とうちゃんのぷらぷら日記

アウトドア系の日記及びうんちく

元町、石川町から、蒔田城、三殿台遺跡、太田道灌屋敷跡へ

2020-08-02 20:13:54 | 横浜散歩
昨日のアド街ック天国は横浜の石川町であった。
ミーハーだが、元町から石川町の方へ散歩した。


元町の後ろの崖は海食崖のようだ。(詳しく調べたことはない)
ともかく江戸時代までは堀川あたりは海だったそうだから、厳島神社や諏訪神社の前は海だったということだ。


石川町のリセンヌ小路というのは女学生通りという意味らしい。知らなかった。
その崖の上には横浜の女学校群がある。昔から思っていたが、横浜というのはどうして女子校が多いのだろう。フェリスや雙葉に横浜女学院、横浜共立学園、それに今は無くなってしまったが山手女子もあった。そういえばうちの母親はフェリスのことを日本語なまりのフェイリスとか変な名前で言っていた。ちなみに桜美林はオベリンと呼んでいた。

昨日のアド街ック天国のゲストには谷原章介さんが出ていたが、母は谷原さんのお父さんとゲートボール仲間であった。当時は谷原さんがブレイクしたばかりだったと思うが「谷原章介さんのお父さんへサインをお願いする人が沢山いるのよ」とかお茶を飲みながら話していた。懐かしい話だ。

そのまま崖沿いに進む。
中村橋を渡ると蒔田町へ

今日の目的の一つである蒔田城を見に行く。
城址自体は横浜英和女学院の敷地なので立ち入れない。
蒔田の森公園から見るとこんな感じ。




南側の勝国寺には城主であった吉良氏の供養塔がある。


吉良氏と言えば室町将軍家に次ぐ家柄。
蒔田御所とも呼ばれた格式の高い城。
この南側には国の史跡にもなっている三殿台遺跡がある。


そして谷を隔てた北側には太田道灌の屋敷跡とされる所がある。
吉良氏の城に太田道灌の屋敷。
これは中世の蒔田がこの地域でも重要な場所であった証拠ではないかと思う。
百戦錬磨の太田道灌がポーと屋敷なんか造るわけがない。
吉良氏にしても地侍ではないのだから、こんな所に城を造る必然性はない。
これは想像だが、昔はこのあたりまで船を付けられる水運があったと思われる。
ここから石川町、元町の入り江まで船で行き海運と結びついた物資の集積地の役割があったのではないだろうか。
太田道灌の屋敷跡は北側が東海道である。主要な陸運とも繋がる兵糧ルートであったのではないだろうか。

これは縄文海進の様子だが、蒔田城や太田道灌の屋敷の前はもろに海だ。


大岡川にも船が浮かんでいる。


太田小学校の敷地が太田道灌の屋敷跡と推定される所だそうだ。
展望もすこぶるよい。



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