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ごまめの歯ぎしり・まぐろのおなら

サンナシ小屋&京都から世界の愛する人たちへ

三内丸山の縄文人

2010-12-31 | 日記風
青森は新幹線の開業で浮き立っていた。もっとも浮き立っていたのは地元のひとばかりで、観光客はあまり多いとも思えなかった。年末だからだろうか? 青森では、ねぶたとリンゴがどこでも集客の中心のようだ。ねぶたは時期が違う。ねぶたの里というところへ行けば、本来6日間のねぶたが終われば壊されるはずのねぶたが陳列されているということだったが、ねぶたはやはり展示しているものを見るものではなく、ハネトたちを従えて練り歩くものを見た方が良いと思い、行かなかった。どうせ陳列しているねぶたのミニチュアは至る処で見ることができた。



 行きたかったのは三内丸山遺跡だった。これも雪がないときの方が良いのだが、しかたない。雪に埋もれた三内丸山遺跡を見学してきた。縄文時代に1500年の間、日本最大の集落を形成してきた青森の遺跡は思った通りの広さだった。もっともまだまだ発掘が終わっていないらしいから、もっと遺跡は広い可能性もあるらしい。10ヘクタールほどの空間が発掘されて、一部は住居などが復元されていた。三内丸山の縄文集落があったのは、4000年から5500年前の時代だという。それだけ古い時代にかなり素晴らしい土器が作られ、多くの装飾品が使われていたらしい。遺跡の一部に盛り土があり、そこに層をなして多くの土器の破片や勾玉などの装飾品が出土するという。案内してくれたボランティアのおばさんは、盛り土はゴミ捨て場のようなものだと言ったけど、ゴミ捨て場なら勾玉や黒曜石の装飾品や石器が出てくるのはおかしくないだろうか。そのようなものは現代人ならいざ知らず、当時の人にとってゴミ捨て場に捨てるようなものではないだろう。そう思ってボランティアガイドに聞いたが、明確な返事はもらえなかった。盛り土はいったいなんだったのだろうか。



 多くの装飾品はお墓の中から出土する。この遺跡には500人の大人の墓があり、800人の子どもの墓がある。子どもの遺体は瓶に入れられ、埋葬されているが、大人は道路の両側に並べて埋葬されている。もちろん土葬だ。これだけの人数がきれいに並べられ埋葬されているというのはかなり大きな集落であり、1500年もの間続いた巨大な村落でもあったのだろう。小さな国家とも言えるものかもしれない。縄文時代には人の間に身分の違いのようなものはなかったと考えられているが、住居には大きいものと小さなものがあり、墓にもいくつか数少ないがストーンサークルを持った大きな墓が見つかっている。解説員の説明では、縄文時代でも酋長や指導者はいたであろうという。それはきっとその通りだと思う。まったく労働の分担がなかったとは思えない。宗教的な呪術師もいたであろうから、お墓に大小があるのは不思議ではない。それにしても500人に上る大人の墓がほとんど同じような大きさで並んでいるのは、縄文人が思った以上に公平な社会を作っていたと思われる。そして1500年もの間、平和な世界を続けたのだろう。その時代から考えて、私たちはどれだけ進化できたのだろうか。

 建物の中には、巨大な建屋がある。復元された建屋の中にはいると、まるで小さな野球場ほどの広さがある。支えている栗の木は一人で抱えきれない巨大な木が使われている。現在では日本中探しても見つからないほどの巨大は栗の木を使っている。石器だけの道具でこれだけの巨木を伐り、建屋を建てた当時の縄文人たちに畏敬の念を覚えないわけにはいかない。

 この三内丸山の集落を作った縄文人は残念ながら今のわれわれ日本人とは同じ人種ではない。おそらく縄文人は弥生時代を作った日本人の祖先によって滅ぼされた人種だろう。東北では蝦夷または夷(えみし)とよばれる人たちがこのあと現れるが、アイヌ人の祖先かもしれない。やがてこの人々もヤマトとよばれる半島からやってきた人種の末裔の日本人によって東北から追い出され消えていく。

