍のお寺と同じ浄土宗だが、浄土宗大本山というだけあって、見事な伽藍が立ち並ぶ。名前をあまり聞いたことがなかったが、観光としてはとくに名前を売っているわけではないようだ。でも写真を見る限りでは、秋の紅葉もきれいらしい。今年の秋にはここもいっしょに来てみよう。

 日射しが陰って急に寒くなってきた。今年の初詣はこのくらいにして家に帰る。近年の初詣としては、もっとも多くの寺社に参拝できた。京都はやはりすぐ近くに神社仏閣が多いので、初詣には便利だ。宗派などは関係ないのが今の日本人だから。私だけか?とにかく初詣三昧の一日だった。今年は良いことがありそうかな。いや、実はひいたおみくじは凶と出た。失せものはでず、待ち人は来たらす、十中八九は死す、ときた。う~~~ん。今年はどんな年になることやら。