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妻木城は、妻木町を見下ろす標高409mの山頂に築かれた山城です。築城時代についてはこれまで土岐明智彦九郎頼重(土岐明智氏、妻木氏の祖)が、祖父である美濃守護土岐頼貞の遺領を継いだ暦応2年(1339)頃とされていましたが、発掘調査結果により戦国時代と考えられます。
妻木城のⅠ郭とⅡ郭は、石垣によって二段に分けられ、Ⅰ郭は東側に、Ⅱ郭は北側に虎口を設けています。周囲には曲輪や帯曲輪があり、北側を除いて堀切などによって尾根続きを分断しています。また、南西側の井戸が造られた曲輪のすぐ南には、土塁を築いて谷筋の防衛とし主郭へは直接登れない配置にしています。しかし、西側の尾根続きを分断した外側にも曲輪が続いていますので、当初は東西に長い縄張であったと考えられます。関ヶ原の戦いの際に東軍に着いた妻木氏が岩村城の田丸氏の攻撃に備えて防備を固めるため、堀切や横堀によってコンパクトに再編したものと考えられます。、、、土岐市教育委員会(現地案内板より)
場所は 岐阜県土岐市妻木町
東海環状線「土岐南多治見IC」下車、県道382号線土岐方面へ左折。西濃運輸のターミナルを過ぎた交差点で県道66号線へ左折。環状線の高架をくぐり市街に入り「下石」交差点を右折し県道19号線へ入る。妻木川沿いに南下し、橋のところで県道388号線へ右折すると左手に「妻木状士屋敷 御殿跡」があります。御殿から背後の山に向かって大手道が延びています。御殿跡の向かいに広い駐車場があり、現地案内板やパンフレットが備えてあります。


一方、山城へは林道からも行くことができます。県道19号線を右折せずに直進し、「名岐国際ゴルフ倶楽部」へ右折すると城址南口駐車場に向かう林道の分岐があります。


【周辺マップ】
※八幡神社で入手(妻木城址の会発行)

【妻木城縄張図】
※同上

慶長5年(1600)8月15日(関ヶ原の1ヶ月前)の徳川家康より妻木城主宛の書状に『あなたの城の普請ができましたね』(筆者意訳)とあり、また他の記録に岩崎城(日進市)より人夫100人が派遣されたとあります。この普請により妻木城の主要部の防衛を固める堀切が造成されたと考えられています。巨石群やくさび跡の岩はこのときの産物です。
本丸がある山頂部南側を半周するように構えられた「堀切」(連続した横堀のようにも見えます)






その一角にどうしても除去できなかった巨石が横たわっています。
十字架に見えますが、くさびを打ち込む矢穴です。
「くさび跡の巨石」

この巨石が邪魔で、四つに割って移動させようとしたんでしょうね。
持っていた杖の長さは約130㎝なので、その大きさがわかります。

空堀や土塁の内側にある井戸
「土塁」

「井戸跡」
妻木城内に二カ所ある井戸の一つ
水量は多くないが水源は枯れず、今も南側へ登山道に沿って流れています。

横堀は南西にある太鼓櫓まで続いています。

「太鼓櫓」作平地

太鼓櫓南側、眼下に空堀と「くさび跡の巨石」

普請の最終盤、工期が迫る中(関ヶ原の戦い間近)、苦渋の選択で断念したんでしょうね。(もう間にあわねぇ~!!)

「蔵跡」
蔵跡下の横堀

蔵跡横堀と切岸

蔵跡

「御釜屋」
蔵跡と曲輪Ⅲ(三の丸)の中間位置にある曲輪

「曲輪Ⅲ(三の丸)」
御殿跡から登ると最初にある曲輪
山頂の曲輪Ⅰ(本丸)から階段状に3段築かれた曲輪の最下段・最南端に位置します


南に開けた眺望
遠く白山や

乗鞍岳まで見渡せます。

三の丸からは東側の巨石群へ向かう遊歩道と

上段の二の丸に向かう大手道があります。

「曲輪Ⅱ(二の丸)」
南側にある虎口

現在は鳥居が建っています。

二の丸作平地と奥は本丸の石積み

「曲輪Ⅰ(本丸)」
東側にある本丸虎口
折れが入っています。

西側の石段
どういう役割だったのでしょう?