 降り続く雪の中、広大な三内丸山遺跡を見ながら、悠久の昔を思い、縄文人の生活を思い、感じるものがあった。長い間の懸案であった雪の青森に来た最大の目的が今回果たされた。こんど青森へ行くときは、下北半島の恐山などと周辺の温泉に行きたい。でも青森県の東は、六ヶ所村を始めとして建設中の大間原発など、恐ろしい施設がいっぱいできている。青森は日本でももっとも危険な地帯の一つだ。あまり長期に滞在したくはないところでもある。

 帰り着いた京都の大晦日は、雪に埋もれている。青森空港は欠航でほとんど閉鎖状態のようだ。良いときに帰ってきた。我が家の正月は終わったようなものだ。紅白歌合戦も訳の分からない若者の歌で占領されている。彼らはなぜ一人で歌えないのだろうか。集団でないと歌えないとは情けない。見たくもない。北島三郎の風雪流れ旅だけは聞いてみたいが。

羽田国際空港を利用して

2010-11-28 | 日記風
タイからの帰りに、初めて羽田国際空港を利用した。羽田経由で大阪空港まで乗り継ぐ便を利用したので、羽田の新しい国際空港ビルで乗り換えた。Transitの窓口は狭く、Immigrationには長蛇の列だったが、まあそれでもそれほど長く待たされることもなく通れた。バンコクを出るときには3-40分も長い列に並ばされ待たされたから、それに比べると楽ではあった。でも国内のハブ空港を目指すなら、もうすこしTransit客のために配慮した造りにして欲しかったなあ。

 うれしかったこともある。新しい国際空港ビルは電車では一駅隣の駅になる。国際便を下りて国内便に乗り換えるためには、電車に乗って一駅行かねばならないのだなあと思っていたら、国内便に乗り換える客のための無料の送迎バスが出ていた。10分くらいかかるが、その間、スムーズに移動ができた。客があるたびにバスを不定期に動かしてくれるようで、今回はわずか乗客は3人だけだったが、乗るとすぐに出発した。これは本当に便利だ。

 Transitだったので新しい建物をあちこち見学する余裕はなかったが、成田まで出かける必要がなくなったのは本当に助かる。農民たちの血と汗の努力を暴力で奪い取って作った成田空港が欠陥空港だったことは初めから分かっていたはずだ。それを国策と称して無理矢理作ったあの成田空港はいったいなんだったのか。多くの人の命と体と自由を奪い、暴力で守る要塞のような成田空港こそ、無駄の最大のシンボルではなかったか。

 もっとも羽田空港だって、沖に新しい滑走路を造るために、羽田沖に広がる東京湾の残り少ない干潟を埋め立ててしまうことになった。そこで生きていた海の生き物たちは、子孫を残すこともできず死んでいった。それだけではない。海の肺と言われる干潟を潰すことによって、東京湾をさらに一歩、死の海に近づけることになったのだろう。飛行機に乗って利用している身ではあるが、成田空港も羽田空港も利用することによって多くの犠牲が出る。そのことを感じながら、飛行機を利用しなければいけない。ご飯を食べるたびに生き物の命をいただくことに感謝するように。

秋の一日に

2010-11-19 | 日記風
おだやかな秋の一日。快晴の青空に紅葉が映える。昼休みに近くの稲荷神社に出
かけた。小さな丘の麓にある神社で、普段はあまり人も訪れない。でもこの本殿
の横のモミジが秋にはすごくきれいに紅葉するのを、去年確かめておいたので、
今年もそろそろと思って行った。

 しかし、京のあちこちの寺では紅葉が見頃だと言われているが、この稲荷神社
のモミジはまだまだ青々としている。葉先にわずかな彩りが見られるものの、紅
葉の見頃はまだ先のようだった。一本だけ真っ赤になったモミジが本殿の裏に見
えたが、小さな若い木なので絢爛豪華な紅葉という雰囲気ではない。ちょっと残
念だったが、この神社の紅葉が終わったわけではないので、来週あたりを楽しみ
にしたい。

