ソフトバンク・ホークスが日本一になったとか。プロ野球になんの関心もないが、テレビのニュースで見ていて、頭からビールを掛け合う儀式が相も変わらず行われているのを見て、強い違和感を覚えた。ビールとはいえ、食べ物の一部だ。小麦から作るもので、小麦を主食としている民族は多い。日本でも米に代わって主食に近づいている。東日本大震災の被災者を思う言葉が、ホークスの監督のコメントに入っていたが、本当にそう思うなら、ビールを頭から掛けあうなどと言う儀式は一番にやめるべきではないだろうか。喜びを表現したいという気持ちは分からないでもないが、食べ物を無駄にすることを当たり前のように行うのは、もうやめにして欲しい。それだけのお金でもやめて寄付に回したなら、ソフトバンクの名前はさらに輝きを増したに違いない。節電と節約こそ、いま求められている。原発を廃止し、子供たちの時代を安心できるものにするために。
台風のおかげか、ようやく秋らしい涼しさがやってきたようだ。彼岸入りの頃から、曼珠沙華が咲き始めた。毎年、秋のお彼岸の前後に、律儀に燃えるような花を咲かせる。そういえば、桜や紅葉や、アヤメや菖蒲などの季節の花は、年によって早かったり遅かったり、かなり変化するようだが、曼珠沙華は、本当に正確にお彼岸に咲いているように思う。しかし、この時期に秋の到来を感じさせる金木犀の花がまだ香ってこない。
台風15号が関東を通過した際には、都内で帰宅難民の人々に混じって駅に座り込んでいた。予想より早い台風の通過で、予定が狂ってしまった。隠岐の島へ出かける予定が、飛行機が飛ばず、しかたなく京都へ帰ろうとしたが、新幹線は完全に止まってしまった。それなのに、東京駅の新幹線の切符の自動販売機はちゃんと動き、列車が止まっているのに、指定席を販売している。自動販売機が切符を売っている以上、列車は動いているのだろうと思って、駅にはいると、長蛇の列が新幹線の改札口にできており、人々は新聞紙を敷いて、床に座り込んでいる。駅員になぜ自動販売機が動いているのかと聞くと、いま自動販売機を停止する作業をしていると言う。それでは新幹線が動かなくなったばかりなのかと聞くと、いえ、正午からずっと止まっていると言う。こんなウソをどうして言うのだろう。ますます腹が立ってきた。
駅の床に座り込んで、夕ご飯の弁当を食べ、公衆電話を探し回って、行けなくなった宿の予約のキャンセルをし、床で開いたパソコンを使って、3回分の飛行機の予約をキャンセルしていたら、台風の風でパソコンが煽られて床を転がっていった。パソコンを片手で押さえながら、急いで仕事を済ませ、再び新聞紙を広げて階段に座り込んで、電車の復旧を待った。新幹線は、翌日まで復旧しないというアナウンスを聞き、京都へ帰るのをあきらめた。夜中近くになってのろのろと動き出した山手線と東上線を使って、川越に到着して、なんとか野宿を免れた。
東京駅の階段に座り込んでいた70代と思われるおじいさんが、しみじみと言った。最近の気象はおかしくなってしまったと。台風はこんなものだとも思ったが、雨の降り方はたしかに異常さが目立つ。梅雨明けの特徴的な豪雨が一年中見られるようになった。台風の動きも秋の台風の動きとは思えない。いったいこれは何が起こっているのだろうか。人間活動が自然のバランスを崩してしまったのだろうか。火山活動や地震さえも、以上と思えるように活発になっている。これも人間の影響なのだろうか。分からないが、とにかく今、私たちが異常な時期に当面しているのは、間違いないようだ。そんな時に、原発を動かすことは、もうありえない。
台風15号が関東を通過した際には、都内で帰宅難民の人々に混じって駅に座り込んでいた。予想より早い台風の通過で、予定が狂ってしまった。隠岐の島へ出かける予定が、飛行機が飛ばず、しかたなく京都へ帰ろうとしたが、新幹線は完全に止まってしまった。それなのに、東京駅の新幹線の切符の自動販売機はちゃんと動き、列車が止まっているのに、指定席を販売している。自動販売機が切符を売っている以上、列車は動いているのだろうと思って、駅にはいると、長蛇の列が新幹線の改札口にできており、人々は新聞紙を敷いて、床に座り込んでいる。駅員になぜ自動販売機が動いているのかと聞くと、いま自動販売機を停止する作業をしていると言う。それでは新幹線が動かなくなったばかりなのかと聞くと、いえ、正午からずっと止まっていると言う。こんなウソをどうして言うのだろう。ますます腹が立ってきた。
駅の床に座り込んで、夕ご飯の弁当を食べ、公衆電話を探し回って、行けなくなった宿の予約のキャンセルをし、床で開いたパソコンを使って、3回分の飛行機の予約をキャンセルしていたら、台風の風でパソコンが煽られて床を転がっていった。パソコンを片手で押さえながら、急いで仕事を済ませ、再び新聞紙を広げて階段に座り込んで、電車の復旧を待った。新幹線は、翌日まで復旧しないというアナウンスを聞き、京都へ帰るのをあきらめた。夜中近くになってのろのろと動き出した山手線と東上線を使って、川越に到着して、なんとか野宿を免れた。
