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サンナシ小屋&京都から世界の愛する人たちへ

蓬莱山から比良岳へ

2013-07-09 | 花と自然
体温を超えるような気温が、京都にやってきた。今年に限ったわけではないが、梅雨明けの頃のこの暑さは、体が慣れていないせいか、もっとも辛く感じる。ここのところ、週末は京都市内のいろんなイベントや講演会などでつぶれてしまい、そのせいか体がなまり、体重は高止まりのままだ。先週末は、本当に久しぶりに山歩きをした。しかし、体を動かしていないせいもあり、寄る年波もあって、とても長い間歩く自信がなくなっている。そこで、一日はケーブルカーを利用した山歩きにして、もう一日は、温泉で体を休めることにした。

 ケーブルカーによる山歩きは、比良山系のびわ湖バレイからだ。休日だけ動くケーブル駅までの始発バスに乗って、びわ湖バレイに到着。ケーブルカーは、20分おきに出発している。120人乗りの大型ゴンドラだ。琵琶湖の風景を見ているうちにすぐ頂上駅に到着した。わずか5分。でもここは打見山の頂上1050mだから、京都の気温が35度のときなのに、ここは20度。霧が掛かり、高山の様相もする。でもそれも早朝だけだった。霧が晴れてくると、打見山から比良山系第二の高峰である蓬莱山まで、レジャーランドの芝生が続く。冬はスキー場になるところだ。きっと開発される前は、湿地帯などもある高山の草原が続いていたのだろう。腹立たしい光景だ。ゲレンデスキーが自然を破壊する好例がここにある。

 ドッグランまで作られているレジャーランドに目を背け、ジャイアントと称する標識のあるスキーのゲレンデを下りる。かなりの急傾斜だ。下りきる前に右にキャンプサイトがあり、そこから右手の登山道に入る。登り始めるとすぐに木戸峠だ。そこから比良山系縦走路が始まる。足慣らしのつもりで来たので、帰りもケーブルカーに乗って下りるつもりだ。日が昇るにつれて気温が上昇してきた。それでも風は高原の風で心地よい。比良岳までの道は尾根伝いなので、比較的平坦だ。写真を撮りながらのんびり歩くことにした。帰りもケーブルの駅まで帰ってくれば、あとは座っているだけで家に帰りつく。そう思うとあまりにも怠惰な山歩きだなあと思う。それでも、山の空気はすばらしい。しばらく山歩きをしなかったので(大文字山とか比叡山程度は歩いていたのだが)、山の空気を吸うことも、うれしい。いつかなどは、うれしくて歩きながら涙を流しながら歩いたこともあった。そういえば、小学校の低学年の頃、冬の終わり頃、近くの山の麓を歩きながら、やはり涙が出て止まらなかったことがあった。哀しいのでは無く、うれしいのだ。まだ寒いときだったので、目に入ったのはヨモギの芽生えに、瑠璃色のヨモギハムシを見つけただけだった。だが、それが子供心に涙を流すほどうれしかったのだ。こんな気持ちは、きっと他の誰も分からないのではないかと、子供心に思った。

 比良岳までは40分ほどの尾根歩きだった。しかし、しばらくぶりの山歩きだったので、体がなまってしまっていた。わずかの登りにも足が悲鳴を上げた。いかんなあ。こんなことでは。比良岳から帰って、そのままケーブルに乗るのはもったいない。ちょっと味気ないが、ついでに蓬莱山の頂上まで歩く。そのあたりにたくさんいる人たちは、ほとんどがリフトに乗って蓬莱山まで行く。その横を、スキー場のゲレンデの中の草地を、登っていくのは、うれしくない。しかし、リフトに乗ったら何しにきたのか分からない。黙々と汗を流しながら歩いた。蓬莱山頂上に来たら、リフトと反対側の山麓をのぞき込む。レジャーランドと逆の方向を向いて、後ろを無視すれば、比良山系第2の高峰の雰囲気が少しだけ味わえる。展望はすばらしい。時間があるのでゆっくりと腰を下ろし、周りの展望を見る。残念ながら白山の雪景色は霞んで見えなかった。すっきりと晴れたら、若狭湾も見えるらしい。

 傍らに若いアベックがやってきたのを潮に、ケーブルまで帰り、帰途につく。久しぶりの山歩きにしては、良い景色を眺められ、良かった。また、ここから比良山系の縦走をしたいものだ。

 もう一日の休日は、大阪市内にある温泉施設で半日のんびりと静養した。ここの岩盤浴で寝っ転がっていると、体中の汗といっしょに疲れが飛んでいく。何も考える必要の無いときには、ここの温泉施設で夜までごろごろしているのが、もっとも心身の癒やしになる。

「命より金」? 高浜原発動かすな

2013-06-28 | 政治
関西電力は、高浜原発にMOX燃料を運び込み、再稼働をできるだけ早く行うとしている。そして、高浜原発の地元、高浜町の野瀬豊町長は「町民の心情は生命の危険を感じるよりも、生活の糧を奪われる危機感にある」として、新規制基準に適合すれば「早期の再稼働は当然のこと」と話す。