 それでも人のいない境内を青空を眺め、木々の間を歩いていると、心が洗われ
る。ここ一週間ほど仕事のことで胃に穴の空くほどのストレスがあったのが、少
しばかり和らぐことができた。帰ればまたストレスが続くが。すまじきものは宮
仕えとはよく言ったもの。でも食べるためには仕方ないのだろうけど。

 今年も忘年会の声が聞こえてきた。そんな季節になったのだろう。来週は、寒
さもストレスもしばらく忘れるために、タイのプーケットへ出かける。南国の花
を眺め、海風に吹かれてくれば、きっと心のしこりは良くなると願って。

北海道の黄葉と京都の紅葉

2010-11-10 | 日記風
しばらく北海道に出かけてきた。寒さに凍えるかもしれないと思って覚悟をしていったが、驚くことに非常に温かかった。もっともその期間は日本中で温かかったようなので、驚くことでもないのだったが。それでも秋の一日、ひなたぼっこができそうな小春日和の中、仕事で行ったのだけれど、久しぶりの北海道は広々として人が少なく、温かかったこともあって気持ちがのんびりする。

 仕事が結構詰まっており、自由な時間はほとんどなかったので、サンナシ小屋に行く暇もなかった。紅葉もほぼ終わりになっており、広葉樹の多くがもう葉を落としてしまっていた。しかし、落葉松は今を盛りの黄葉の時期で、人工林全体が燃えるような黄色に包まれていた。今年は夏の猛暑から紅葉がダメなのではという予想とちがって、急に冷え込んだのが幸いしたのか、全国的に紅葉が美しいらしい。北海道の紅葉の盛りは見ることができなかったが、落葉松の黄葉のすばらしさは、今年の紅葉がずいぶんと美しかっただろうと十分想像させてくれた。もう少し早い時期だったら、盛りの紅葉が楽しめたのだが。

 これから始まりつつある京都の紅葉が例年になく美しくなってくれる予感もある。楽しみたい。いくつかの寺では、もう夜のライトアップが始まっている。紅葉はまだこれからだ。

時代祭と将軍の城

2010-10-22 | 日記風
 今日は京都の時代祭の日だった。2年前の時代祭を見て、がっかりしたことを思い出す。今日は時代祭を見るつもりはなかったが、オーストラリアから友人夫妻が訪ねてきてくれたので、いっしょに二条城を見物に行った。京都に来てから二年が過ぎたが、二条城にはいるのは初めてだ。入り口で入ろうとしたとき、聞き覚えのある笛の音が聞こえてきた。ピーヒャラピッピッピ、 ピーヒャラピッピッピと陽気な音を繰り返す。遠くの道から聞こえてくる。どうやら明治維新の官軍の格好をした時代祭の行列が姿を現したようだ。友人は興味深そうに遠くを覗き、馬上の白い長髪のカツラをかぶった官軍の司令官をカメラに納めようと苦心している。あの笛の音は、勝てば官軍と言われた薩長の兵隊が、朝敵となった徳川幕府軍と戦うために行進する行進曲だ。

 昨今の坂本龍馬の流行でおなじみになった官軍の笛と行列を横目に見ながら、朝敵となった徳川将軍の京都の住まいの二条城に入る。なんとなくこの偶然が面白いと思った。

 二条城は本丸の天守閣は、江戸時代に落雷にあって焼失したという。それを建て直す資金もなかったのだろうか。凋落する徳川家を象徴するようで面白い。もっとも本丸の天守閣は戦争用だったのだろうから、もはや無くても戦争もあるまいと思ったのかもしれない。二の丸は立派な御殿だ。江戸城から京都に上洛した将軍が、表敬訪問してくる諸大名に謁見する広間、大名たちが謁見を待たされる広間、天皇の勅使と接見する座敷など、全体で800畳あるという。その広間のすべてが狩野一派の見事なふすま絵で飾られ、欄間には厚さ30cmにもなる板を彫刻して飾られている。どれも国宝級の建物と絵だ。