東京駅の階段に座り込んでいた70代と思われるおじいさんが、しみじみと言った。最近の気象はおかしくなってしまったと。台風はこんなものだとも思ったが、雨の降り方はたしかに異常さが目立つ。梅雨明けの特徴的な豪雨が一年中見られるようになった。台風の動きも秋の台風の動きとは思えない。いったいこれは何が起こっているのだろうか。人間活動が自然のバランスを崩してしまったのだろうか。火山活動や地震さえも、以上と思えるように活発になっている。これも人間の影響なのだろうか。分からないが、とにかく今、私たちが異常な時期に当面しているのは、間違いないようだ。そんな時に、原発を動かすことは、もうありえない。
台風15号がのろのろと沖縄をねらって進んでいる中を、ボンバルディアのプロペラ機で伊丹から高知空港へ向かった。予想通り、小さな飛行機は揺れた。がたがたするのは雲の中を通るときだが、エアーポケットに落ち込むときは、思わず拳を握りしめる。何年乗っても、飛行機のこの感覚は、嫌なものだ。そういえば、子供の時もエレベーターに乗るのが嫌だった。落ちていく感覚が。
高知はやはり雨だった。時折驟雨が雨脚を白く光らせながらはりまや橋の広い道路を駆け抜けていく。雨は確固とした意志のないように、あがったり降ったり、傘を出したり仕舞ったり。台風を感じさせる風と、南国の湿ったような暖かい空気を動かしているような、高知という場所の今を思い出させる風が吹いている。
主催する少し気の張った会合が終わり、ほっとした気分で高知の街を歩く。台風はどうやら迷走しているらしい。沖縄へ行こうとして立ち止まり、あらためて今度はこちらの方向へ針路を定めようとしているらしい。道理でいつまでたっても台風の風がやまず、雨も同じような降り方を繰り返している。歩くときは雨のやむ一刻をねらって素早く出かけるしかない。高知市内には、東南アジアの国のように、街の大きい通りに、屋台レストランが軒を連ねている。来た最初の晩は、それを知らずに食事をするところを探し歩いた。酒を飲まない私には、夜の食事をするところを探すのが一苦労だ。こんな屋台街があれば、食べるところを探すのは苦労しない。昔は日本のどこの街にもこんな屋台店がいっぱい並んでいたはずなのに、なぜ無くしてしまったのだろうか。衛生面の懸念を並べ立て、潔癖症に冒された日本人たちが、こんなに楽しい屋台街を無くしてしまった。
この後、東京へ行き、それから隠岐の島へ行く予定だが、台風はどうやら勢力を強めているらしい。そして、ゆっくりと本州に近づくという。予定通りの行動ができるかどうか、10日間に及ぶ旅の行方がちょっと心配だ。でも、なるようになるだろう。それが旅の楽しみでもある。
高知はやはり雨だった。時折驟雨が雨脚を白く光らせながらはりまや橋の広い道路を駆け抜けていく。雨は確固とした意志のないように、あがったり降ったり、傘を出したり仕舞ったり。台風を感じさせる風と、南国の湿ったような暖かい空気を動かしているような、高知という場所の今を思い出させる風が吹いている。
主催する少し気の張った会合が終わり、ほっとした気分で高知の街を歩く。台風はどうやら迷走しているらしい。沖縄へ行こうとして立ち止まり、あらためて今度はこちらの方向へ針路を定めようとしているらしい。道理でいつまでたっても台風の風がやまず、雨も同じような降り方を繰り返している。歩くときは雨のやむ一刻をねらって素早く出かけるしかない。高知市内には、東南アジアの国のように、街の大きい通りに、屋台レストランが軒を連ねている。来た最初の晩は、それを知らずに食事をするところを探し歩いた。酒を飲まない私には、夜の食事をするところを探すのが一苦労だ。こんな屋台街があれば、食べるところを探すのは苦労しない。昔は日本のどこの街にもこんな屋台店がいっぱい並んでいたはずなのに、なぜ無くしてしまったのだろうか。衛生面の懸念を並べ立て、潔癖症に冒された日本人たちが、こんなに楽しい屋台街を無くしてしまった。
この後、東京へ行き、それから隠岐の島へ行く予定だが、台風はどうやら勢力を強めているらしい。そして、ゆっくりと本州に近づくという。予定通りの行動ができるかどうか、10日間に及ぶ旅の行方がちょっと心配だ。でも、なるようになるだろう。それが旅の楽しみでもある。
長年私の足となって北海道の広い原野をともに駆けめぐった車を、とうとう手放した。廃車にするまで乗るつもりだったが、幸か不幸か18万㎞乗ったこの車を今しばらく乗りたいという人がいたので、墓場に送るのではなく、別の人に使われてくれと別れを言ってきた。サスペンションがダメになっているようで、少々乗り心地が悪いが、気になるほどではない。エンジンはまだまだ快調な響きを聞かせてくれる。これまで一度もエンジントラブルを起こしたことがなかった優秀な車だった。トラブルを起こしたのは常に運転する人間だったから、車は10年間ほど、堅実に、雪と氷の冬道も、濃霧にぬれた夏の道も、私を望むところへ連れて行ってくれた。
思えば、この車と出かけた道すがらには、いろんな思い出がある。路肩に寄せたつもりが深い雪の中に潜り込んでしまい、車はほとんど横向きに近く傾いてしまったこともあった。近くを通りかかったトラックが、親切にワイヤーで牽引してくれたので、助かったが、あのトラックが助けてくれなければ、夜の峠で野宿だったかもしれない。