 驚いた。この人たちは福島第一原発の事故から、まったく何も学んでいない。今、原発を地元に受け容れるために働いた人たちも、福島に再び原発を作らせないと言っている。あの事故で故郷を追い出され、流浪の難民となった人々が感じる当然のことだろう。しかし、彼らも昔、この高浜原発のある高浜町の町長と似たようなことを言っていたはすだ。原発を地元にもってくることによって、自分たちの生活は潤う。そのことだけを考えて、原発推進の旗を振っていたのだ。それがどうだ。いまは、故郷を追われ、あの人々が歓迎の旗を振った原発によって、死の恐怖を味合わされ、これからも放射線の恐怖から免れることはできない。

高浜町長は、この福島第一原発の事故をどう考えているのだろうか。福島と高浜は違う。高浜ではあんな事故は起きるはずがない。と考えているなら、本当に事故に何も学んでいない。日本海は津波が来ないから大丈夫だというのだろうか。それならなぜチェルノブイリは爆発したか。あれとは原発のタイプが違うと言うのだろうか。福島の原発推進派の人たちも、あの当時は福島の原発はチェルノブイリとは違うと思っていたのだろう。推進派はみんな自分のところの原発は事故を起こさないと思っているからこそ、「命の危険よりも生活の糧」という発言ができる。まったく福島に学んでいない。命よりも金。そんな言葉を吐ける町長など、政治家とは言えない。

 毎週金曜日の夜、関西電力京都支店の建物の前に立って原発反対の抗議行動を始めてから、早くも1年が過ぎた。短いような長いような、1年だった。その間、東京の官邸前集会にも2度ほど参加した。徐々に関電前の抗議行動に参加する人たちも減ってきているが、それでも「これだけは許せない」との信念で、金曜日の夜は、雨の日も風の日も立ち続けてきた。その間、民主党政権が大飯原発を再稼働させ、反省のない自民党政権が返り咲き、そしていよいよ今年の秋からは全国の原発が再稼働しそうになってきた。参議院選挙で自民党と公明党が過半数を占めると、安倍・アメリカ追従売国政権にとって、もう怖れるものはなにもない。原発を再稼働させ、ニホンの1%の金持ちに儲けさせ、そしてニホンの富をTPPでアメリカに売り渡し、アメリカと一緒に戦争をする。そして、ニホンはいつの間にかあちこちの原発で大小の事故を起こし、日本人の死亡率は急上昇し、いつかニホンには誰も住めなくなっていく。

 ここのところ、毎日株価の動向が気になっている。アベノミクスなどというまやかしは国民の税金を使って、垂れ流しの金融緩和をやり、作り上げた幻想でしかないが、それでも選挙民は「命より金」と安倍内閣支持をうたう。いずれ化けの皮ははがれるが、参議院選挙が終わったら、もう遅い。それまでに大幅に株価が落ち込むことを、ひたすら祈ることしか今の私にはできない。株よ落ちろ。もっともっと落ちて、アホどもの顔を青ざめさせろ。

 小銭を貯めた小市民が株を買って、アベノミクスに期待を寄せる。これほどアホなことはない。株によって多少儲けたところで、それは不労所得である。労働者の汗と血によって稼ぎ出された利益を、手も汚さずピンハネする投資家など、本当の資本家以外は結局のところ自分たちの労働が大きなところにピンハネされていることに気がつかない。わずかのギャンブルで儲けることに血眼で、自分が労働者階級であることを自覚していない。株をすべて売り払え。そして、真の労働によって自らの口に糊せよ。株価よ、下がれ。もっともっと下がれ。

鈴虫姫と松虫姫と宗教弾圧

2013-06-13 | 京に見る歴史
休日に近くの哲学の道を散歩した。桜の季節はとっくに過ぎて、早くも蛍が飛び交う季節となっている。哲学の道から東に登り、鹿ヶ谷を歩く。銀閣寺から法然院を通り、安楽寺の前に来て、足を止めた。いつも門を閉ざしている安楽寺が開門している。掲示を見ると、一年に数回しかない特別開放の日らしい。これはいいところにさしかかったと、さっそく拝観することとした。

 はじめてはいる安楽寺の境内は、静かで落ち着いて庭を見ることができる。落ち着いた書院のたたずまいは好ましく、庭の花たちも風情を誘う。それほど広くはない境内のもっとも奥には、鈴虫姫と松虫姫の菩提を弔う碑がある。昔この二人の名前は聞いたことがあるような気がしたが、どんな物語だったか、まったく思い出せない。そこで、安楽寺のお坊さんの話を聞いてみた。それは、ある意味でびっくりだった。