 世界文化遺産は京都には多い。金閣寺、銀閣寺、二条城、京都御所、清水寺などなど五指に余る世界遺産がある。御所の中は見たこと無いので分からないが、二条城の絵や彫刻、建物はさすがに立派なものだった。これぞ日本庭園と言える広い庭を眺めていたら、行列を作って歩いている外国人観光客にガイドが日本庭園の説明をしていた。日本庭園の岩や木や池などは、かならず左右対称にならないように作っているのだという。なるほどなあ。そう言われてみれば、日本庭園の特徴がよく分かるような気がする。西洋の庭園と違うのはどこなのか、以前からよく分からなかったことが、すっと腑に落ちた。

 疲れたので茶室で抹茶を一服いただき、庭の泉水と鹿威しを眺める。ゆっくりとしたいところだが、友人がこれから新幹線で名古屋経由で高山へ行くというので、のんびりもしていられない。お抹茶もそこそこに二条城を出て帰る。時代祭に向かう人たちの群れを避けながら、あれからもう二年も経ったのだなあと感慨にふけった今日一日だった。

秋祭りと亡くなった人たち

2010-10-13 | 日記風
今日は松尾芭蕉忌。そして忘れられない浅沼稲二郎さんの亡くなった日だ。それから、私の二度目の父親が死んだ日。10月12日は、いろいろと忘れられない日なのだ。親父は、病床にあって二年目の秋を迎えていた。まもなく秋祭りだな、と楽しみにしていた。私の家は八幡宮の参詣路に面していたので、病気の父も窓からお祭りを見ることができたのだ。そして明日から秋の大祭が始まるという日の朝、息を引き取った。

 私がまだ子どもだった頃だった。そして、ヌマさんこと浅沼稲二郎社会党書記長が右翼の愛国党の青年に演説会場で刺されて亡くなった。ちょうど私はテレビで立会演説会の様子を実況中継で見ていた。演説を始めてすぐに、左の舞台脇からあがってきた若い男がヌマさんの体にぶつかっていった。北海道の炭坑で鍛えたあの太いヌマさんの体がぐらっと揺れて、倒れ込んでいった。すべては一瞬のことだった。その出来事がようやく育ち始めた戦後の民主主義の挫折を意味するものになるとは、その時は分からなかった。しかし、聡明だった私の少し上の友人は、そのことを敏感に感じ取った。その一週間後、彼はこの世をはかなんで、自ら毒を飲んだ。若すぎる人の死だった。

 あの年は、そういえば身近な人の死も複数あった。まさに激動の時代だったのだろう。200万人が参加した戦後の日本でもっとも大きかったゼネストが行われ、日本中の鉄道が止まり、商店も店を閉めた。それだけの民衆の抗議にもかかわらず、日米安保条約は自然承認された。あの時以来、日本はアメリカに従属してきた。その時の首相の孫があの元首相の安倍晋三。アメリカさまさまの日本人だ。あいかわらずヌマさんを殺した右翼青年と同じような言説を垂れ流している。

 明日から故郷では祭りが始まるのだろうか。故郷を出てから故郷の祭りを見たことがない。親父の顔はもうすっかり忘れたが、祭りの景色は今でも目に浮かぶ。きっと現物を見たら幻滅するかもしれない。変わっていないはずはないだろう。こんなに世の中が変わったのに。祭りは続いているのだろうか。故郷にも祭りを見に、帰ってみたくなった。

チンパンジーの戦争

2010-09-20 | 日記風
国際霊長類学会という類人猿などを研究する学者の集まりで、市民公開講座が京都大学で開かれた。講座のタイトルは「暴力の起源とその解決法」という。面白そうなので聞きに行った。一般市民が対象なので、さまざまな人が来ている。そしてさすが京都だけあって、着物姿の女性が目立つ。外国人も多い。なぜかというと、講師はハーバード大学のリチャード・ランガム教授と京都大学の市川光雄名誉教授、同志社大学の小原克博教授の3人で、メインはランガム教授の「チンパンジーと人類の戦争の起源」という非常に興味深い話だったからである。

