goo blog サービス終了のお知らせ 

あみの3ブログ

ラーメン食べ歩きとお城歩き、その他感動したことを写真で綴る雑記帳
更新は不定期です

土岐明智氏の系譜妻木氏の居城 妻木城 2025年1月25日

2025-01-31 05:24:47 | 城歩き
お城検索は→こちら

妻木城は、妻木町を見下ろす標高409mの山頂に築かれた山城です。築城時代についてはこれまで土岐明智彦九郎頼重(土岐明智氏、妻木氏の祖)が、祖父である美濃守護土岐頼貞の遺領を継いだ暦応2年(1339)頃とされていましたが、発掘調査結果により戦国時代と考えられます。
 妻木城のⅠ郭とⅡ郭は、石垣によって二段に分けられ、Ⅰ郭は東側に、Ⅱ郭は北側に虎口を設けています。周囲には曲輪や帯曲輪があり、北側を除いて堀切などによって尾根続きを分断しています。また、南西側の井戸が造られた曲輪のすぐ南には、土塁を築いて谷筋の防衛とし主郭へは直接登れない配置にしています。しかし、西側の尾根続きを分断した外側にも曲輪が続いていますので、当初は東西に長い縄張であったと考えられます。関ヶ原の戦いの際に東軍に着いた妻木氏が岩村城の田丸氏の攻撃に備えて防備を固めるため、堀切や横堀によってコンパクトに再編したものと考えられます。、、、土岐市教育委員会(現地案内板より)


場所は 岐阜県土岐市妻木町
東海環状線「土岐南多治見IC」下車、県道382号線土岐方面へ左折。西濃運輸のターミナルを過ぎた交差点で県道66号線へ左折。環状線の高架をくぐり市街に入り「下石」交差点を右折し県道19号線へ入る。妻木川沿いに南下し、橋のところで県道388号線へ右折すると左手に「妻木状士屋敷 御殿跡」があります。御殿から背後の山に向かって大手道が延びています。御殿跡の向かいに広い駐車場があり、現地案内板やパンフレットが備えてあります。





一方、山城へは林道からも行くことができます。県道19号線を右折せずに直進し、「名岐国際ゴルフ倶楽部」へ右折すると城址南口駐車場に向かう林道の分岐があります。





【周辺マップ】
※八幡神社で入手(妻木城址の会発行)



【妻木城縄張図】
※同上



慶長5年(1600)8月15日(関ヶ原の1ヶ月前)の徳川家康より妻木城主宛の書状に『あなたの城の普請ができましたね』(筆者意訳)とあり、また他の記録に岩崎城(日進市)より人夫100人が派遣されたとあります。この普請により妻木城の主要部の防衛を固める堀切が造成されたと考えられています。巨石群やくさび跡の岩はこのときの産物です。

本丸がある山頂部南側を半周するように構えられた「堀切」(連続した横堀のようにも見えます)













その一角にどうしても除去できなかった巨石が横たわっています。
十字架に見えますが、くさびを打ち込む矢穴です。
「くさび跡の巨石」


この巨石が邪魔で、四つに割って移動させようとしたんでしょうね。
持っていた杖の長さは約130㎝なので、その大きさがわかります。



空堀や土塁の内側にある井戸
「土塁」


「井戸跡」
妻木城内に二カ所ある井戸の一つ
水量は多くないが水源は枯れず、今も南側へ登山道に沿って流れています。



横堀は南西にある太鼓櫓まで続いています。



「太鼓櫓」作平地


太鼓櫓南側、眼下に空堀と「くさび跡の巨石」


普請の最終盤、工期が迫る中(関ヶ原の戦い間近)、苦渋の選択で断念したんでしょうね。(もう間にあわねぇ~!!)