サンナシ小屋への道すがら、小道の横の小川に入り込んで、このときも車がほとんど横倒しに近くなってしまったこともあった。しかも小川の底はもがけばもがくほど深く潜り込む泥地獄。このときもどうなるかと思ったが、近くの農家に助けを求めたら、除雪用のブルドーザーで引き上げてくれた。九死に一生を得る思いで助かったが、このときに車の左前輪のカバーが大きく壊れてしまった。でもそれも直さないまま、今日まで乗り続けた。そういえば、この人のブルドーザーにはもう一度お世話になっている。冬の雪道に、サンナシ小屋への入り口までのアプローチで、雪の吹きだまりに車が突っ込んで、動けなくなった。このときも、この農家のブルドーザーで周りの雪を除雪してもらい、なんとか抜け出した。
思い出せば、トラブルだけが思い出に残っている。しかし、すべてこの車のせいのトラブルではなかった。この車で北海道のあちこちの山を登った。登山口まで前日の深夜に車で行き、早朝まで車で仮眠して登り始める。そして頂上まではピストンで日帰り。夜ひた走りで家まで帰るという山行が続いた。おかげで、北海道の有名な山はかなり登ることができた。大雪山系の山々は言うまでもない。十勝岳、アポイ岳、斜里岳、羅臼岳、雌阿寒岳、雄阿寒岳、富良野岳、暑寒別岳、後志羊蹄山などなど。車で行けなかったのは、利尻岳くらいだ。
空港で、車に別れを告げたときに、涙が流れたわけではないが、ただ、これまで感じなかったような車への人間的な思いが湧いてきて、ああ、この車ともお別れだなと思った。私の夢とともに北海道を駆けめぐったこの車に、ありがとうと言いたくなった。車が無くなったと思ってはじめて感じる、いささか勝手な感情なのだろうけど。
これで車を持たない生活が始まる。せいせいしたような、なんとなく心許ないような。いつまで続くのだろうか。
思えば、この車と出かけた道すがらには、いろんな思い出がある。路肩に寄せたつもりが深い雪の中に潜り込んでしまい、車はほとんど横向きに近く傾いてしまったこともあった。近くを通りかかったトラックが、親切にワイヤーで牽引してくれたので、助かったが、あのトラックが助けてくれなければ、夜の峠で野宿だったかもしれない。
サンナシ小屋への道すがら、小道の横の小川に入り込んで、このときも車がほとんど横倒しに近くなってしまったこともあった。しかも小川の底はもがけばもがくほど深く潜り込む泥地獄。このときもどうなるかと思ったが、近くの農家に助けを求めたら、除雪用のブルドーザーで引き上げてくれた。九死に一生を得る思いで助かったが、このときに車の左前輪のカバーが大きく壊れてしまった。でもそれも直さないまま、今日まで乗り続けた。そういえば、この人のブルドーザーにはもう一度お世話になっている。冬の雪道に、サンナシ小屋への入り口までのアプローチで、雪の吹きだまりに車が突っ込んで、動けなくなった。このときも、この農家のブルドーザーで周りの雪を除雪してもらい、なんとか抜け出した。
思い出せば、トラブルだけが思い出に残っている。しかし、すべてこの車のせいのトラブルではなかった。この車で北海道のあちこちの山を登った。登山口まで前日の深夜に車で行き、早朝まで車で仮眠して登り始める。そして頂上まではピストンで日帰り。夜ひた走りで家まで帰るという山行が続いた。おかげで、北海道の有名な山はかなり登ることができた。大雪山系の山々は言うまでもない。十勝岳、アポイ岳、斜里岳、羅臼岳、雌阿寒岳、雄阿寒岳、富良野岳、暑寒別岳、後志羊蹄山などなど。車で行けなかったのは、利尻岳くらいだ。
空港で、車に別れを告げたときに、涙が流れたわけではないが、ただ、これまで感じなかったような車への人間的な思いが湧いてきて、ああ、この車ともお別れだなと思った。私の夢とともに北海道を駆けめぐったこの車に、ありがとうと言いたくなった。車が無くなったと思ってはじめて感じる、いささか勝手な感情なのだろうけど。
これで車を持たない生活が始まる。せいせいしたような、なんとなく心許ないような。いつまで続くのだろうか。
寒い釧路から知床に向かった。内陸に行くに従って少し気温は上がったが、天候はずっと霧雨が続いた。途中、標茶から弟子屈へ出て、摩周湖を見ようとしたが、湖は霧の中だった。貼るから夏にかけては摩周湖は霧で見えないことは普通のことだが、8月も終わりに近くになって霧で見えないというのは、これまでの経験では、珍しいことだ。
川湯で足湯につかり、香港から来たという二人連れと片言英語でしゃべり、雨の中を野上峠に向かう。雪のある冬の野上峠を越える苦労を考えると、夏の峠越えは、いとも簡単だ。あっという間に小清水町のオホーツク海に出会い、斜里町の道の駅に寄って、ウトロの街に着いたのは、午後3時半頃。まだ宿に入るのは早すぎる。まずオシンコシンの滝を観光客らしく大勢の人に交じって眺めて歩く。知床自然センターに行き、知人を訪ねるも、その人は羅臼のビジターセンターにいるという。知床財団が知床自然センターも羅臼のビジターセンターも環境省から運営を委託されているらしく、知床財団に所属している人は、どちらにも勤務するようだ。そのほかにもこの財団が運営しているところがあちこちにある。知床の自然を守るために活動してきた人たちが地元の自治体といっしょにつくった財団が、このように知床世界遺産登録にともなって激増した観光客に対応する施設を運営することになったという点は、よかったのかどうだったのか、複雑な思いが去来する。