 ランガム教授はチンパンジーの研究を長年続けている生態学者で、彼の講演は興味深い新発見が紹介されていた。チンパンジーでは、集団で赤ちゃんチンパンジーを襲って食べてしまうという行動が十数年前に発見されて、話題になった。チンパンジーは雑食なのだが、生きた動物の肉も食べる。その対象に、同じチンパンジーの赤ん坊も入ると言うことが衝撃を伴って受け入れられたのだ。しかし、あくまでそれは何か異常な興奮があったときにたまたま近くの赤ん坊サルが攻撃に対象になってしまったいわば過誤によるものではないかと考えられた。ところが、同じような例がその後も見つかったことから、かならずしも例外的なことではないかもしれないと思われるようになった。

 最近の研究では、チンパンジーの群れの間では、ときどき攻撃が起こり、その結果死亡するサルが出ていることが明らかになった。チンパンジーの群れ同士が戦争をするというきわめて人間的な行為が観察されるようになったらしい。戦争は人間だけのものだと考えていたが、人類の進化的兄弟と思われる類人猿でも戦争に類似したことが起こっているというのは、衝撃的な話であった。そこから、彼の話は人類の戦争の起源に結びつく。その行程は、(1)群れの離合集散が続き、(2)群れ間の数の不平等が生じ、(3)戦闘による結果、大きい群れが小さな群れを吸収してさらに大きくなる、(4)それがさらに群れ間の確執を大きくして、戦争に発展するというシナリオが、初期人類の群れ間でも起こったのだろうという。その上で、ランガム教授は、戦争を回避する努力を人間の義務として紹介する。

 一方、市川名誉教授は、南米のインディオやアフリカのピグミーなど原始的な生活をおくる人々の生活を追いかけてきた文化人類学者であるが、彼の講演は、このような民族の生活が基本的には戦闘や戦争を避けるような共存、共生の生活様式を持っているかを紹介した。所用のために、小原教授の話は聞けなかったが、神学者の彼の話は宗教と暴力の話だったようだ。

 途中で出てしまったが、この講演会はなかなか面白かった。ランガム教授の話では、暴力の内容が戦争とその解決法というくくりで話されたが、市川さんの話では個人的な戦闘が中心で、群れの中の暴力を避ける仕組みを人間の群れが作りだしていくありさまが中心であった。部族間の戦闘=戦争もその延長上で話されたように思う。面白く感じたのは、ランダム教授が基本的に個体間や群れ間の関係を闘いという目を通して考えているのに対して、市川さんの話は、共存と共生を中心に考えているというところだった。アングロサクソンの白人の考え方が競争や闘争を諸関係の動因としてとらえるのに対して、モンゴロイドの日本人の考え方は、自然との共生や個体間・群れ間の共存を中心に考えるという違いがきわめて鮮明だったことである。もちろん、日本人研究者も西洋科学の影響を受けて競争や戦闘を個体間の関係を解明する中心に置く人が増えてきている。しかし、やはり私たち日本人には、競争・闘争ではなく、共存こそが個体間、群れ間の関係性を説明するものであるはずだ、あるべきだ、と思う信条があるように思う。

 宗教と暴力や戦争との関係は、またきわめて面白く興味深いものだが、類人猿から始まる暴力や戦争と、類人猿には見られないと思われる宗教との関係については、やはり違った面から考える必要があるだろう。霊長類学会が主催する講演会で宗教と暴力の関係がどのように議論されるのか、関心はあったが、俗世間の関心事に負けて最後まで聞けなかったのは、ちょっと残念だった。