 この寺の名前は、住蓮山安楽寺という浄土教のお寺である。それは、寺の創建者の住連と安楽という二人の僧侶にちなむ。
今は昔、鎌倉幕府が設立され、武士が政権を取ったばかりの頃、幼い安徳天皇が平氏とともに壇ノ浦で海の藻屑と消えたとき、代わりの天皇に即位したのが、後鳥羽天皇であった。後鳥羽天皇は、鎌倉幕府に実験を握られたことを恨み、なんとか朝廷に実権を取り戻そうと強権政治を進めた。1198年に土御門に天皇の位を譲り、自身は上皇となり事実上の院政を取った。その頃、上皇の側女を勤めていた左大臣の娘に鈴虫姫と松虫姫という二人の世にも美しい姉妹の姫がいた。彼女たちの美しさに、他の側女たちからねたみを受け、さまざまな嫌がらせも受けていたらしい。いつの世も心小さきものの所業は同じなのだろう。二人の姫は、そんな世をのろい、時にちまたの噂高い浄土念仏教に心惹かれていた。ときどき、京の東山で行われていた念仏説法にこっそりと出かけていたという。
1206年、後鳥羽上皇が熊野神社に参宮のため、都を留守にしたとき、二人の姫は館を抜け出し、東山の庵で行われていた、住連房と安楽房という浄土教の僧侶らの念仏説法を聞きに出かけた。念仏浄土教は法然が教えを始めた他力本願を本旨とする教えで、それまでの腐敗した高僧たちの教えに真っ向から反逆し、念仏を唱えればどんな人も救われ、浄土に行けるという教えであり、とくに南無阿弥陀仏という六時礼賛を音楽的に唱える乞食坊主たちの辻説法がちまたの人々の注目を浴びていた。これに既存の比叡山や興福寺の僧侶たちが反発し、法然らの念仏教を取り締まるよう、朝廷にしばしば意見を上奏していた。
その夜、浄土教の説法を聞き、念仏を唱えていた二人の姫君は、やがてその嫌世の気持ちが救われるありがたさに涙を流し、説法の後、住連と安楽の二人のお坊さんに、出家したいと願いでた。しかし、上皇の許可もなく側女たちを出家させることはできないと断ったが、二人の姫君たちは、死をも覚悟の上で出家を願うと涙ながらにかき口説いたため、住連は鈴虫姫を安楽は松虫姫を剃髪し、出家をさせた。二人の姫君は、二人の僧侶を上皇の館によび、夜遅くまでその説教を聞き、ともに念仏を唱えた。夜も遅くなり、二人の僧侶は館に泊まっていった。
熊野神社から帰還した後鳥羽上皇はそれを聞いて激怒し、これを機に、浄土教への弾圧を決心する。法然らの唱えた専修念仏を禁じ、鈴虫と松虫の二人の出家を手伝った住連と安楽の二人を含む四人を死罪、法然を土佐へ、親鸞を越後へ追放、その他多くの門弟を流罪にした。住連は、故郷の近江の国馬淵で捕らえられその場で打ち首に、安楽は京都鴨川の河原で打ち首となる。二人とも念仏を高らかに唱えながら、首を打たれたが、落ちた首はそのまま念仏を唱えていたと言われている。いわゆる承元の法難と言われる事件である。法然は讃岐の国で念仏三昧の生活を送り、4年の後に許されて京に戻るが、2ヶ月後に死亡する。ときに法然、80歳。親鸞は京へ帰り師法然との再会を願うが、法然の死去でそれがかなわず、京に帰らず関東の苫屋で暮らし、専修念仏を伝える。のちの浄土真宗は、それ以後多くの信者を得るが、親鸞は最後まで寺を造らず、草庵で人々を救うために教えを広めた。
以上は、安楽寺のいわれを知って、その時代の仏教の宗教革命との関わりについて、勉強したことである。歴史は好きな分野だが、まともに勉強したことはなかったので、こんな歴史家なら誰でも知っていることにも新鮮な感動を得た。住連山安楽寺の二人の創建者たちと二人の姫君の悲劇も宗教革命の中の出来事と、はじめて知った。これで散歩していた鹿ヶ谷のお寺も見る目が変わってくる。京都は、その気になれば、本当に奥深い。

淡路の海へ

2013-06-06 | 花と自然
しばらく山を歩いていない。その代わり海へ出かけた。明石大橋を渡って、淡路島の海を見てきた。淡路島で大きな地震があった直後のことである。あの地震があって、そういえば昔、阪神淡路大震災があったことを思い出した。あのとき、私は北海道にいたので、阪神淡路大震災を身を以て経験していない。そこであまり地震のことを考えていなかった。あのときの北海道は、釧路沖地震、東方沖地震、日本海地震と続けさまに震度5以上の大地震を経験していたので、その直後に起こった阪神淡路大震災も、一連の地震の連鎖の一つとしか思わなかったから、被害の大きさにもかかわらず、あまり自分の身に引きつけて考えられなかったのだろう。なにしろ、あの年は、家が壊れるかと思う地震が一年のうちに3度もおこったのだから。