「蔵跡」
蔵跡下の横堀


蔵跡横堀と切岸


蔵跡



「御釜屋」
蔵跡と曲輪Ⅲ(三の丸)の中間位置にある曲輪



「曲輪Ⅲ(三の丸)」
御殿跡から登ると最初にある曲輪
山頂の曲輪Ⅰ(本丸)から階段状に3段築かれた曲輪の最下段・最南端に位置します




南に開けた眺望
遠く白山や


乗鞍岳まで見渡せます。


三の丸からは東側の巨石群へ向かう遊歩道と


上段の二の丸に向かう大手道があります。



「曲輪Ⅱ(二の丸)」
南側にある虎口


現在は鳥居が建っています。


二の丸作平地と奥は本丸の石積み



「曲輪Ⅰ(本丸)」
東側にある本丸虎口
折れが入っています。



西側の石段
どういう役割だったのでしょう?





本丸石垣
石垣と言うより、二の丸と本丸を区画する石積みのようでもあります。


旗立石の巨石


本丸に建つ祠


本丸作平地
本丸には天守や天守台石垣は無かったようです。
発掘調査の結果でも瓦が出土していないため、板葺だったとも推測されています



本丸から「帯曲輪」へ


本丸切岸の巨石


帯曲輪 本丸切岸側
この部分に残る石積みは、本丸南側一帯を囲んでいたのでしょうか。他の曲輪では見られない残存石垣でした。



南側横堀と巨石群
花崗岩だらけの山肌を掘る作業は難航を極めたでしょうね。




まるで積み上げたように見える巨石群


人間と比べるとその大きさがわかります。



「南曲輪」


南曲輪作平地




妻木城跡も先ほど訪れた小里城と同様、環境整備が進み地元愛を感じます。妻木城案内マップや散策マップなどは八幡神社に拠点を置く「妻木城址の会」が発行されています。地元の皆様に感謝です。

余談ですが、土岐市発行の冊子によれば、明智光秀(土岐明智氏)は妻木氏の出では無いかと推論されています。光秀の伯父の広忠は妻木氏で、織田信長の信頼厚い女房衆の一人だった光秀の妹が「御妻木殿」と呼ばれていたことがその根拠の要因としています。


【御城印】
妻木城御城印と八幡神社御朱印


八幡神社の他、菩提寺である「崇禅寺」や「妻木公民館」でも販売しています。



【妻木城】
《交代寄り合いの旗本、跡継ぎなく断家の悲運》

名称(別名);つまぎじょう(乙姫城)
所在地;〒509-5301 岐阜県土岐市妻木町
城地種類;山城
標高/比高;409m/190m
築城年代;暦応2年(1339年)
廃城年代;万治元年(1658年)
築城者;明智頼重
主な改修者;
主な城主;土岐氏、明智氏、妻木氏
文化財区分;県指定史跡
主な遺構;石垣、土塁、堀切、曲輪、井戸跡、
近年の主な復元等;
地図;





美濃源氏の末裔小里氏の居城 小里城 2025年1月25日

2025-01-28 09:35:00 | 城歩き
お城検索は→こちら

小里城は稲津町小里の城山と呼ばれる丘陵上に立地しており、築城時期は明らかではありませんが、美濃源氏土岐氏の流れを汲む小里出羽守光忠が天文元年(1532)に築き、以後代々の居城となったと言われています。
 戦国時代末期、東濃地方は尾張に拠点を置く織田軍と、甲斐から京都へ進軍する武田軍の勢力が衝突する地域となりました。天正2年(1574)に武田軍が明知城(恵那市)を包囲すると、織田信長は小里城と鶴ヶ城を固め、池田恒興を城に配しました。また、天正10年(1582)の本能寺の変後、小里光明は東濃を支配した森長可(豊臣秀吉方)に従わず、徳川家康を頼って小里城を離れました。
 慶長5年(1600)の関ヶ原の合戦の戦功により、小里光親(光明の孫)は土岐・恵那郡の旧領(3580石)を回復して旗本となり、小里城に陣屋を築きました。しかし、その後家督を継いだ光重(光親の子)が跡継ぎの無いまま元和9年(1623)に没すると小里氏は断絶し、小里城も廃城となりました。
 このように小里城は、戦国時代は織田軍の城として、また江戸時代には小里氏の領地支配の拠点(陣屋)として重要な役割を担いました。現在も山頂の「本丸曲輪」と山麓の「御殿場跡」に曲輪や石垣などがみられ、この2カ所が史跡に指定されています。、、、瑞浪市HPより