 北海道の地の果てに近いところや、関東でも田舎に住んでいると、このような知的な刺激を受ける機会は少ないが、京都の町中に住んでいると、そのような機会は溢れるほど多い。その結果、大事に思わずに、またの機会に等と思ってしまう。でも関心のあるこのような催しをすべて参加していたら、私の日常は成り立たない。山へ行く機会も持てなくなってしまう。悩ましい。贅沢な悩みかもしれないが。

暑さの夏を各地で経験

2010-08-31 | 日記風
8月も終わるというのに、猛暑日は治まりそうもない。仕事も手に付かないし、頭はぼーっとしている。スーパーマーケットやデパートや図書館に行けば、エアコンがきいていて涼しいのだが、それも10分もいると体が変調を来す。やはり体には人工的な冷気は良くない。汗にまみれて夏は仕事もしないで呆けているのがもっとも正しい過ごし方なのかもしれない。それでも仕事は次々とやってくる。原稿の締め切りは、なにもしなくても近づいてくる。

 先週末には埼玉県川越市に帰った。京都の部屋よりは少し周りが広々としているせいか、多少風が涼しいような気がしたが、それでも埼玉は名にし負う猛暑地帯。川越からさらに東に向かった。着いたところは茨城県大洗。夕方になると涼しい風が吹いてくる。夜は窓を開けていたら明け方は寒くなるほどだった。同じ関東と言っても埼玉と茨城はずいぶん違うものだ。

 朝早く起きて大洗サンビーチの砂浜を散歩した。ここには広い砂浜ができており、海まで歩いて到達するのがなかなかだ。朝の6時頃だったが、海岸には早くも人が出ていて、子供連れの家族が泳いでいる。波打ち際を歩いていると若い二人連れの女性に声をかけられた。写真を撮って欲しいという。少し話を聞いたら、群馬県から夜中に車で走って明け方ここに着いたという。高校生なのかそれともOLなのか、私服なので分からないが、けばい化粧はしていないので、おかしな若者ではなさそうだ。町に遊びに行くよりも、海で波や砂と遊ぶ若者の方が、やはりずっとすてきだ。

 しかし、朝食を済ませる頃になると太陽は容赦なく照りつけ、暑さはやはり尋常ではない。それでも日陰に入れば京都のような蒸した暑さはなく、風が心地よい。海辺に行き、海水につかると、水の冷たさが心地よい。水温は22-3度くらいだ。汗をかいた体にはこの水温は身が引き締まるように冷たく感じる。泳ぐ準備をしてこなかったので、足を海水に入れる程度だったが、ちょうど足湯で暖まるのと逆に、足を冷やして気持ちよい。頭も冷やしたかったが。

 大洗から高速道路を利用して川越に帰った。ETC装置などを持っていないので、日曜日だったが、正規料金を払って走った。合計2900円。高速1000円が浸透してきたので、ほとんどの車がETC装置をつけているようだ。一般のゲートに入る車は1割程度か。でも、ETC装置をつけようとは思わない。たまの日曜日に車で出かけるのはしばらく無さそうだから、ETC装置を買う金を取り戻すのはかなり先になりそうだ。それにしても民主党政権の高速料金への対応は分かりにくい。マニフェストどおりの無料化が支持されていないなら、高速料金をどうするのか、道路行政全体の見直しを含めて、考え直す努力が見えてこない。菅首相は官僚のいいなりになりそうだから、結局は自民党と同じ政策をやることになるのだろうか。形式的な政治資金規正法違反を理由に、もっとも官僚政治を打破してくれそうな小沢一郎こそ、民主党にとって必要だと思う。でも民主党を支持しているわけではないので、菅首相で自民党のまねをして沈んでいく民主党をみるのも、別にかまわない。もっと本当に国民の生活を大事にする政党が出て欲しい。このままでは暑さはますます蒸し暑くなるばかりだ。