 淡路島へは、車で渡った。ちょうど3連休だったので、阪神地方の高速道路は渋滞が続き、淡路島へ渡る明石大橋に掛かったのは、もう昼をかなり回っていた。渋滞無くスムーズに走れば、京都から目的地の南あわじ市までは、2時間強で到着できるはずだが、休日に動くしか無い私の場合は、渋滞を覚悟で片道3時間半は覚悟しなければいけない。日帰りだったので、往復だけでも7時間かかる。現地でゆっくりできるのはほんの1~2時間しか無い。これは車で行っても、バスで行っても同じ事だ。現地での動きを考えると、来るまで行く方が良いことになる。

 淡路島は、今年の初めにも行った。もっともこれは仕事だったが。仕事にしろ遊びにしろ、淡路島へ渡ったのは、今年が実に初めてだった。瀬戸内海のもっとも大きい島なのに、来たことが無いというのも不思議な感じがする。淡路島は人の動きのメインルートから外れていたのだ。今でも、明石―徳島の架橋がなければ、淡路島へ来ようとは思わないかもしれない。それほど、淡路島の存在感は私にとって薄かった。しかし、海を見ようと思ったとき、京都から行ける海として思いつくのは、京都府の日本海側の舞や天橋立付近か、和歌山県の白浜くらいだ。この両方とも何度か出かけているので、どこか違う海へ行きたいと思ったときに、ようやく淡路島を思いついたと言うわけだ。

 京都から行く海としては、もっとも近いのが大阪湾か神戸の海だが、どちらもコンクリートで固められた海しかない。そんな海には行きたくもない。釣りを楽しむならそんなコンクリートがあっても、気にならないかもしれないが、釣りを楽しむというのは、私の好まざるところだ。そうすると、近畿地方でもっとも近い海は、やはり淡路島と言うことになる。やっと気がついた。

 しかし、行ってみて、淡路島の海はすっかり気に入った。とくに、南あわじ市の海は、西側の瀬戸内海側も、南の太平洋側も、美しい。慶野海岸の松林は、名勝にも指定されているだけあって、一見の価値がある。ただ、松林の周辺が開発され、松の痛みも激しい。徐々に松林が減少して、松の勢いも衰えているらしい。名勝の指定を取りやめるという話しも出ているらしい。地元の人は、もっとこの松原の貴重さを知った方が良いのではないか。

 南側の太平洋側は、黒潮が直接入ってくることもあり、海の水は透明できれいだ。ここでいつかは是非とも潜ってみたいと思ったが、この日は時間が無い。しかも、吹上浜は遊泳禁止になっている。すぐ前が渦潮で有名な鳴門海峡なので、おそらく浜辺の近くも潮流が激しいのだろう。潜水できるところがあるかどうか分からないが、潜ってみたくなる海ではあった。

花の受難とヘイトスピーチ

2013-05-31 | 政治
毎朝通る道筋に、ひともとの見事に咲き誇る一重のバラの株がある。背丈は50cmくらいの小さな株だが、枝が広がり、バラの花が全体を覆うごとく、何百と咲いている。毎朝、そこを通る度に、その美しさ、豪華さ、そして個々の花の可憐さに惹かれて、見入ってしまう。ところが、今朝通勤の途中でそこを通りかかると、なんということだ。ほとんどすべての花が、引きちぎられ、切り取られ、丸坊主にされてしまっている。心ない人の仕業だろうが、哀しくなった。こんな行為を、自分の感情を表すために行う人の心が、情けなく、哀しい。

 それによく似た感情を、今朝のテレビで味わった。東京の新大久保で行われている民族差別主義者のヘイトスピーチデモについてだ。「殺せ!」「出て行け!」「死ね!」などというヘイトスピーチを韓国人・朝鮮人に向けて発する日本人たちの薄汚なさ、哀しさ、情けなさ。これが同じ日本人の言葉かと思うと、日本を劣等な国としか思えない。相手の立場に立って物事を考えることができない若者が増えてきた。いや、若者に限らない。「自己中」は、人間社会をぎすぎすしたものに変えてしまう。相手の立場に立つことのできる人がいなくなることが、人々を戦争や貧困に引きずり込み、哀しい歴史を作ってきた。

 日本にはヘイトスピーチを規制する法律がない。ヨーロッパでは、多くの国にヘイトスピーチを規制し、罰する法律がある。なぜ日本にはそれが無かったか。それは、日本人は相手の立場に立って考える良い伝統があったから、こんな法律はなくてもよかったのだ。ヘイトスピーチをする人などいなかった。ところが、日本の良いところを嫌う人や、戦争をしたい人が現れて、日本を情けない劣等人種の国にしてしまう。

 ヘイトスピーチをする人たちは、自分だけを愛し、国を愛さない。国に泥を塗ることを平気でできる人たちだ。橋下徹という人、大阪市長という公職に就いている人が、日本をおとしめるようなことを平気で言う。日の丸に頭を下げず君が代を歌わない人を、愛国者ぶって処分する一方で、日本の名誉を傷つけても責任をマスコミに押しつけて平気でいられる人。そういう人に国を愛するなどと言ってもらいたくない。

鳩山首相・小沢一郎を引きずり下ろしたのは誰?

