とうちゃんのぷらぷら日記

アウトドア系の日記及びうんちく

「不適切にもほどがある」昭和は遠くなりにけり2

2024-03-03 22:00:15 | 日記
昭和の時代の小学校の先生の話。
小学校はクラス単位で一人の先生が担当するので、担任の先生によってクラスの雰囲気もずいぶんと変わる。
わたしの小学校時代は昭和40年代のことなので、まだ微妙に戦前をひきずる先生も多かった。
旧満州国生まれの先生もいたし、かなり規律に厳しい先生もいた。

私の5、6年生のころの先生は、いわゆる厳しめタイプの先生で、独自の教育方針を持っていた。
そんな先生独自の教育方針が通用する、何事も曖昧な時代だったのだ。

その先生は課外授業に熱心で、課外授業といっても学校行事ではなく、先生個人が行う授業なのである。一般の授業が終わった放課後に、どういうわけかクラス全員でバレーボールを体育館で行った。それが週に1回ぐらいのペースであった。
原則全員参加。
そのころ中学受験で塾に通う者もいたので塾の者は許されたが、児童は個別に拒否できなかったと思う。

バレーボールの次は合唱や合奏を行った。(むろん音楽の授業以外)
クラス単位で合奏コンクールにも出場した。
当然これまた放課後に行うのである。
むろんクラス単位なので、あまり音楽が得意でない子もいる。
どういうわけかそれがまかり通っていた。

いいか、悪いかは別として、今ではかなり難しいだろう。
実際、校長先生が変わると、どうも許されなくなったようで、私たちが卒業したあと、校長先生とケンカして他校へ転勤となった。

ただ、音楽指導者としては、その後他校で実績を積まれ、合奏担当の先生として名をあげられたようだ。
短気な先生で、どちらかというと私も苦手な先生だった。
私の友人などは毛嫌いしていたが、唱歌などいろいろな曲を教わり、今でも覚えているので、いい所と悪い所と半々のイメージの先生だった。

これも今では不適切と攻撃されるであろう昭和スタイルの教育で、令和の時代ではまず出来ないことだろう。

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