場所は 岐阜県瑞浪市稲津町
中央道瑞浪IC下車、県道47号線から国道19号線へ左折、「市原」交差点を右折し県道20号線に入ります。何回か蛇行する小里川を渡り、製缶工場から150mほど行くと右手に小里城登城口の案内看板があります。



左手には専用駐車場がありますのでそこに車を停め、向かい側の登城口から山に分け入ります。





登り始めてすぐに石垣が眼に飛び込んできました。いきなりかよ~!って感じです。


遊歩道から右手(西方向)に、街道から見上げるように築かれています。


西の端まで確認してきました。隅部もキチンと残っています。


石垣で囲んだ平坦部を下から見上げると、まるで雛壇状に曲輪が並んでいるように見えます。
確かに最上段は石垣を巡らせた館跡ですが、その下は近世に耕作地となったなごりのようです。
背後の山には本丸・天守台が築かれています。


上段まで進むと、両脇に石垣を巡らせた「大手門跡」が見えてきました。
街道が通る北側に開く門です。


西側の一部には崩落が見られますが


東側はしっかり残っています。


大手門から中に入ると西側に御殿場の跡


東側には一段高くなった場所があり、現在案内板が設置されていますが、城主の居館だったのでしょうか。


山頂の本丸へは、この小高い丘から山中に向かって登っていくことになります。


この御殿場跡の大手門、東側の石垣をたどっていくと


谷を挟んで「東砦」があります。


谷の東側の小高い尾根筋に築かれています。
ここから街道を監視していたんでしょうね。



縄張図、、、小里城址パンフレトより



城主館に戻り、いよいよ背後の大手道を山頂に向かって登ります。山頂の本丸までは500m、比高は170mほどです。


大手道からの眺望


途中案内看板がありますので迷うことはありません。



本丸まであと80m地点で「大手曲輪」に到達。
大手道の東側に細長く削平された曲輪ですが、樹木や大きな岩が地表を覆い全貌はわかりませんでした。本丸の第1防衛線の役割があったのでしょうか。


ここからの上りは急で落石に注意、ロープの助けを借ります。



二の曲輪の石垣(石組み)が眼に飛び込んできました。期待が膨らみますね~。


ロープの先には巨石が二つ、まるで「二の曲輪」の虎口の門のようです。


二の曲輪


山頂の本丸から山の斜面を麓に向かって、ひな壇状に削平した曲輪が配置され、下から「大手曲輪」、「二の曲輪」、「一の曲輪(本丸」と並びます。
また、「一の曲輪(本丸」の一段下には、周囲を取り巻くように「帯曲輪」と「腰曲輪」が配置されています。

二の曲輪から急な大手道を登ると、石段と石組がみえてきました。その先の建物は東屋です。


美味しいものは後から食べる癖があるので本丸は置いといて、先に下段の「帯曲輪」から周囲を巡ってみます。


本丸を取り巻く石垣、大部分は崩落しています。




西側を半周したところで本丸の天守台石垣が見えてきました。


帯曲輪




「一の曲輪(本丸」


本丸周辺には「矢穴」跡のある石がいくつも散乱していました。




本丸曲輪より天守台


巨石を組み合わせた石垣


とにかく巨石が多い



「天守台」




埋門


祠が祀られています


本城枡形由緒書きによれば、(明治以降の話と思われますが)村民有志が『工人 成瀬国平に依頼して石垣の修復をした』と有りますので、一部もしくは大部分が近世の積み直しであると考えられますが、枡形とは曲輪を指す意味もあるので、具体的にどの部分であるかはわかりませんでした。



「腰曲輪」
本丸より俯瞰




本丸を見上げる



武田勢に攻略された岩村城を奪還するため遠山氏や小里氏が奮戦、その後明知城などを攻撃した武田勢に対抗するため小里城が最前線となり、長篠合戦後は岩村城奪還の本陣が小里城に置かれ、総大将の織田信忠が入ったと言う。この際、周辺の織田方勢から大規模な動員を行い、小里城は改修されたようです。