食べるものがない

2010-08-24 | 日記風
暑くて食欲もなくなっているのに、体重は減っていかない。馬肥ゆる秋になったらどうなるのだろうか。心配だ。なにはともあれこの暑さだけはどうにかして欲しい。最近、暑さの中で、石川五右衛門が釜煎りにされたときの熱さや、織田信長に焼き討ちされた比叡山の僧侶や、織田信忠に焼き討ちされた甲州恵林寺の快川和尚の熱さをしきりに思い出す。そう、最近の暑さは、熱さと言った方がいいようだ。

 でもやはり食べることは至上の喜びでもある。生きるために食うか、食うために生きるかといえば、何とも言えないが、働くために食うか、食うために働くかといわれれば、即座に食うために働くと言える。でも私は最近食べるものがあまりなくなってきた。

 まず、私は肉を食べない。菜食主義に近いが、本当の菜食主義とは違って、魚や貝は食べる。むしろ大好物だ。何故肉を食べないかと聞かれたら、仏教徒だからと答えることにしている。この回答は外国で言えば簡単に納得してくれる。モスレムが豚を食べず、ヒンズーが牛を食べないように、仏教徒にとっては獣(四つ足)を食べることは戒律を犯すことになるからだ。でも日本では誰も納得してくれない。私がそんなに信仰が厚いとはとても思えないからだろう。実は、肉を食べないのは、単に肉が嫌いだからにすぎない。

 ではなぜ肉が嫌いになったのか。それはずいぶん昔のこと。給食には滅多に肉は出てこなかった。給食に出る肉と言えば、赤いウサギの肉か大きいが固くて不味い鯨の肉。牛肉や豚肉は一年に一回出てくるかどうかだ。何かお祝い事でもない限り、そのような肉が給食に出てくることはなかった。不味い鯨肉を無理矢理食べさされたことは、アメリカから輸入した豚の餌だった脱脂粉乳のミルクと同じように、私にとってトラウマになっている。

 ある日、友達のうちに遊びに行った。友達の家はと殺業だった。その家でウサギを殺すところをつぶさにみてしまった。それから給食の肉は食べられなくなってしまった。家では肉を食べることはなかった。なぜなら、肉を買うお金はなかったからだ。いっしょに暮らしていた祖父も祖母も肉を食べることは無かった。祖母が亡くなってからは、私たち兄弟が交代で家の炊事を行ったが、肉を食べるという発想はもとから無かった。一日100円で家族5人の3食を用意しなければならなかったからだ。

 肉を食べないから牛乳を飲めと言われていた。しかし、給食の不味いミルクを鼻をつまんで飲んでいた私には、牛乳がおいしいとはとても思えなかった。かくて、乳製品も食べ物のリストから外された。いまでもヨーグルトは食べられない。一度、ホテルの朝食にヨーグルトが出されていたが、トッピングにだまされて一口入れて、吐き出した。イタリアに行ったときには、モッツアレーラチーズがお皿に盛って出された。私は卵料理だとばかり思い込んでその丸くて白いものに噛みついて、思わず吐き出した。ことほどさように肉と乳製品は好きになれない。だからヨーロッパに出かけると食べるものがない。おいしいものはパンだけだ。ヨーロッパやアメリカに行くのはだから気が進まない。

 お酒も私は苦手の一つである。アルコールにはからっきし弱い。どうやら遺伝らしい。親父も酒粕の匂いで顔が赤くなったと言うほどの下戸だったらしい。酒を飲めば心臓が苦しくなるだけで楽しいことは何もない。だいたい酒の席でくだを巻く輩が大嫌いだ。宴会に行くと一刻も早く帰りたくなる。最近はわがままが言える年になったので、アルコールは一切お断りしている。もうかれこれ20年くらい、アルコールは口にしていない。

 その他に私は自分に課したタブーがある。高校生の頃、岡山県を中心にして森永乳業の赤ちゃん用ミルクにヒ素が混入し、多くの赤ん坊が死んだり重篤な症状を示したりした。森永ヒ素ミルク事件だ。この事件への対応を巡って、森永の責任逃れの姿勢に私の正義感が刺激を受けた。それ以来、森永製品はいっさい口にしない。

