岐阜市の中心部を南北に走る三大通り、
「長良橋通り」「金華橋通り」「忠節橋通り」
JR岐阜駅からこれらの通りを北進すると
名前が示すように
それぞれ「長良橋」「金華橋」「忠節橋」に行き当たる。
今ではもうすっかり、これらの呼び方が定着しているが、
昔は「神田町通り」「平和通り」「真砂町通り」と呼ばれていたことを
覚えていらっしゃるだろうか。
1988年にぎふ中部未来博が開かれたのだが、
遠方から訪れる人に優しい街づくりを進める過程で、
誰にでも分かりやすいようにと改称されたのだと、
先日の中日新聞の記事で知った。
記事によると、
「平和通り」は、戦前、「凱旋道路」と呼ばれていて、
出兵する兵士の行進が勇ましく行われたのだそうだ。
戦地に向かう父を、夫を、息子を、
女達は、万歳を叫びながらも、心で泣いて送り出したに違いない。
戦後になって、
平和の祈りを込めて「平和通り」に変更されたのだという。
義母に聞いたら、
「凱旋道路」と呼ばれていたことを覚えているという。
今まで、人と話をするときは
状況に応じて通りの名前を使い分けていた。
年配の人には「旧名称」で、
仕事上で使うときや、同年代以下の人と話すときは「新名称」で、と。
だが、人生の半分位は「旧名称」を使っていたせいか、
「新」がスッと出てこず、「旧」が口から飛び出してくることが多々あった。
変化について行けない自分に嫌悪することもあったが、
通りの名前の由来を知ってからは
そんな引け目を感じることはないと吹っ切れた。
「平和通り」・・・・
誇りを持ってそう呼ぼう。
「長良橋通り」「金華橋通り」「忠節橋通り」
JR岐阜駅からこれらの通りを北進すると
名前が示すように
それぞれ「長良橋」「金華橋」「忠節橋」に行き当たる。
今ではもうすっかり、これらの呼び方が定着しているが、
昔は「神田町通り」「平和通り」「真砂町通り」と呼ばれていたことを
覚えていらっしゃるだろうか。
1988年にぎふ中部未来博が開かれたのだが、
遠方から訪れる人に優しい街づくりを進める過程で、
誰にでも分かりやすいようにと改称されたのだと、
先日の中日新聞の記事で知った。
記事によると、
「平和通り」は、戦前、「凱旋道路」と呼ばれていて、
出兵する兵士の行進が勇ましく行われたのだそうだ。
戦地に向かう父を、夫を、息子を、
女達は、万歳を叫びながらも、心で泣いて送り出したに違いない。
戦後になって、
平和の祈りを込めて「平和通り」に変更されたのだという。
義母に聞いたら、
「凱旋道路」と呼ばれていたことを覚えているという。
今まで、人と話をするときは
状況に応じて通りの名前を使い分けていた。
年配の人には「旧名称」で、
仕事上で使うときや、同年代以下の人と話すときは「新名称」で、と。
だが、人生の半分位は「旧名称」を使っていたせいか、
「新」がスッと出てこず、「旧」が口から飛び出してくることが多々あった。
変化について行けない自分に嫌悪することもあったが、
通りの名前の由来を知ってからは
そんな引け目を感じることはないと吹っ切れた。
「平和通り」・・・・
誇りを持ってそう呼ぼう。
おっと、市民会館も12年には移転するわけで解体されるのでしょうね。
加納地区では旧県知事公邸、その後武藤嘉文事務所も解体の憂き目に遭ってますね。
凱旋道路がどのように変革を遂げるのか見ものです。
旧町名の由来などを知ると思い入れが強くなりそうです。
武藤嘉文事務所も、最後の方はメンテナンスもされず
建物が傷んでいましたね。
その近くにある「みつや」というお店の
アイスクリームモナカ、ご存じですか?
シンプルで昔懐かしい味のアイスクリームですよ。
その場で詰めてくれるのですが
モナカの皮がパリパリのうちに食べるのがオススメです。
名古屋市も丁目番号表記になりましたが、
名古屋出身の父母は、
今でも旧地名のほうが分かりやすいと言ってます。
岐阜市にはまだ昔ながらの町名がついているところがあり、
このあたりはこんな商売が固まっていたのだろうな、
と、想像すると楽しいです。
アイスもなかは学校の近くにあって、お好み焼きと同じく通学時の思い出になることが多いです。コーンの味がしないもなかも珍しくなりました。
今もあるところもありますが、
なくなってしまったところもあります。
高校の頃、帰りに友達と「パルコ」に行って
何か食べたりしたのが思い出ですね。