小里城のパンフレットは麓の御殿場跡、現地案内板のところに置いてあります。また、御城印配布場所である小里氏菩提寺 興徳寺でも頂けます。
小里城周辺の環境整備については地元の熱い愛情を感じました。広い駐車場や案内表示、のぼり旗、草刈りや立木の伐採など、本当に感謝です。

ヤマップ行動記録
滞在時間;1時間35分
移動距離;2.1Km
アップダウン;214m


ヤマップ3D



【御城印】
小里氏菩提寺 興徳寺にて




【小里城】
《土岐源氏の系譜、旧領回復も断家の悲運》

名称(別名);おりじょう(小里城山城)
所在地;〒509-6103 岐阜県瑞浪市稲津町2718番地
城地種類;平山城
標高/比高;403m/170m
築城年代;1534年
廃城年代;不明
築城者;小里光忠
主な城主;小里氏、池田氏、森氏
主な改修者;織田信長(池田恒興、小里光明)
文化財区分;岐阜県重要文化財の城跡
近年の主な復元等;
天守の現状、形態;天主台、石垣、井戸、陣屋跡、大手門跡
地図;





移築門が残る小里氏菩提寺 金源山興徳寺

2025-01-28 06:06:52 | 城歩き
2025年1月25日

小里城の移築門と伝わる山門の見学と、小里城御城印を頂くために
金源山興徳寺を訪ねました。

小里光親が父親である小里光明の菩提を弔う為、尾里氏時代の菩提寺であった大蔵寺を移し菩提寺として開いたのが始まりとされます。


小里城 御殿場移築門と伝わる興徳寺山門





小里氏廟



小里城御城印と興徳寺御朱印



奥様には説明やら案内を頂き、大変ありがとうございました。


住所;〒509-6103 岐阜県瑞浪市稲津町2600−1
地図;

冬型の気圧配置がもたらすもの

2025-01-26 16:08:19 | 日記
今回は東濃地区(岐阜県)のお城巡りに出かけました。
自宅を出発したのが午前4時、天候は晴れ、積雪はありません。

富山県と岐阜県の境の山間部を通る、東海北陸道を利用して行くわけですが、日本の高速自動車国道で最も標高が高い地点(松ノ木峠パーキングエリア付近1085m)を通る路線でもあります。従って豪雪地帯であり、早朝の通行は積雪や凍結のリスクも考えられます。
ひるがのSA(標高860m)で休憩しましたが気温ー3度
積雪はこんな感じです。


「ひるがの高原スキー場」のナイターがキレイだったのでスマホ撮影しましたがブレブレです



帰路に立ち寄った「荘川IC」すぐそばに有る
道の駅「桜の郷 荘川」の積雪もご覧の通り。





かたや、東濃地方と言えば
当然積雪なんてありゃしない
快晴ナレド気温低し、でも山歩きすると汗をかきました。





西高東低の気圧配置は通称「冬型の気圧配置」
日本海側は鉛色の空と海で、湿度が高く雪模様
太平洋側は晴天で乾燥注意報
と、狭い日本列島を二分化する。

太平洋側のお城ファンは「冬こそ山城歩きの最高のシーズン」(下草が枯れて地表が見やすい)と言うけれど、私たち日本海側に住むものにとって冬の山城は「雪に覆われて何も見えない」し、そもそも雪山に登ろうとも思わない

太平洋側に行きたくても、雪や凍結が怖くて峠が越えられず、引きこもりになる
そして、太る

でも今年は、1月の中旬から高温傾向が続き、峠が越えやすくなっているのだ。それもいつまで続くか保証もなく、出かけられる内に出かけようと思っています。

アマゴテラス 鶏白湯ラーメン 北陸道下り尼御前SA

2025-01-25 22:19:22 | 思い出のランチなど
2025年1月18日
お城巡りの帰路、北陸道下り 尼御前SA内フードコート
【アマゴテラス】にて、ラーメンを食べました。

鶏白湯ラーメン 800円(込み)