 また、アメリカのベトナム侵略以来、ハイチやアフガンやイラクなどへの侵略を続けるアメリカへの反感から、アメリカ帝国主義の象徴としてのコカコーラは口にしなくなった。ジュース類の自動販売機でも、コカコーラ社の販売機からは絶対買わない。さらに、イスラエルのパレスチナ侵略やパレスチナの人たちへの容赦ない殺戮を財政面から支えているアメリカ企業のマクドナルド、スターバックスなどの店舗には絶対近寄らないし、食べない。

 さらに、あやしい食品添加物はできるだけ避けたい。ハムを買うにも、発色剤の亜硝酸ナトリウムを使っていないハムを探す。置いていないスーパーが多いのだが、大きいスーパーなら最近は置くようになってきた。その他の食品も、なるべく添加物の少ないものを買うようにしている。

 最近では、好き嫌いの上に脱肉食こそ地球環境にやさしい食事だという思いも強くなって、さらに菜食主義を強めつつある。以上の好き嫌いやタブーを積算したら、私はほとんど食べるものがないということに思い至った。どうやら自分で食料を探してくるか栽培するしかないのかもしれない。時間が許せばそうしたいところだが。いや、やがてはみんながそうせざるをえない日が来るだろう。あと20年もしたら魚はほとんどの種類で食べられなくなると言われている。人間が食べ尽くしたんだぞー、と言われて。マグロやカツオがもうすでにそうなっている。サメもヒレを取るだけのために殺され続けている。少しでも早くそのような贅沢をやめる必要があるだろう。そうそう、私はフカヒレのスープを食べることもやめている。  

秋の風を感じる

2010-08-19 | 日記風
相変わらず暑さは凶暴だ。京都はとくに暑い。もっとも埼玉県も同じように暑い。どうしてこんなに暑いところばかりに住むことになったのだろうか。しかも京都は冬が寒い。やはり住みやすいのは釧路だろうか。暑くても25℃程度だから。冬は冷たいが、寒くはない。

 この夏もエアコンを使わずに過ごしてきた。仕事場は午前中は外よりも部屋の中の方が涼しい。夜の冷気が多少とも残っているからだろう。昼近くになると部屋の中も蒸し風呂のようになるから、少しでも空気が動くことを期待して窓やドアを全開にする。最近の建物はエアコン仕様になっているので、風を通しやすく設計されていない。だから夏になる前からみんながエアコンを使用する。それでさらにヒートアイランド現象が加速する。結局のところ、昔のような風を取り入れる住まいを取り戻さない限り、ますます都会は暑くなり、ますます人は部屋を閉め切ってエアコンに頼る生活になる。

 昼頃になると気温は最高に達し、部屋で扇風機にあたっていても、汗が体中を流れ落ちる。仕事に熱中できているときはそれでもあまり暑いとは感じないこともあるのだが、たいていは暑さで仕事に熱中できない。頭はぼーっとしてしまう。今年は久しぶりに(実に何十年ぶりに?)あせもに悩まされている。子供の頃にあせもが体中にできて、天花粉を塗りたくったことを覚えているが、それ以来なのかもしれない。体のあちこちにあせもができ、かゆい。

 それでも一昨日からあきらかに風が変わったと感じた。午後の3時頃になると微風が吹いてくるのだが、その風がそれまでと違う。気温は変わらず、いや、むしろ高く猛暑日が続いているのだが、たしかに夕方吹いてくる風はそれまでと何か違うことに気がついた。秋風の匂いだ。おそらくエアコン生活をしている人にはこの微妙な違いはまったく気がつかないだろう。気温がとくに低くなったわけではないが、風の肌触りと匂いにかすかな秋の気配を感じることができた。この感覚は心を癒す。どんなに暑くても、秋が来ているという気配を感じること。そこに季節の移ろいと幸せを感じることができる。

秋きぬと 目にはさやかに見えねども 風の音にぞ おどろかれぬる
                             藤原 敏行