本丸石垣
石垣と言うより、二の丸と本丸を区画する石積みのようでもあります。

旗立石の巨石

本丸に建つ祠

本丸作平地
本丸には天守や天守台石垣は無かったようです。
発掘調査の結果でも瓦が出土していないため、板葺だったとも推測されています

本丸から「帯曲輪」へ

本丸切岸の巨石

帯曲輪 本丸切岸側
この部分に残る石積みは、本丸南側一帯を囲んでいたのでしょうか。他の曲輪では見られない残存石垣でした。

南側横堀と巨石群
花崗岩だらけの山肌を掘る作業は難航を極めたでしょうね。


まるで積み上げたように見える巨石群

人間と比べるとその大きさがわかります。

「南曲輪」

南曲輪作平地

妻木城跡も先ほど訪れた小里城と同様、環境整備が進み地元愛を感じます。妻木城案内マップや散策マップなどは八幡神社に拠点を置く「妻木城址の会」が発行されています。地元の皆様に感謝です。
余談ですが、土岐市発行の冊子によれば、明智光秀(土岐明智氏)は妻木氏の出では無いかと推論されています。光秀の伯父の広忠は妻木氏で、織田信長の信頼厚い女房衆の一人だった光秀の妹が「御妻木殿」と呼ばれていたことがその根拠の要因としています。
【御城印】
妻木城御城印と八幡神社御朱印

八幡神社の他、菩提寺である「崇禅寺」や「妻木公民館」でも販売しています。

【妻木城】
《交代寄り合いの旗本、跡継ぎなく断家の悲運》
名称(別名);つまぎじょう(乙姫城)
所在地;〒509-5301 岐阜県土岐市妻木町
城地種類;山城
標高/比高;409m/190m
築城年代;暦応2年(1339年)
廃城年代;万治元年(1658年)
築城者;明智頼重
主な改修者;
主な城主;土岐氏、明智氏、妻木氏
文化財区分;県指定史跡
主な遺構;石垣、土塁、堀切、曲輪、井戸跡、
近年の主な復元等;
地図;
妻木城は、妻木町を見下ろす標高409mの山頂に築かれた山城です。築城時代についてはこれまで土岐明智彦九郎頼重(土岐明智氏、妻木氏の祖)が、祖父である美濃守護土岐頼貞の遺領を継いだ暦応2年(1339)頃とされていましたが、発掘調査結果により戦国時代と考えられます。
妻木城のⅠ郭とⅡ郭は、石垣によって二段に分けられ、Ⅰ郭は東側に、Ⅱ郭は北側に虎口を設けています。周囲には曲輪や帯曲輪があり、北側を除いて堀切などによって尾根続きを分断しています。また、南西側の井戸が造られた曲輪のすぐ南には、土塁を築いて谷筋の防衛とし主郭へは直接登れない配置にしています。しかし、西側の尾根続きを分断した外側にも曲輪が続いていますので、当初は東西に長い縄張であったと考えられます。関ヶ原の戦いの際に東軍に着いた妻木氏が岩村城の田丸氏の攻撃に備えて防備を固めるため、堀切や横堀によってコンパクトに再編したものと考えられます。、、、土岐市教育委員会(現地案内板より)
場所は 岐阜県土岐市妻木町
東海環状線「土岐南多治見IC」下車、県道382号線土岐方面へ左折。西濃運輸のターミナルを過ぎた交差点で県道66号線へ左折。環状線の高架をくぐり市街に入り「下石」交差点を右折し県道19号線へ入る。妻木川沿いに南下し、橋のところで県道388号線へ右折すると左手に「妻木状士屋敷 御殿跡」があります。御殿から背後の山に向かって大手道が延びています。御殿跡の向かいに広い駐車場があり、現地案内板やパンフレットが備えてあります。


一方、山城へは林道からも行くことができます。県道19号線を右折せずに直進し、「名岐国際ゴルフ倶楽部」へ右折すると城址南口駐車場に向かう林道の分岐があります。


【周辺マップ】
※八幡神社で入手(妻木城址の会発行)