スープ


麺リフト




お城巡りの帰路に尼御前でラーメンを食べるのは初めてです。


タッチ式の券売機
PayPayは使えないんですね


開放的な大きな窓からは、日本海が一望



北陸道下り 尼御前SA内フードコート
【アマゴテラス】
住所;〒922-0551 石川県加賀市美岬町尼ゴジ3−2
地図;

山小屋食堂  木之本醤油ラーメン 北陸道下り賤ヶ岳SA

2025-01-25 21:15:45 | 思い出のランチなど
2025年1月18日
お城巡りの帰路に北陸道下り 賤ヶ岳SA 内フードコート
【山小屋食堂】で醤油ラーメンを食べました。
木之本醤油ラーメン


麺リフト



北陸道下り 賤ヶ岳SA 内フードコート
【山小屋食堂】
住所;〒529-0522 滋賀県長浜市余呉町坂口267−1
地図;

安土城 R6年発掘調現場を訪ねて

2025-01-24 09:04:06 | 城歩き
お城検索は→こちら

前回のエントリー→こちら


2014年12月18日付けの地元紙にて、安土城に関する発見の現地一般公開を行う旨の記事が掲載されました。


記事によれば、天守台の東側にある「本丸取り付け台」にあった建物の規模が判明したとのことで、戦国史で有名な小和田哲男先生は「礎石が天主のものと同じ大きさで、重要な建物だったと考えられる」とのコメントを寄せています。また、天守台東側石垣の崩落が「破城」だった可能性が高まってきたことや、焼失したはずの天主など建物の燃えかすが残っていないことから、後片付けが行われた可能性があることが指摘されています。

2024年12月22日午前10時から午後3時に一般公開するとのことでしたが、12月10日には「周山城の石垣発掘現場」を訪ねたばかりで、さすがに2週続けての外出は許されず、悔し涙で枕を濡らしました



なので、2025年新春第一弾のお城巡りは
「坂本城石垣発見現場」と「安土城天守台周辺発掘現場」を訪ねて、に決定!!


2025年1月18日 安土城登城


今回は天守台周辺の発掘現場を中心に見学したので、大手道周辺の遺構や帰路の摠見寺跡三重塔・仁王門などは割愛致します。

安土城平面図


黒鉄門跡(南西出入り口)
ここから先が安土城の中枢部で、枡形虎口の門を過ぎると通路を何度も屈折させ、両脇の石垣上から殺気を感じながら進みます。





黒鉄門跡の先には「織田信雄公四代供養塔」があります。



そこは二の丸西側石垣の下に当たり、二の丸・本丸・三の丸がある山頂部をぐるりと石垣が周囲を取り巻いています。







天主西側の「二の丸」


頂上部には「信長廟」があります。


天主より俯瞰




天主南側の「本丸、本丸御殿」

二の丸から本丸に入る通路は、両側に積んだ石垣で狭められ、門のような構造物があったのかもしれません。



本丸は三方を、天守台・本丸帯曲輪・三の丸の石垣で囲まれ、南方向にのみ展望が開けています。
本丸跡では発掘調査の結果多くの礎石が発見され、天皇が住む内裏清涼殿と非常によく似た御殿が建っていたと考えられています。



本丸東側にある「三の丸」
本丸から見た三の丸西面石垣



本丸取り付け台から見た三の丸






三の丸石碑


三の丸西面石垣


三の丸南西隅


三の丸南面石垣


三の丸虎口階段跡


三の丸虎口石垣



本丸には四つの出入り口があります。一つは南西出入り口(黒金門)
二つ目は三の丸南側にある
「南東出入り口」



三つ目は三の丸北側にあって、本丸取り付け台石垣と三の丸北石垣によって枡形を構成する
「北東出入り口」
左三の丸、右本丸取り付け台


北東枡形虎口


三の丸北側に突き出した虎口石垣



四つ目は本丸取り付け台の北端に築かれた
「北出入口」
石垣を積んだクランク構造


少し引いた構図
現在発掘調査中の本丸取り付け台最北端に位置します。八角平(伝菅屋邸跡)虎口を経て「搦手道」に至ります。



「幻の安土城」復元プロジェクト 令和6年度安土城跡調査整備事業に伴う天守台周辺地区発掘調査
R6.8.1~R7.1.31
滋賀県文化スポーツ部文化財保護課
天守台東面、北東面、本丸取り付け台中央部