2013-05-27 | 政治
 危険きわまりない普天間飛行場を「最低でも県外」に移設と言っていた民主党の鳩山政権。当時、民主党の幹事長として官僚機構の改革に取り組んでいた小沢一郎。この二人がマスコミの猛烈なバッシングに遭って、同時に辞任したのは、何故だっただろうか。マスコミはなぜ猛烈なバッシングをしたのだろうか。それを明らかにしたのが、アメリカの秘密外交文書を暴露したウイキリークスだった。

 鳩山政権が行ったもっとも大きな成果が、日米協議委員会の廃止だった。この委員会は、毎年日本政府が行うべき施策を提言する報告書を出している。これが事実上のアメリカ政府から日本政府への要求書として機能してきた。この報告書が郵政民営化を要求し、それに応じてコイズミ首相が民営化を強引に推し進めたのは、アメリカが後ろについているという安心感があったからだ。これは、自民党政権や自公政権が行ってきた政策のほとんどがアメリカの意向に沿ったものであったこと、つまり日本政府はアメリカの内政干渉を自ら受け容れていたと言うことなのである。このほかにも、法科大学院の設置と外国人弁護士の日本参入など、この報告書に基づくアメリカの要求のほとんどすべてに日本政府は応じてきた。この委員会の廃止は、日本の自立を標榜していた民主党政権としては、当然のことであった。しかし、アメリカは激怒した。

 アメリカは民主党政権が誕生するきっかけになった衆議院選挙の前に猛烈な反民主党工作を行ったらしい。小沢一郎代表は悪徳政治家として徹底的にマスコミによってたたかれた。結局、小沢代表は辞任した。しかし、それでも国民は腐った自民党を拒否し、民主党政権を選んだ。鳩山由紀夫代表が民主党政権の初代首相になった。鳩山首相は、まずこの日米協議委員会を廃止した。これは、アメリカへの日本自立の宣言に等しいものだった。小沢民主党幹事長とも、アメリカ従属からの脱却を目指すことで一致していた。当然、激怒したアメリカは、この二人の失脚に狙いを定めて工作を始めた。

 鳩山首相は、「東アジア共同体」構想を提唱。日中韓を中心としたアジア自立のための経済共同体を模索した。この動きにもアメリカは激しく反発した。鳩山構想には、アメリカを含めることはなかったからで有り、むしろアメリカ一国支配の構造から抜け出すことを目指したからである。日本をアメリカに無条件に従属する同盟国とし、中国包囲網を作るアメリカの世界戦略にとって、許しがたい構想だった。

 鳩山首相は、普天間基地の辺野古沖への移転について、「国外への移転、最低でも県外」と言い続けてきた。そして、この構想でアメリカと交渉をしようとしたが、日本の外務省はまったく動かなかった。防衛省ははっきりと反対した。彼らにとっては、沖縄に米軍がいいることが、彼ら役人たちの安全・安定を保証するものだったからだ。アメリカは当然のごとく、日本の首相の要請をはねつけ、そして最終的に辺野古への基地建設を決めてしまう。そのときに、日本の外務省と防衛省は、日本の首相を応援しようとはしなかった。むしろアメリカの姿勢を擁護し、鳩山首相に県外移設断念を執拗に働きかけた。

 小沢一郎幹事長は、辺野古移設に反対の姿勢を表していた。「辺野古の美しい海を壊してはならない」と言ってきた。アメリカの軍隊駐留も不要という認識をもっていた。「第七艦隊があれば米軍はいらない」とも言った。そのような認識はアメリカに極度の警戒心を持たしてしまった。小沢一郎氏は、意識的な検察の捜査とマスコミによる容疑者扱いによって、自身の身の潔白を証明するのに追われて、鳩山政権を支えることも困難になった。そして、存在さえも疑われる検察審査会の議決で、刑事裁判被告にされてしまい、鳩山首相といっしょに辞職に追い込まれる。鳩山・小沢を辞職に追い込んだのは、アメリカの日本支配を是とするマスコミ界の経営陣とその手下たちだった。彼らは新聞やテレビを通して、執拗に小沢たたきを繰り返し、辞任したあとも、無罪になったあとも、小沢たたきを止めない。鳩山首相は「宇宙人」呼ばわりして、彼が考えていた対米独立の路線を揶揄し、あざ笑った。

 今、自民党政府は、普天間基地の辺野古移転を当然とし、アメリカの意のままにオスプレイを配備し、沖縄の人々の苦難を一顧だにしない。自民党と意を通じる橋下は、アメリカ軍に沖縄の婦人を性のはけ口に活用するよう進言するほど、対米奴隷根性を露呈した。安倍首相は橋下発言を迷惑と思っているが、その口ぶりからは、橋下とまったく同じ思考の持ち主であることがわかる。