知床五湖まで車で行くが、夕方4時半には周遊路が閉まってしまうとのことで、これから行っても無駄になる。やめて再び自然環境センターに戻る。知床では、知床の開拓地跡をもとの自然に戻そうというトラスト運動が、もう30年以上前に始まったとき、私たちも夫婦と子供二人の四人で運動に参加した。百㎡の土地を8000円で買ったつもりで、地元の斜里町に寄付をし、斜里町が責任を持って管理、自然再生を行うというものだった。私たちは、自分たちだけではなく、親戚や友人が結婚するたびに、土地の購入金を寄付し、その権利書を結婚祝いに贈ってきた。この自然センターには、寄付した人たちの名前を書いたプレートが、一つの建物の中に所狭しと並べてある。4万9千人が寄付をしたという。それだけのネームプレートの中から自分たちのプレートを探すのは結構大変だったが、それでも探し出すことができた。30年以上前に知床の自然再生に協力したことを思い出して、感慨にふけった。当時の8000円は今で言えばどのくらいになろうか。100倍くらいの価値はあった。少なくとも収入の乏しかった我が家では。あのときの二人の娘ももう一人前の大人になった。
宿の民宿では、人の良いおじさんとおばさんに出会った。京都から来たというと、自分たちが2年前、京都へ遊びに行ったときの印象がよかったことを、縷々説明してくれる。夕食もすばらしい。けっして多すぎることがないのに、珍しい味がたくさん少しずつ出る。全部で19のお皿がでていた。マツバガニ、カニの腹子、カニの内子、ホヤ、ナマコ、イバラガニの味噌汁、カニ豆腐、などなどおいしいたくさんの味を楽しんで、知床の天候の悪さも忘れて楽しんだ。
翌日は、朝は大雨。出発する頃には雨は小降りになったが、心配。まずは昨日行きそびれた知床五湖へ。私は3度目か4度目だが、連れ合いは初めて。でも天候が悪いし、連れ合いの体調もよくないので、最短コースを歩くことにした。五湖をゆっくり周遊するには、最近では、ガイドと一緒に行く必要があるらしい。そして、行く前に心得を研修しなければならない。私たちは、ガイドなしで、最近できたらしい高架木道を歩いて、「一湖」を見るだけのコースに出かけた。雨は小降りから霧雨程度に変わってきたが、観光客は多い。木道の上はまるで銀座並み。近くに見られるエゾシカにみんな喜んでいる。道東に長い間住んできた私にとっては、エゾシカなぞ珍しくもないのだが。
五湖の一つをみて、知床峠を越える。途中は雨で煙って何も見えない。知床峠も霧で包まれている。人っ子一人いない。そのまま羅臼へ向かう。羅臼のビジターセンターに行き、知人を訪ねるが、あいにく留守とのこと、そのまま出発する。羅臼では熊ノ湯にも寄らずに帰る。最近は温泉に行きたいという気持ちが昔ほど無くなった。なぜだろう?
その後は、標津経由で帰るが、もうやめてほしいと言うほどの好天。太陽がまぶしい。知床にいる間と全く違う。天候が好転するとは聞いていたが、やはりこれは天候がよくなったと言うよりも、知床と標津側との違いなのだろう。知床はやはり、そういう気候の場所なのだろう。地の果てなのだから。
川湯で足湯につかり、香港から来たという二人連れと片言英語でしゃべり、雨の中を野上峠に向かう。雪のある冬の野上峠を越える苦労を考えると、夏の峠越えは、いとも簡単だ。あっという間に小清水町のオホーツク海に出会い、斜里町の道の駅に寄って、ウトロの街に着いたのは、午後3時半頃。まだ宿に入るのは早すぎる。まずオシンコシンの滝を観光客らしく大勢の人に交じって眺めて歩く。知床自然センターに行き、知人を訪ねるも、その人は羅臼のビジターセンターにいるという。知床財団が知床自然センターも羅臼のビジターセンターも環境省から運営を委託されているらしく、知床財団に所属している人は、どちらにも勤務するようだ。そのほかにもこの財団が運営しているところがあちこちにある。知床の自然を守るために活動してきた人たちが地元の自治体といっしょにつくった財団が、このように知床世界遺産登録にともなって激増した観光客に対応する施設を運営することになったという点は、よかったのかどうだったのか、複雑な思いが去来する。
知床五湖まで車で行くが、夕方4時半には周遊路が閉まってしまうとのことで、これから行っても無駄になる。やめて再び自然環境センターに戻る。知床では、知床の開拓地跡をもとの自然に戻そうというトラスト運動が、もう30年以上前に始まったとき、私たちも夫婦と子供二人の四人で運動に参加した。百㎡の土地を8000円で買ったつもりで、地元の斜里町に寄付をし、斜里町が責任を持って管理、自然再生を行うというものだった。私たちは、自分たちだけではなく、親戚や友人が結婚するたびに、土地の購入金を寄付し、その権利書を結婚祝いに贈ってきた。この自然センターには、寄付した人たちの名前を書いたプレートが、一つの建物の中に所狭しと並べてある。4万9千人が寄付をしたという。それだけのネームプレートの中から自分たちのプレートを探すのは結構大変だったが、それでも探し出すことができた。30年以上前に知床の自然再生に協力したことを思い出して、感慨にふけった。当時の8000円は今で言えばどのくらいになろうか。100倍くらいの価値はあった。少なくとも収入の乏しかった我が家では。あのときの二人の娘ももう一人前の大人になった。