【妻木城縄張図】
※同上

慶長5年(1600)8月15日(関ヶ原の1ヶ月前)の徳川家康より妻木城主宛の書状に『あなたの城の普請ができましたね』(筆者意訳)とあり、また他の記録に岩崎城(日進市)より人夫100人が派遣されたとあります。この普請により妻木城の主要部の防衛を固める堀切が造成されたと考えられています。巨石群やくさび跡の岩はこのときの産物です。
本丸がある山頂部南側を半周するように構えられた「堀切」(連続した横堀のようにも見えます)






その一角にどうしても除去できなかった巨石が横たわっています。
十字架に見えますが、くさびを打ち込む矢穴です。
「くさび跡の巨石」

この巨石が邪魔で、四つに割って移動させようとしたんでしょうね。
持っていた杖の長さは約130㎝なので、その大きさがわかります。

空堀や土塁の内側にある井戸
「土塁」

「井戸跡」
妻木城内に二カ所ある井戸の一つ
水量は多くないが水源は枯れず、今も南側へ登山道に沿って流れています。

横堀は南西にある太鼓櫓まで続いています。

「太鼓櫓」作平地

太鼓櫓南側、眼下に空堀と「くさび跡の巨石」

普請の最終盤、工期が迫る中(関ヶ原の戦い間近)、苦渋の選択で断念したんでしょうね。(もう間にあわねぇ~!!)

「蔵跡」
蔵跡下の横堀

蔵跡横堀と切岸

蔵跡

「御釜屋」
蔵跡と曲輪Ⅲ(三の丸)の中間位置にある曲輪

「曲輪Ⅲ(三の丸)」
御殿跡から登ると最初にある曲輪
山頂の曲輪Ⅰ(本丸)から階段状に3段築かれた曲輪の最下段・最南端に位置します


南に開けた眺望
遠く白山や

乗鞍岳まで見渡せます。

三の丸からは東側の巨石群へ向かう遊歩道と

上段の二の丸に向かう大手道があります。

「曲輪Ⅱ(二の丸)」
南側にある虎口

現在は鳥居が建っています。

二の丸作平地と奥は本丸の石積み

「曲輪Ⅰ(本丸)」
東側にある本丸虎口
折れが入っています。

西側の石段
どういう役割だったのでしょう?


本丸石垣
石垣と言うより、二の丸と本丸を区画する石積みのようでもあります。

旗立石の巨石

本丸に建つ祠

本丸作平地
本丸には天守や天守台石垣は無かったようです。
発掘調査の結果でも瓦が出土していないため、板葺だったとも推測されています

本丸から「帯曲輪」へ

本丸切岸の巨石

帯曲輪 本丸切岸側
この部分に残る石積みは、本丸南側一帯を囲んでいたのでしょうか。他の曲輪では見られない残存石垣でした。

南側横堀と巨石群
花崗岩だらけの山肌を掘る作業は難航を極めたでしょうね。


まるで積み上げたように見える巨石群

人間と比べるとその大きさがわかります。

「南曲輪」

南曲輪作平地

妻木城跡も先ほど訪れた小里城と同様、環境整備が進み地元愛を感じます。妻木城案内マップや散策マップなどは八幡神社に拠点を置く「妻木城址の会」が発行されています。地元の皆様に感謝です。
余談ですが、土岐市発行の冊子によれば、明智光秀(土岐明智氏)は妻木氏の出では無いかと推論されています。光秀の伯父の広忠は妻木氏で、織田信長の信頼厚い女房衆の一人だった光秀の妹が「御妻木殿」と呼ばれていたことがその根拠の要因としています。
【御城印】
妻木城御城印と八幡神社御朱印

八幡神社の他、菩提寺である「崇禅寺」や「妻木公民館」でも販売しています。

【妻木城】
《交代寄り合いの旗本、跡継ぎなく断家の悲運》
名称(別名);つまぎじょう(乙姫城)
所在地;〒509-5301 岐阜県土岐市妻木町
城地種類;山城
標高/比高;409m/190m
築城年代;暦応2年(1339年)
廃城年代;万治元年(1658年)
築城者;明智頼重
主な改修者;
主な城主;土岐氏、明智氏、妻木氏
文化財区分;県指定史跡
主な遺構;石垣、土塁、堀切、曲輪、井戸跡、
近年の主な復元等;
地図;