もうすぐ夏休みも終わりますね~。
この時期にいつも思い出すのは、私が小学一年生の夏休み。
あの時出された「夏休みの宿題」のことを、
私は今でもはっきり覚えています。
でも、覚えているのは小学一年生のものだけ。
次の年からのは、何を作ったのか、どういう自由研究をしたのか、うろ覚えなのです。
なぜ一年生の宿題だけ、覚えているかというと、
それは、私の母が、
宿題を完璧にやるために、鬼と化して管理していたからです。
そのとき出された宿題は
①夏の友
これは、岐阜特有の冊子なのでしょうか?
他県の様子を知らないのですが、
夏休みを有意義に過ごすために作られた
読み物&勉強&日記・・・・etc・・・・がセットになったもので、
各学年に合わせた内容になっていました。
勉強とはいっても、国語と算数がメインで、それほど難しいものではありません。
この一冊をやれば、一学期に習った内容が復習できるというようになっていました。
②アサガオの観察日記
これは、厳密に言うと、夏の友のなかにある「自由研究」の一つでした。
春に種まきしたアサガオの鉢を家に持ち帰り、
夏の間観察し記録をつけるのです。
これについては続編で詳しく書きます。
③読書感想文
課題図書か自由に選んだ本を読んで
原稿用紙に感想を書くもの。
その年の課題図書は
「モチモチの木」でした。
じさまと二人暮らしの豆太はとても臆病で、
夜になると一人でせっちん(トイレ)にも行けない。
ある晩、じさまが腹痛を起こした。
豆太は怖いのも忘れ、ふもとの医者様んちまで夢中で走って迎えに行く。
その帰り道、
モチモチの木に火が灯っているのを見た。
それは、勇気あるものだけが見る事が出来るという現象だったが、
じさまが良くなったその日から、
豆太はまた、夜中にじさまを起こしてせっちんに行ったとさ。
という内容の本でした。
今でも低学年向けの図書として、推奨されていますね。
夏休みが始まる前に、担任の先生は
この「モチモチの木」を図書館から数冊用意して、
地域ごとに本を回して読むように渡しました。
今の時代では考えられない事ですが、
昭和40年代の当時、
読書感想文を書くために本を買う家庭は
それほど多くなかったのかもしれません。
前の順番の子から本を受け取ると、
2,3日でさっと読み終え、
次の子の家まで届けるのでした。
さて、我が鬼母は、
本の順番が回ってくるまで待ってはいませんでした。
書店で「モチモチの木」を買い、
夏休み早々私に読ませます。
次に、原稿用紙を何枚か用意し、
座卓に私を座らせ、自分は反対側に座って、
感想文を書かせるのでした。
小学校1年生です。
まだひらがなしか習っていなくて、
文章といったら、絵日記1ページ書くのがやっとこさの頃、
原稿用紙200字詰めのを一枚書くのが
どれくらい大変な事か、
ちび姫を見ていると、今の私にはわかります。
でも、母は
「この子に感想文を書かせなきゃ。」
という使命感に燃えていました。
一行書くごとに
「違うでしょ!」
と、母からの厳しい言葉が返ってきます。
書いては消し、消しては書いての繰り返し。
書く度に叱られるものだから、
こっちはもうどうしていいか分からなくなります。
筆が進まなくなると、
母はどんどんイライラしてきて、
「ここはこうでしょ、ああでしょ。」
と、自分で文章を作って、それを私に書かせる始める始末・・・・
最後は、
「おじいさんは、ひょっとしたら、まめたにゆうきのあるこになってほしくて わざとおなかがいたくなったのかな。」
という一文で締めくくらされました。
「こんなこと、私、絶対思っていないのに・・・・・」
と、心の中でつぶやきながら、
涙をふきふき書き上げました。
2学期が始まりました。
学校は、夏休みの作品、感想文などの中から、
優秀なものを幾つか選びます。
そしたら、なんと!
私の書いた母が作った作文が、
学年の代表作品に選ばれてしまったのです!