宿の民宿では、人の良いおじさんとおばさんに出会った。京都から来たというと、自分たちが2年前、京都へ遊びに行ったときの印象がよかったことを、縷々説明してくれる。夕食もすばらしい。けっして多すぎることがないのに、珍しい味がたくさん少しずつ出る。全部で19のお皿がでていた。マツバガニ、カニの腹子、カニの内子、ホヤ、ナマコ、イバラガニの味噌汁、カニ豆腐、などなどおいしいたくさんの味を楽しんで、知床の天候の悪さも忘れて楽しんだ。
翌日は、朝は大雨。出発する頃には雨は小降りになったが、心配。まずは昨日行きそびれた知床五湖へ。私は3度目か4度目だが、連れ合いは初めて。でも天候が悪いし、連れ合いの体調もよくないので、最短コースを歩くことにした。五湖をゆっくり周遊するには、最近では、ガイドと一緒に行く必要があるらしい。そして、行く前に心得を研修しなければならない。私たちは、ガイドなしで、最近できたらしい高架木道を歩いて、「一湖」を見るだけのコースに出かけた。雨は小降りから霧雨程度に変わってきたが、観光客は多い。木道の上はまるで銀座並み。近くに見られるエゾシカにみんな喜んでいる。道東に長い間住んできた私にとっては、エゾシカなぞ珍しくもないのだが。
五湖の一つをみて、知床峠を越える。途中は雨で煙って何も見えない。知床峠も霧で包まれている。人っ子一人いない。そのまま羅臼へ向かう。羅臼のビジターセンターに行き、知人を訪ねるが、あいにく留守とのこと、そのまま出発する。羅臼では熊ノ湯にも寄らずに帰る。最近は温泉に行きたいという気持ちが昔ほど無くなった。なぜだろう?
その後は、標津経由で帰るが、もうやめてほしいと言うほどの好天。太陽がまぶしい。知床にいる間と全く違う。天候が好転するとは聞いていたが、やはりこれは天候がよくなったと言うよりも、知床と標津側との違いなのだろう。知床はやはり、そういう気候の場所なのだろう。地の果てなのだから。
京都の猛暑も、一段落ついた感がする。でもまたすぐに再び暑くなるらしい。そんな京都を逃げ出して、釧路に着いた。釧路も例年よりも涼しくなったという。空港を出たとたん、寒さに震えた。最高気温が18℃とか。東京と釧路の間は普通10℃くらい違うが、京都とは15℃くらい違うのではないか。とても半袖ではおられない。東京から来たバイクツアーの若者などは、厚手の防寒着を着込んでいる。
毛布一枚で寝込んだら、夜中に寒くて震えが来た。いそいで布団を引っぱりだして潜り込んだ。布団の中では少し暑いが、足を外へ出すと寒い。体温調節が難しい。寝る前に風呂に入らないと体が冷えて寝付けない。あの暑さがないのは、助かるが、寒いのも慣れないと困る。ぜいたくな悩みかもしれないが。
毛布一枚で寝込んだら、夜中に寒くて震えが来た。いそいで布団を引っぱりだして潜り込んだ。布団の中では少し暑いが、足を外へ出すと寒い。体温調節が難しい。寝る前に風呂に入らないと体が冷えて寝付けない。あの暑さがないのは、助かるが、寒いのも慣れないと困る。ぜいたくな悩みかもしれないが。
しばらく涼しい日が続いて、ほっとしたのだが、また、猛暑がやってきたようだ。今年の夏はどうなるのか、どうも異常な状態が次々と起こりそうな気がする。暑さがおさまってくれればありがたいのだが。二日ほど東京に来てみて驚いた。東京はずいぶん涼しい。窓を開けて寝ていると朝方は寒くて押し入れから毛布を引っ張り出すほどだった。もう秋が来たのだろうかと思うほどだ。おかげで東京電力管内の電力使用量は、60%台まで落ち込んでいて、これなら原発なしでも全然問題ない。今すぐ原発を止められる。
東京から水戸に出かけた。上野からわずか1時間だが、水戸に来ると東日本大震災の影響がかなり残っているのに驚く。多くの瓦屋根の家が、屋根の上をブルーシートで覆ったままになっている。修理したくても人手が足りなくて、修理できないのだとか。西日本などからも応援に行っているのだろうが、東北全体がそのような状態の上、関東地方でも被害がいっぱいあり、対応がままならないのだろう。多くの家が不便をかこったまま、今年を過ごさざるを得ないようだ。被害が広域であることが、復興、復旧の足かせにもなっている。一方、復興景気もこれから見通せるような気もする。
茨城県は、震災以外にもフクシマ原発事故の影響を受けている。野菜が被曝して出荷停止になったし、北茨城のコウナゴからセシウム137が基準の何十倍も見つかったから、「風評被害」も加わって、第一次産業への影響は大きいようだ。漁業は復活しているようだが、茨城産では価格が落ちて儲けにならない。ところが、水産物は産地はかならずしも都道府県を書く必要はないので、太平洋産でもいいらしい。これもひどい話だが、茨城産でも福島産でも、太平洋産と書いておけば、分からない。消費者は安心して買っていくのだ。
水産物の産地は、かなりいい加減だというのは知っていたが、ここまでとは思わなかった。北朝鮮から輸入したアサリでも、生きたまま輸入して地先の浜に1ヶ月も入れてから出荷すれば国産アサリになる。九州のサバでも迂回すればブランドの関サバになる。太平洋産や日本海産などというのも、そのいい加減さの例だ。