 マスコミにたたかれ馬鹿にされてきた鳩山元首相だが、彼が普天間基地は国外へ、最低でも県外へと言い続けてきた姿勢は、それまでの沖縄県民の気持ちを大きく変えた。どうせ日本政府は沖縄のことを何も考えていない、利用することしか考えていないと思っていた沖縄県民は、鳩山元首相の言葉に、その可能性を見つけ出した。もう諦めていたアメリカ軍基地を沖縄から追い出すことができるかもしれないことを理解した。沖縄県民はその後、保守も革新もなく、すべての自治体の首長を含めて、オスプレイの沖縄配備に反対し、普天間基地の県内移転に反対の意思表示をした。沖縄中が、鳩山首相の言葉に勇気をもらったと言って良い。この沖縄の意志の確信は、おそらくもう二度と元には戻らないだろう。鳩山元首相の大きな功績である。これまでの歴代首相の中で、これだけの国民の意思を代表して政策を表明した首相はいなかったのではないか。だからこそ、アメリカからは忌み嫌われた。その後の首相は、民主党政権でさえ、アメリカのご機嫌を伺う自民党亜流となってしまった。そして、自民党への政権後退。再び日本はアメリカ従属路線一辺倒に帰った。再び、対米独立路線に戻せるかどうか、今度の参議院選挙での国民の意志表示に掛かっている。

橋下という恥 「自主憲法」という恥

2013-05-21 | 政治
橋下大阪市長の「慰安婦は必要ということは誰でも分かる」という発言が、世界中からの抗議と批判にさらされている。当然だろう。そんな世界の反応も予想もできなかったという一点だけでも、橋下の無知、無能は明らかだ。沖縄の米軍兵士に風俗業の利用を勧め、米軍司令官から激怒されたのも、本人の予想外だったのだろう。日本人の恥だ。即刻、大阪市長を辞任してもらいたい。大阪市民はリコール請求を行うべきだ。本人はやめさされない限り自分からは辞めないと言っているのだから。

 さらに許しがたいのは、この米軍への発言は沖縄県民への米兵犯罪被害をなくすために、沖縄県民のために言ったと強弁していることだ。自らの不明を沖縄県民への善意にすり替え、責任を転嫁しようという姑息なやり方には、心底怒りを禁じ得ない。そして、発言するたびに、自分が言ったことを少しずつ変えていき、自分の真意をマスコミが誤解しているなどと、マスコミへの責任転嫁を図り、自らの責任をごまかそうという子供じみたやり方を続けている。そして、発言を撤回はしないという。

 発言を撤回しないのは、石原慎太郎との会談で、彼に激励されたからのようだ。石原と橋下、侵略を巡って意見の相違があると報道されているが、そんなものは些細なこと。日本をアメリカ支配に差し出し、憲法をアメリカが好むように変えようとしている。国防軍を作り、アメリカ軍といっしょに世界に戦争をしにいこうというのが、彼らの言う憲法改正(自主憲法制定)なのだ。アメリカに押しつけられた憲法を日本独自のものに取り返すと、言うことに事欠いて、自主憲法を作ってアメリカに奉仕しようというのだから、その矛盾はきわまっているが、自分でそのことにさえ気がついていないのだろうか。

 橋下は日本維新の会の代表を辞めることはないと頑張っている。いいだろう。辞めて欲しくない。石原と二人、共同代表の二人がこれだけ世界の笑いものになることこそ、維新の会の本質を表しているのだから、この二人ほど日本維新の会の代表にふさわしい人はいない。日本維新の会の本質を知るいい代表たちだ。維新の会の本質が知られてくると、選挙に利用しようと集まってきた人たちが徐々に離れていくだろう。選挙に利用できないなら、何の価値もない維新の会なのだから。


本当の売国奴 アベシンゾー

2013-05-01 | 政治
アベシンゾー首相の支持率が66%の高率を維持しているという。注目された山口県の参議院補欠選挙でも、地元の評判の非常に悪い自民党候補が大差で当選したという。安倍べったりの候補だったと言うから、安倍人気なのだろうか。原発再稼働を積極的にやろうとしている安倍内閣。憲法を改悪して戦争ができる日本を取り戻そうという自民党。なぜそんな安倍内閣や自民党の支持が高いのだろうか。

アベノミクスで、景気が回復しつつあることが高支持率の原因だと新聞は書き立てる。しかし、本当に景気は良くなっているのだろうか。日銀に圧力をかけて、金融緩和を徹底的にやらせ、お札をじゃんじゃん印刷させて、ジャブジャブと市場にばらまく。これで株価が上昇して、なんとなく景気が良くなったような気がするだけなのだ。でも、これはまったく一時的な上っ面の現象だ。参議院選挙までその状態が続けば、あとはどうなろうと知ったことじゃない。もちろん一部の人間は甘い汁を吸って、景気が良くなるが、そんなことは、これまでの失われた20年の間にも起こっている。一部の人間が儲けるのは、景気が良いかどうかの判断とは関係ない。