(当たり前です、大人が考えたのですから・・・・)
クラスメートから
「tenchan~すごいねー!」
「文章上手だね~!」
などと、羨ましがられた私。
近所のおばさんにも褒められた私。
でも、ちっとも嬉しくないの。
だって、
それは、
私が書いた感想文じゃないもの。
お母さんが、「こう書きなさい。」
って言ったから書いたんだもの。
でも、誰にも言いませんでした。
ずーっと、ずーっと、
心の中にしまっておきました。
なぜって、
お母さんがとても嬉しそうだったから。
大きくなってから、
「一年生の時、夏の宿題、けっこう力入っちゃってたよね。」
と、母に聞いた事があります。
すると母は、
「そうね、自分でもちょっと手を出しすぎたと反省しているの。
あの時、担任のK先生に、
『tenchanママ、感想文、観察日記、期待してますよ!』
って、言われちゃってね、
ちゃんとしなきゃ、って自分でも舞い上がっちゃったのよ。」
と、教えてくれました。
母が厳しかったのは、そういうわけだったのです。
結婚して子供を産み、
その子が学校に上がり、夏休みの宿題をやるとき、
頭によぎるのは、母と向き合って書かされた感想文の事。
だから私は、子供が文章を書くときは、
極力自力で書かせるようにしています。
もちろん、文法や言葉遣いの間違いは正しますが。
大事なのは、自分の言葉で人に伝えるということだから。
この時期にいつも思い出すのは、私が小学一年生の夏休み。
あの時出された「夏休みの宿題」のことを、
私は今でもはっきり覚えています。
でも、覚えているのは小学一年生のものだけ。
次の年からのは、何を作ったのか、どういう自由研究をしたのか、うろ覚えなのです。
なぜ一年生の宿題だけ、覚えているかというと、
それは、私の母が、
宿題を完璧にやるために、鬼と化して管理していたからです。
そのとき出された宿題は
①夏の友
これは、岐阜特有の冊子なのでしょうか?
他県の様子を知らないのですが、
夏休みを有意義に過ごすために作られた
読み物&勉強&日記・・・・etc・・・・がセットになったもので、
各学年に合わせた内容になっていました。
勉強とはいっても、国語と算数がメインで、それほど難しいものではありません。
この一冊をやれば、一学期に習った内容が復習できるというようになっていました。
②アサガオの観察日記
これは、厳密に言うと、夏の友のなかにある「自由研究」の一つでした。
春に種まきしたアサガオの鉢を家に持ち帰り、
夏の間観察し記録をつけるのです。
これについては続編で詳しく書きます。
③読書感想文
課題図書か自由に選んだ本を読んで
原稿用紙に感想を書くもの。
その年の課題図書は
「モチモチの木」でした。
じさまと二人暮らしの豆太はとても臆病で、
夜になると一人でせっちん(トイレ)にも行けない。
ある晩、じさまが腹痛を起こした。
豆太は怖いのも忘れ、ふもとの医者様んちまで夢中で走って迎えに行く。
その帰り道、
モチモチの木に火が灯っているのを見た。
それは、勇気あるものだけが見る事が出来るという現象だったが、
じさまが良くなったその日から、
豆太はまた、夜中にじさまを起こしてせっちんに行ったとさ。
という内容の本でした。
今でも低学年向けの図書として、推奨されていますね。
夏休みが始まる前に、担任の先生は
この「モチモチの木」を図書館から数冊用意して、
地域ごとに本を回して読むように渡しました。
今の時代では考えられない事ですが、
昭和40年代の当時、
読書感想文を書くために本を買う家庭は
それほど多くなかったのかもしれません。
前の順番の子から本を受け取ると、
2,3日でさっと読み終え、
次の子の家まで届けるのでした。
さて、我が鬼母は、
本の順番が回ってくるまで待ってはいませんでした。
書店で「モチモチの木」を買い、
夏休み早々私に読ませます。
次に、原稿用紙を何枚か用意し、
座卓に私を座らせ、自分は反対側に座って、
感想文を書かせるのでした。
小学校1年生です。
まだひらがなしか習っていなくて、
文章といったら、絵日記1ページ書くのがやっとこさの頃、
原稿用紙200字詰めのを一枚書くのが
どれくらい大変な事か、
ちび姫を見ていると、今の私にはわかります。
でも、母は
「この子に感想文を書かせなきゃ。」
という使命感に燃えていました。
一行書くごとに
「違うでしょ!」
と、母からの厳しい言葉が返ってきます。
書いては消し、消しては書いての繰り返し。
書く度に叱られるものだから、
こっちはもうどうしていいか分からなくなります。
筆が進まなくなると、
母はどんどんイライラしてきて、
「ここはこうでしょ、ああでしょ。」
と、自分で文章を作って、それを私に書かせる始める始末・・・・
最後は、
「おじいさんは、ひょっとしたら、まめたにゆうきのあるこになってほしくて わざとおなかがいたくなったのかな。」
という一文で締めくくらされました。
「こんなこと、私、絶対思っていないのに・・・・・」
と、心の中でつぶやきながら、
涙をふきふき書き上げました。
2学期が始まりました。
学校は、夏休みの作品、感想文などの中から、
優秀なものを幾つか選びます。
そしたら、なんと!