話が飛んだが、水戸は良い町だが、震災と原発事故の影響は、なんとなく町の人たちの気持ちも変えているように思える。水戸も東京よりも涼しい。今日あたりから気温が上がり始めたようだが、それでも京都の暑さから考えれば天国だ。明日からまた京都の猛暑の中で、クーラーにも頼らず、汗にまみれながら、耐える生活が始まる。下旬に北海道へ逃げる予定なので、それまでなんとか猛暑は待って欲しいものだ。
東京から水戸に出かけた。上野からわずか1時間だが、水戸に来ると東日本大震災の影響がかなり残っているのに驚く。多くの瓦屋根の家が、屋根の上をブルーシートで覆ったままになっている。修理したくても人手が足りなくて、修理できないのだとか。西日本などからも応援に行っているのだろうが、東北全体がそのような状態の上、関東地方でも被害がいっぱいあり、対応がままならないのだろう。多くの家が不便をかこったまま、今年を過ごさざるを得ないようだ。被害が広域であることが、復興、復旧の足かせにもなっている。一方、復興景気もこれから見通せるような気もする。
茨城県は、震災以外にもフクシマ原発事故の影響を受けている。野菜が被曝して出荷停止になったし、北茨城のコウナゴからセシウム137が基準の何十倍も見つかったから、「風評被害」も加わって、第一次産業への影響は大きいようだ。漁業は復活しているようだが、茨城産では価格が落ちて儲けにならない。ところが、水産物は産地はかならずしも都道府県を書く必要はないので、太平洋産でもいいらしい。これもひどい話だが、茨城産でも福島産でも、太平洋産と書いておけば、分からない。消費者は安心して買っていくのだ。
水産物の産地は、かなりいい加減だというのは知っていたが、ここまでとは思わなかった。北朝鮮から輸入したアサリでも、生きたまま輸入して地先の浜に1ヶ月も入れてから出荷すれば国産アサリになる。九州のサバでも迂回すればブランドの関サバになる。太平洋産や日本海産などというのも、そのいい加減さの例だ。
話が飛んだが、水戸は良い町だが、震災と原発事故の影響は、なんとなく町の人たちの気持ちも変えているように思える。水戸も東京よりも涼しい。今日あたりから気温が上がり始めたようだが、それでも京都の暑さから考えれば天国だ。明日からまた京都の猛暑の中で、クーラーにも頼らず、汗にまみれながら、耐える生活が始まる。下旬に北海道へ逃げる予定なので、それまでなんとか猛暑は待って欲しいものだ。
岩手県の陸前高田市、宮城県の大船渡市、気仙沼市、南三陸町を訪れてきた。どの町も大津波に町の大半を飲み込まれたところばかり。これらの町を見て回って、大津波のパワーの大きさに、今更ながら驚いた。人々を恐怖に陥れたこの大自然の営みは、地質学的な時間から見れば、何も驚くほどのこともない。縄文時代から考えても、おそらく10回近い頻度でこの程度の地震や津波は人々が経験しているはずだ。それにしても人間が作ったものの砂上の楼閣としか言えない道路や橋や鉄道やビルが、いとも簡単に普通の水の塊に押し流されている。ほとんどのビルの1階が、柱だけを残して何もなくなっているのを見て、水の流れの強さを想像することができた。

がれきの処理は、町によってかなり進み具合が異なっている。これは被害の大きさによるものなのか、それとも自治体の取り組みの違いなのかよく分からないが。陸前高田市では、がれきのほとんどが集積所に集められ、しかもかなりきれいに分別されているのをみて、驚いた。一方、大船渡市や南三陸町では、まだまだがれきがそのままになっており、手のつけようがない状態になっている。どうもがれきの処理が進んでいない地域は、地盤が沈下して満潮時には海水が入り込んでいるようなところが多いようだ。海に帰ろうとしている埋め立て地を再び埋め立てて町を作るのか、それとも元の海に戻すのか、住民の住む場所が決まらないため、処理も遅れているのだろう。

津波が実に内陸の奥深くまで侵入したことを示すのは、木の上に引っかかっている漁具や浮き球の存在である。巨大な樹木の梢の方に、これらの漁具が残っているのを見ると、津波時にはあそこまで水が盛り上がったことを想像して、身震いする。これだけの津波に(わずか)2万人の犠牲者で済んだことにむしろ意外に感じるほどである。津波の恐ろしさを十分先祖から聞いて知っていたこともあるし、昼間の地震であったことも幸いしたのだろう。夜中だったら、津波警報でも避難しない人が多い最近の傾向があったからだ。オオカミ少年の比喩はいつの時代も当てはまる。
被災地のみならず、内陸の方でも、ホテルや民宿はどこも満員だった。泊まる宿を探すのに苦労した。家を流されて避難している家族もあり、復興工事で動員されている労務者も多い。ボランティアできている人たちはほとんどが公民館や学校で寝袋で寝ている。探し回った末に内陸の町でやっと宿を探すことができた。大地震はあったが、津波の被害がなかった内陸は、平穏そのものだ。これで福島第一原発の事故がなければ、地震の被害はそれほどのこともなかっただろう。
津波の被害を受けた二つの地域で、今後息の長い支援をしていくつながりを作ることができそうだ。復興は、これまでの三陸沿岸の姿を元通りにするのではなく、もっと人間が住みよい町を作るという視点で支援していきたい。それは、家を失い仮設住宅でひっそり暮らしている人たちの意見をどうやってくみ取ることができるか、そこにかかっているような気がする。どうやればそれができるか、考えることの多い毎日だ。