 安倍政権が選挙公約を完全に裏切ってTPP参加を決めた。TPP交渉が7月から始まる。そして、日本社会の富はどんどんアメリカなどの多国籍企業に吸い上げられていく。儲ける人間は一部だけ。日本の大多数の人間にとっては、生きることも難しくなる事態が起こる。日本の農業は息の根を止められ、環境は破壊される。医療は完全に医の道から外れ、金儲けのための産業になっていく。金のない人間は医者にもかかれなくなる。貧困者は増え、格差は拡大し続ける。アベシンゾーの政策は、まさにアメリカに奉仕し、アメリカのために日本を差し出すものだ。

 さらに、憲法改悪で日本に国防軍を作り、アメリカの先兵として中国やアラブやアフリカで闘い、日本の若者を戦闘力としてアメリカに差し出す。まさに売国政治が行われている。アベシンゾーほど「売国奴」という言葉が似合う政治家はいない。コイズミという売国奴もいたけれど。コイズミの政治が以下に日本を疲弊させたか。でもアメリカは転落の一歩手前でコイズミ政権に支えられてなんとか大国の体面を保った。安倍政権の政策を決めているのは、アメリカのアーミテージ元国防相らの軍事右派グループだ。彼らが出したアーミテージ・ナイレポートに書かれている日本の進むべき道をアベシンゾーはそのまま実行している。そして、アメリカに行ったとき、アベは「アーミテージさん、ありがとう。私は帰ってきました。」と最大限の賛辞を送った。アベがこれからやることは、このレポートに皆書かれている。すなわち、集団的自衛権の容認。すなわち、TPP参加ですべての関税を撤廃し、アメリカに日本の市場を完全公開すること。すなわち、憲法を改悪してアメリカの戦争に一体となって従うこと。

 夏の参議院選挙で自民党や日本維新の会など改憲勢力が3分の2をとったとき、日本は世界でももっとも品格のない国になるだろう。そして、最高に生きずらい国になり、自殺者はさらに増えるだろう。なんとしても生きる価値のない国にはしたくない。希望はある。自民党は衆議院選挙で300議席近くを取ったが、有権者全体の得票率はわずか16%なのだ。けっして国民が自民党を支持したわけではないのだ。それでもこれだけの議席数を獲得するのは、小選挙区制のせいである。参議院はかなりが小選挙区制ではない。投票率が非常に低かったことも、自民党を利した。もっと選挙に出かけて、平和で人間に優しい日本を作る候補を応援しよう。

ヒグマの影におびえる山菜採り

2013-04-23 | 花と自然
暑くなったり寒くなったり、今年の春はどうも気候が安定しない。3月に入ったばかりの時に初夏のような陽気になったと思ったら、4月も終わりに近づいた今頃に、まるで冬のような寒さが来る。だいたい暑さ寒さも彼岸までと言われたように、西日本や関東では、春分の日を過ぎれば、よほどのことがなければ寒さに震えることはなかった。気候の異常さは、毎年のように過去の記録にないという事象が起こっていることからも伺われる。これは地球の温暖化なのか、それとも異常気象だけなのか、判断は難しいが、個人的な直感では、どうやら喜ばしいものでは無さそうである。

 久しぶりに道東のサンナシ小屋にやってきた。釧路空港に降り立ったときは、気温が5度前後で、空港の周囲ではまだ多くの残雪が黒ずんで残っている。しかし、道東太平洋岸の冬の特色である抜けるような青空で、気持ちは明るく、寒さもそれほどのこともないように感じる。

 サンナシ小屋へ行く途中、大変なものを見つけてしまった。ヒグマの足跡だ。それも非常に新しい。きっと今朝、もしくはさっきヒグマがこの道を通ったのだろう。ひょっとしたら、われわれの姿を見て、あわててこの足跡を残して逃げていったのかもしれない。ヒグマとのニアミスが起ころうとは、サンナシ小屋を建てて以来考えたこともなかっただけに、この足跡にはショックを受けた。足跡は巨大で、明らかに成獣の足跡だ。一行は、とくに怖じけた風は無かったが、それでもみんな心の中で少しばかり恐ろしくなったのではないだろうか。ヒグマの存在は、去年から言われていたし、昨日もこの近くでシマフクロウの調査をしている人がカメラトラップでヒグマの写真を6頭撮ったと言っていた。それでも「ヒグマね。それはいるかもしれないね」などとうそぶいていたものの、この新鮮な足跡を見ると、恐ろしさが実感となって迫ってきた。1つの足跡の幅は優に20cmを超える。そして、爪の跡が5本、鋭く泥に跡を残している。