本丸から本丸取り付け台、石段



本丸取り付け台発掘調査現場は、天守台石段横の切岸・石垣部と削平部です。



削平部はL字型の曲輪で、発掘調査によって建物礎石の全貌が確認され、建物の規模や内部の空間利用も今後明らかになることでしょう。



天守台石垣崩落状況
何らかの改変を受けている可能性が指摘されています。





本丸取り付け台東斜面
右下には「台所跡」
奥には「北虎口」、その先は八角平(伝菅屋邸跡)が続く




天主跡


天主碑 虎口


虎口


北西方向


南西方向



天主からの眺望
北方向 琵琶湖と比良山系


北東方向 伊吹山


南西方向 安土城下(JR安土駅)


安土城跡は過去何回も発掘調査が行われていますが、安土山全体が城域と言っていいほど広く、完成から焼失までの期間が短いことから資料も少なく幻の城と呼ばれいる所以です。
今回の調査は令和4年から20年計画で、環境整備事業を行うための資料を得るためのものです。
滋賀県では「幻の安土城復元プロジェクト」と銘打っているので、私のようなミーハーじいさんは、豪華絢爛・八角の天主が再建されるのかと期待してしまいますよ
でも、私の生きているうちに拝むことはムリでしょうね

ともあれ、二の丸・三の丸・本丸御殿・本丸取り付け台御殿など、誰が住んでいたのか?何のためにあったのか?など素朴な疑問がすこしでも明らかになることを期待しておりますよ~



活動データ
移動距離;2.4Km
活動時間;1時間53分


ヤマップ3D



御城印


武将印



【安土城】
《近世城郭の先駆となった信長の幻の城》

名称(別名);
所在地;滋賀県近江八幡市安土町下豊浦
城地種類;山城
築城年代;天正4年(1576)
築城者;織田信長
主な城主;織田氏
文化財区分;国指定特別史跡
近年の主な復元等;平成元年~20年「特別史跡安土城跡調査整備事業」が滋賀県主体により実施
天守の現状、形態;天守台の遺構が現存
地図;




安土城郭資料館は、安土の城郭の資料館だった

2025-01-23 09:36:21 | 映画・コンサート・博物館
2025年1月18日
安土城の御城印を求めて【安土城郭資料館】に行ってきました。

JR.安土駅南口と隣接しています。
駅の一部かと思いましたよ。



正面から見ると立派な施設です。



なんだか「安土城の資料館」みたいな名前ですが、よく見ると「安土にある城郭の資料館」だったんですね。
それにしてもこの周辺には『安土城天主 信長の舘』とか、『滋賀県立安土城考古博物館』など、安土城を取り上げた博物館・展示館がいろいろあって、何処に行ったらいいか迷っちゃいますよね。
自分は今回で三つの資料館をコンプリート!!です。


館内はほとんど安土城の関係の展示です。



隅っこに(笑)観音寺城のジオラマが展示してありましたが、安土城とセットのものでした。


とにかくグッズが豊富!!
お土産屋さんみたいです!!
このグッズに関しては安土城・織田信長にとどまらず、広く戦国武将関連の品揃えが豊富でした。

安土城の御城印は安土城には無くて、安土城郭資料館でしか取り扱っていません。
なので張り切って買い求めました。



このほかに「観音寺城御城印」、「武将印」もいろいろ買っちゃいましたよ



参考
安土城の登城口料金所で販売の、『摠見寺』御朱印には『安土城址』の文字と天下布武が入っています。
※令和3年2月28日登城





【安土城郭資料館】
webページは→こちら

住所;〒521-1343 滋賀県近江八幡市安土町小中700
地図;