がれきの処理は、町によってかなり進み具合が異なっている。これは被害の大きさによるものなのか、それとも自治体の取り組みの違いなのかよく分からないが。陸前高田市では、がれきのほとんどが集積所に集められ、しかもかなりきれいに分別されているのをみて、驚いた。一方、大船渡市や南三陸町では、まだまだがれきがそのままになっており、手のつけようがない状態になっている。どうもがれきの処理が進んでいない地域は、地盤が沈下して満潮時には海水が入り込んでいるようなところが多いようだ。海に帰ろうとしている埋め立て地を再び埋め立てて町を作るのか、それとも元の海に戻すのか、住民の住む場所が決まらないため、処理も遅れているのだろう。

津波が実に内陸の奥深くまで侵入したことを示すのは、木の上に引っかかっている漁具や浮き球の存在である。巨大な樹木の梢の方に、これらの漁具が残っているのを見ると、津波時にはあそこまで水が盛り上がったことを想像して、身震いする。これだけの津波に(わずか)2万人の犠牲者で済んだことにむしろ意外に感じるほどである。津波の恐ろしさを十分先祖から聞いて知っていたこともあるし、昼間の地震であったことも幸いしたのだろう。夜中だったら、津波警報でも避難しない人が多い最近の傾向があったからだ。オオカミ少年の比喩はいつの時代も当てはまる。
被災地のみならず、内陸の方でも、ホテルや民宿はどこも満員だった。泊まる宿を探すのに苦労した。家を流されて避難している家族もあり、復興工事で動員されている労務者も多い。ボランティアできている人たちはほとんどが公民館や学校で寝袋で寝ている。探し回った末に内陸の町でやっと宿を探すことができた。大地震はあったが、津波の被害がなかった内陸は、平穏そのものだ。これで福島第一原発の事故がなければ、地震の被害はそれほどのこともなかっただろう。
津波の被害を受けた二つの地域で、今後息の長い支援をしていくつながりを作ることができそうだ。復興は、これまでの三陸沿岸の姿を元通りにするのではなく、もっと人間が住みよい町を作るという視点で支援していきたい。それは、家を失い仮設住宅でひっそり暮らしている人たちの意見をどうやってくみ取ることができるか、そこにかかっているような気がする。どうやればそれができるか、考えることの多い毎日だ。
とうとう怖れていた夏がやって来た。うだるような暑さが続く。今年の6月は例年になく涼しいなと喜んでいた矢先、下旬になったら6月だというのにもはや猛暑日が現れた。職場でも自宅でもエアコンを使わない生活をしている私。なにも原発が停止して電気が足りなくなるからと言う電力会社の企みに乗せられているわけではない。ずっと前から、冷房は体に悪いと言うことを実感として身についていたからだ。それにしても35℃を超える猛暑には、体がついていかない。子供の頃はどうしていただろうと考えてみた。あの頃は、冷房などはなかった。猛暑日というのは、あの頃にはなかったように思うが、それでも真夏は暑かった。そんなときは、家の前の道路に打ち水をした。窓は開け放ち、夕方になると窓から涼しい風が家の中を通り抜けていった。真昼の暑い盛りには、部屋に蚊帳を釣って、団扇を使いながら昼寝をした。夕方涼しくなってから、みんなと暗くなるまで遊んだ。そんな日が、思い出される。
そうだ。冷房など無くても、みんな元気に遊んだ。昼寝をしてもっとも暑い日中をしのいだ。熱射病にかかる人ももちろんいた。でも、それでもそれほど大事にはならなかったように思う。暑い日の学校の朝礼は、辛かったが、今のようにバタバタと生徒が倒れると言うこともなかった。冷房で過保護に育った今の若者は、ちょっとしたことで簡単に倒れる。だから、電気がないと生きていけないと本気で思ったりするのだ。
北海道のサンナシ小屋には、電気も水道もない。でも生きて行くには何も困らない。暗くなれば寝ればいいし、夏など朝の3時半には夜が明ける。明るくなれば起き、暗くなれば寝る。その生活に電気など必要ない。携帯電話など使わなくても、生きることはできるし、むしろストレスが無くなる。こんな生き易い暮らしはない。断捨離という言葉が流行っているようだが、断捨離をするなら、一番に携帯電話を捨てることだ。そして、少しずつ電気を使わない生活を始める。
といいながら、サンナシ小屋へ行く機会がどんどん無くなってきた。大震災後は、まだ一度もサンナシ小屋を訪れていない。京都の夏が私の体をむしばみ始め、耐え難くなったら、北海道へ逃げだそう。でも、まだ京都の夏は本番には遠い。汗が体をツーッと流れていくのも、まだまだ気持ちいいくらいのものだ。頭もまだちゃんとしている。なんといってもまだ6月なのだ。明日から、7月にはいる。果たして今年はどんな夏が来るのだろうか。
そうだ。冷房など無くても、みんな元気に遊んだ。昼寝をしてもっとも暑い日中をしのいだ。熱射病にかかる人ももちろんいた。でも、それでもそれほど大事にはならなかったように思う。暑い日の学校の朝礼は、辛かったが、今のようにバタバタと生徒が倒れると言うこともなかった。冷房で過保護に育った今の若者は、ちょっとしたことで簡単に倒れる。だから、電気がないと生きていけないと本気で思ったりするのだ。