学年の代表作品に選ばれてしまったのです!
(当たり前です、大人が考えたのですから・・・・)
クラスメートから
「tenchan~すごいねー!」
「文章上手だね~!」
などと、羨ましがられた私。
近所のおばさんにも褒められた私。
でも、ちっとも嬉しくないの。
だって、
それは、
私が書いた感想文じゃないもの。
お母さんが、「こう書きなさい。」
って言ったから書いたんだもの。
でも、誰にも言いませんでした。
ずーっと、ずーっと、
心の中にしまっておきました。
なぜって、
お母さんがとても嬉しそうだったから。
大きくなってから、
「一年生の時、夏の宿題、けっこう力入っちゃってたよね。」
と、母に聞いた事があります。
すると母は、
「そうね、自分でもちょっと手を出しすぎたと反省しているの。
あの時、担任のK先生に、
『tenchanママ、感想文、観察日記、期待してますよ!』
って、言われちゃってね、
ちゃんとしなきゃ、って自分でも舞い上がっちゃったのよ。」
と、教えてくれました。
母が厳しかったのは、そういうわけだったのです。
結婚して子供を産み、
その子が学校に上がり、夏休みの宿題をやるとき、
頭によぎるのは、母と向き合って書かされた感想文の事。
だから私は、子供が文章を書くときは、
極力自力で書かせるようにしています。
もちろん、文法や言葉遣いの間違いは正しますが。
大事なのは、自分の言葉で人に伝えるということだから。
夏休みの宿題の話題が多いわ~^^
私のところも夏の友だったか夏休みの友だったか
冊子はありました。でも私立だったせいか、その他の
宿題もてんこ盛りだった記憶があるな
うちの両親は忙しくて、tenchanママみたいに
つきっきりで教えてもらったことないから
ちょっと羨ましいわよ。愛情たっぷりだったのね^^
↓願書提出後の変更も親がするの?
福岡はまだ先生が走り回ってるわよ
ほったらかしでしたね~。
だから、いっつも残り数日になって大慌て。
「なんでもっと前にいわないの!」って、
毎年、家族全員で、片付けました。
よくあるパターンです。
そうそう、夏休み中のお天気を毎日記録する表って
なかったですか?
色を塗るんだったかな?
あれもずっとさぼっていたから困りましたね。
確かこの日は晴れだったっけ?って。(笑)
でも、宿題を管理していたのは1年の時だけ。
あとは「自分でやりなさい。」
って、言われてたので
8月終わりになると、地獄のような日々だったわ~(笑)
母の影響があったのは間違いないです。
あの時、自分が書いたのではない感想文が入賞し、みんなに褒められて、
何とも居心地の悪い思いをしました。
母も若かったので、必死だったのでしょうね。
2年からはほったらかし。
だから、夏休みの終わりの頃は
地獄のような毎日でした。
父親に泣きついて、工作を手伝ってもらったっけ。(笑)
そうそう、お天気マーク、色塗りしなきゃいけなくて、
今のようにネットもないから、
新聞で調べたり、適当に「はれ・はれ・くもり・あめ」なんて書いたりしました。
それはそうと、Mrs.Bさん、
母校が新型インフルで休校です!
甲子園に応援に行った生徒、90人が感染ですと!