長浜城御城印、「太閤の井戸」水没

2025-01-22 09:22:03 | 城歩き
お城検索は→こちら

前回のエントリー→こちら


2024年1月は琵琶湖の渇水で「太閤の井戸」が地上に現れました。



今年(2025年1月18日)訪れた際には、元に戻っていました。
突然水没したわけではありませんので。。。




琵琶湖の水位は大きく変動するんですね~
渇水になれば下流域の水不足、取水制限など影響は深刻となります。

今年は平穏な年になりますように。。。


長浜城や太閤の井戸が有る「豊公園」
毎回訪ねる度に整備が進んでいます。
長浜駅の正面にあって、旧北国街道・黒壁スクエアと並ぶ観光の目玉ですね。







長浜はラーメン食べ歩きで何度も訪れていますが、長浜城の御城印はなぜかもらっていませんでした。
長浜城(長浜城歴史博物館 1F受付)で購入




おまけ

安土城から長浜城に向かう途中、彦根城が見えましたが、伊吹山とのコラボは難しかったです。
※彦根城の南を流れる芹川堤防(芹川けやきみち)より撮影


さざなみ街道から、琵琶湖と冠雪の比良山系
※松原水泳場付近から撮影


冠雪の伊吹山
※豊公園より撮影



【長浜城】
《》

名称(別名);
所在地;滋賀県長浜市公園町10-10
城地種類;平山城
築城年代;天正元年(1573)
築城者;羽柴秀吉(豊臣秀吉)
主な城主;羽柴氏、堀氏、柴田氏、山之内氏、内藤氏
文化財区分;
近年の主な復元等;城の一部は琵琶湖に水没(水中遺跡)
天守の現状、形態;1983年鉄筋コンクリート模擬復元
地図;


坂本城 R6年石垣発掘現場を訪ねて

2025-01-19 06:53:56 | 城歩き
お城検索は→こちら

前回のエントリー→こちら


2025年 新年最初のお城巡りに選んだのは、昨年同様【坂本城】です。

昨年は琵琶湖の渇水で湖底に沈んでいた石垣の一部が露出していると聞き、居ても立っても居られず、正月5日に駆けつけました。
ところが、その翌月大発見が報じられました。
大津市による発掘調査の結果「堀の石垣」が出土したというのです。 
令和6年2月10日・11日には現地説明会が開かれ、全国から数千人のファンが詰めかけ、抽選まで行われる盛況ぶりだったそうです。

さすがに毎月出かける訳にもいかず、悔し涙に枕を濡らしました。(なんのこっちゃw)

この調査は宅地造成計画による緊急のもので、発掘調査完了後は埋め戻され宅地になる予定でしたが、なんと土地の所有者である不動産会社の社長が工事をいったん中止し、国史跡に指定された時点で大津市と土地売却を協議することにしたそうです。 幻の城と呼ばれていた坂本城の遺構が、公開展示される可能性が出てきたわけです。

2025年1月18日
坂本城公園から、向かいの公園と駐車場の間にある用水路脇の路地を300m程歩きました。



赤い線が歩いたルート。私有地や立ち入り禁止区域を避け、道や用水路、農道から写真を撮影しました。黒い矢印は撮影ポイントです。
青い線は保存区域(立ち入り禁止区域)
黄色い線は今回の発掘区域を示します。



調査区域の遺構は埋め戻され、すでに地表は雑草で覆われていました。

南側より


西側より


東側より、奥は比叡山


北東より





当時配布された説明会用の資料にある発掘時の石垣写真です。
※大津市作成の資料は→こちら

実際の石垣を見ることはできませんでしたが、現場に立つことで臨場感を味わうことができ感動しました。







帰り際、湖底の石垣をもう一度見てきました。
今年(2025年1月18日)


昨年(2024年1月5日)



今年(2025年1月18日)


昨年(2024年1月5日)



【坂本城】
《》

名称(別名);
所在地;滋賀県大津市下坂本3丁目
城地種類;水城
築城年代;1571年(元亀2年)
築城者;明智光秀
主な城主;明智光秀、丹羽長秀、杉原家次、浅野長政
文化財区分;なし
近年の主な復元等;
天守の現状、形態;不明(天守と小天守が推定されている)

※出典、、、
地図;



安土城城郭資料館発行 武将印