北海道のサンナシ小屋には、電気も水道もない。でも生きて行くには何も困らない。暗くなれば寝ればいいし、夏など朝の3時半には夜が明ける。明るくなれば起き、暗くなれば寝る。その生活に電気など必要ない。携帯電話など使わなくても、生きることはできるし、むしろストレスが無くなる。こんな生き易い暮らしはない。断捨離という言葉が流行っているようだが、断捨離をするなら、一番に携帯電話を捨てることだ。そして、少しずつ電気を使わない生活を始める。
といいながら、サンナシ小屋へ行く機会がどんどん無くなってきた。大震災後は、まだ一度もサンナシ小屋を訪れていない。京都の夏が私の体をむしばみ始め、耐え難くなったら、北海道へ逃げだそう。でも、まだ京都の夏は本番には遠い。汗が体をツーッと流れていくのも、まだまだ気持ちいいくらいのものだ。頭もまだちゃんとしている。なんといってもまだ6月なのだ。明日から、7月にはいる。果たして今年はどんな夏が来るのだろうか。
3月11日の大震災以来、初めて東京に来た。放射性物質を取り込む怖れもあるので、東京へ行くときはマスクをしていった方が良いと聞いていたが、東京にいる時間がわずかなので、マスクの用意もしないで出かけた。さぞかし東京はマスク姿が氾濫しているのだろうと思って行ったが、あにはからんやほとんどマスク姿はいなかった。放射能は姿もなければ色もない、臭いもないので、誰も気にしなくなったのだろうか。おそろしいことだ。
午後からの会議のために出かけたが、少し早めに目的のビルに着いた。そのビルでは昼休みコンサートが開かれていた。ヴァイオリンとピアノの合奏で、ハンガリアンダンスなど数曲が昼休みの40分間に演奏する。月に一度のランチタイムコンサートだった。ここのところクラシックについているらしい。午後の会議は重苦しい空気だったので、せめてこのコンサートで気晴らしができたのが、幸いだ。会議が終わってすぐさま東京をあとにした。
福島第一原発の1~3号機では、大量の高濃度汚染水が溜まり続けている。一方、行方不明の汚染水が推定1万トンにも及ぶという。いくら汚染水が行方不明になったか、政府も把握できていないらしい。1万トンの高濃度汚染水が行方不明ということは、もう地下に漏れてしみ出したとしか考えられない。これだけの汚染水が地下にしみ込んだとすると、地下水はもはや人間が住むこともできないほどの放射能を抱え込んでいることになる。しかも、炉心は溶けてしまい、メルトスルーが起こっている。広島原爆の1000発分以上の死の灰を持った核燃料が地下にどんどん沈んで行っていると考えてももう不思議ではない。専門家からは、それを防ぐために地下に巨大なダムを作るべきだという話も出ているが、いまからではその技術もなく、金もない。もはやチャイナシンドロームを手をこまねいて見ているしかない事態になっているようだ。日本はもうおしまいではないか。
そのような事態になっても、東電は知らぬ振りをして、株主総会対策などにうつつを抜かしている。この事態になっても東電は人の命より自分の会社が大事なのだ。そして、原発推進議員たちといっしょに、菅首相の追い出しに熱心だ。東電は潰して欲しい。東電の資産と社員の個人資産も含めてすべて売り払い、賠償をさせよう。国民の税金で尻ぬぐいをさせられたらたまらない。それでも先日話をした若者は、「でも原発がもっとも安いエネルギーなんでしょ」と平気な顔で言ったものだ。それがエリートと言われる大学の学生だった。
午後からの会議のために出かけたが、少し早めに目的のビルに着いた。そのビルでは昼休みコンサートが開かれていた。ヴァイオリンとピアノの合奏で、ハンガリアンダンスなど数曲が昼休みの40分間に演奏する。月に一度のランチタイムコンサートだった。ここのところクラシックについているらしい。午後の会議は重苦しい空気だったので、せめてこのコンサートで気晴らしができたのが、幸いだ。会議が終わってすぐさま東京をあとにした。
福島第一原発の1~3号機では、大量の高濃度汚染水が溜まり続けている。一方、行方不明の汚染水が推定1万トンにも及ぶという。いくら汚染水が行方不明になったか、政府も把握できていないらしい。1万トンの高濃度汚染水が行方不明ということは、もう地下に漏れてしみ出したとしか考えられない。これだけの汚染水が地下にしみ込んだとすると、地下水はもはや人間が住むこともできないほどの放射能を抱え込んでいることになる。しかも、炉心は溶けてしまい、メルトスルーが起こっている。広島原爆の1000発分以上の死の灰を持った核燃料が地下にどんどん沈んで行っていると考えてももう不思議ではない。専門家からは、それを防ぐために地下に巨大なダムを作るべきだという話も出ているが、いまからではその技術もなく、金もない。もはやチャイナシンドロームを手をこまねいて見ているしかない事態になっているようだ。日本はもうおしまいではないか。
そのような事態になっても、東電は知らぬ振りをして、株主総会対策などにうつつを抜かしている。この事態になっても東電は人の命より自分の会社が大事なのだ。そして、原発推進議員たちといっしょに、菅首相の追い出しに熱心だ。東電は潰して欲しい。東電の資産と社員の個人資産も含めてすべて売り払い、賠償をさせよう。国民の税金で尻ぬぐいをさせられたらたまらない。それでも先日話をした若者は、「でも原発がもっとも安いエネルギーなんでしょ」と平気な顔で言ったものだ。それがエリートと言われる大学の学生だった。