 周りには福寿草が黄色の花を一面につけて、美しく咲いている。その周囲にはまるでキャベツ畑のように、薄い緑のフキノトウが一面に茎を伸ばし始めている。そして、それらの周辺では、北海道の人たちがもっとも好む山菜のギョウジャニンニクが緑の葉を伸ばし始めている。ヒグマの足跡を見るまでは、ギョウジャニンニクを夢中で採り、福寿草の花に見とれていたが、いまではそれどころではない。山菜を採りながらも、背後のちょっとした音にもぎくりとする。早々にサンナシ小屋に逃げ込んだ。

 先月の震度5の地震で、サンナシ小屋の家具類のみならず建物そのものも心配だったが、どうやら目覚まし時計が一個棚から落ちて壊れたこと以外は、たいした影響もなかったようだ。もっとも、土台の丸太のうち、さらに一本が腐食し、またまた小屋がやや傾いているようだ。今回はそれを直す時間的余裕がないので、そのままにしておいたが、やがては土台をコンクリート製に直さないと、小屋そのものの存在も危うくなる。もっとも、私が小屋よりも先に死ねば、小屋を修理する必要も無い。誰も直そうと言わず、隣りにあった昔の小屋のように、やがて朽ちていき、小屋の存在も分からないように、草丈に埋もれてしまうだろう。

 サンナシ小屋の名前の由来のサンナシの樹は、健在だった。でもまだ花が咲くには早すぎる。5月末から6月始めにかけて、サンナシの樹は白い花をいっぱいに付ける。その頃は、草原にもシコタンキンポウゲの黄色い花で埋め尽くされる。その頃にも来たいが、そうそう来るわけにもいかない。旅費がかかるのだから。サンナシ小屋から京都は遠くになりすぎた。

 サンナシ小屋で数時間過ごしたあと、あんなに晴れていた空が曇り始め、冷たい雨も降り始めた。あわてて小屋をあとにする。タンチョウヅルが近くで一羽、歩いている。いつもは必ず2羽で歩いているタンチョウヅルも、この巣作りを始める前だけは、一頭で歩いているのを見かける。巣作りの材料を雌雄が別々に探しているのだろう。まもなく、巣に座って卵を温めているつがいのタンチョウヅルをみるようになる。国道に出て温泉を目指して走り始めたとたん、雨は大粒の雪に変わった。そしてみるみるうちに周りを白い世界に変えていった。温泉でのんびりと暖まったあと、帰りの車はたいへんだった。スピードを上げるとスリップが始まる。ハンドルを取られながら、なんとか道路からはみ出さないように気を付けながら帰った。途中、国道から側溝へ落ちた車が何台かあった。この時期の雪はビチャビチャの雪なので、滑りやすい。

 10cmほども積もった雪も翌朝は再び快晴で、雪解け水で道路は冠水状態。変わりやすい異常気象の天候に悩まされながら、再び本州に帰ってきた。帰り着いた京都の夜は、ひょっとしたら北海道よりも寒さがつのる。また、サンナシ小屋へ行ける日が来ることを祈ろう。

信じられない人たち

2013-04-08 | ちょっと一言
加藤登紀子さんのトークショーを聞きに行った。京都の小さな町家で、膝をつき合わせるようなトークだった。ご主人である藤本さんのことなど、個人的な話しも知らなかったことが多くて面白かったが、彼女の語ったことで印象に残ったのは、レイチェル・カーソンの沈黙の春が出版された後、ケネディ大統領はそれを読んで、アメリカ国内での農薬の規制を始めたということ、そして、その翌年以降、アメリカが国内で使われなくなった大量の枯れ葉剤をベトナムの大地に降り注いだと言うことだ。そして、それと同じ事が、アメリカが国内での原発の新設を抑制した後に、日本に原子力の平和利用と称して原発の輸出を強力に進めたことだ。危険なものは外国に押しつける。国内の原発運転で処理に困った放射能汚染物質を劣化ウラン弾に加工して、東洋人やアラブ人に向けて使う。これも同じ考え方なのだろう。そして、障害を持った子供たちが苦しみ続ける。

同じ事を日本がやろうとしている。アメリカのまねだろうか。日本の原発が悲惨な事故を起こして、これから日本では原発は抑制的にせざるを得ないという状況を見て、これからは原発を輸出しようとする。危ないものは日本で作れなくなりそうだから、トルコやベトナム、インドなどの国へ輸出して儲けよう。人間とも思えない人間が金儲けのために、そんなことを考える。本多勝一さんが言うように、相手を人間と見ない心がそういうことを推し進める。原発も原爆も、作るものにとって、被害を受ける人は人間のうちに入っていないのだ。だからそういうことができる。人間が被害を受けると思ったら、そんな行為はできないだろう。原爆やナパーム弾や劣化ウラン弾で焼き殺されるものは、人間では無いと思うから、そういうことができる。

 このフクシマの現実を見ていて、原発を輸出して儲けようという日本人がいること、私には信じられない。そんな政治家がいることも、私には信じられない。おーーー。信じられないことばかりだ。加藤登紀子さんの歌を聴く機会はなかったが、お話を聞きながら、私は信じられない人たちのことを考えていた。