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あみの3ブログ

ラーメン食べ歩きとお城歩き、その他感動したことを写真で綴る雑記帳
更新は不定期です

2020年12月のまとめ  ご案内(ラーメン記事更新の終了)

2020-12-31 23:59:59 | まとめとカレンダー
12月に食べたラーメンの杯数、、、1杯
2020年の累計杯数、、、250杯

【月別グラフ】



【訪問店リスト】



【杯数上位店】




【考察】
前月比(11月0杯)、、、+1杯
昨年同月比、、、-29杯
前年累計比、、、-199杯

◆原因、、、現役を退き、趣味でラーメンを食べる資金難
◆要因、、、コロナ禍、気力・体力の限界


◆初訪、、、坂本02(上越市)
◆新店、、、坂本02(上越市)

【ご案内】
2020年12月31日をもってラーメン専門記事関係(食べたラーメンの全記録、及びまとめ)更新を終了しました。

既にラーメンブログから写真日記に内容を変更しており、更新も不定期となっております。
今後は心を動かされた事象(旅・食事・風景等)をブログとして書き留めていくつもりです。
もちろんラーメンは食事のひとつとして食べますのでご安心ください(笑)
今後とも拙いブログですがご愛読いただければ幸いです。

最後になりましたが
ラーメン記事を楽しみにしてくださった皆様、永らく応援してくださりありがとうございました。
一日も早い疫病の収束と皆様のご健康をお祈りいたします。
あみの3ブログ管理人・あみの3



※不快に感じた方は直ちに閲覧を中止して下さい。閲覧は自己責任です。

 とやま城郭カード@砺波市埋蔵文化財センター 富山県砺波市 令和二年(2020)12月27日

2020-12-28 07:51:42 | 城歩き
お城検索は→こちら

富山城郭カードは→こちら

先日とある投稿サイトで教えてもらった「とやま城郭カード」
その存在は知っていたが、今更集め始めるのもなぁ~(;^ω^)、と思っていたところ、、、
ナント!地元新聞に「増山城カード図柄一新」との記事が掲載されました。



発行元は
砺波市埋蔵文化財センター→こちら

富山県内にある「50」のお城をカードにしているそうで、訪問した記録(スマホ・デジカメで撮影した写真)を同センターの係員に見せると当該カードがもらえる。
今回は砺波市にある「増山城」のカードの人気が一番高く、初回印刷分がなくなったため新たに作ったそうです。

それを聞いたら居ても立っても居られない(笑)
月曜日が休館日、翌日の12月29日火曜日は御用納め。そうなると12月27日日曜日に突撃するしかないでしょ(笑)

砺波市埋蔵文化財センターは、
砺波市頼成566 
砺波市立庄東小学校に隣接した「土層」をイメージした外観???の鉄筋コンクリート2階建ての建物です。


入り口の受付で係の方に「カードを貰いに来た」旨伝えると、とても親切に対応してくださいました。



1階展示室
砺波の先人がのこした「モノ」と「メッセージ」に出会える、大人から子供まで親しみやすく分かり易い展示のミュージアムとなっています。
体験コーナーもありますよ。



とやま城郭カード「50城」一挙公開
自分は過去訪ねた「12城」分のカードを貰いました。



「増山城」の新しいデザインのカードはコレ!



「御城印」も販売していますよ。
赤いのは国指定10周年記念限定バージョン



缶バッチやクリアファイルなどの「増山城」グッズももちろんゲット!



あと「続日本100名城スタンプ」もこちらに設置してあります。

50城制覇した人が3人もいたのにびっくりしました(;^ω^)
まあ、ボチボチ挑戦することにします(^^)/








132 高田城@新潟県上越市 令和二年(2020)12月6日 上越三城物語り 春日山城-福島城-高田城

2020-12-14 07:54:37 | 城歩き
前回のエントリーは→こちら
2013年11月に訪問した際は観光目的だったので曲輪などほとんど観ていませんでした(笑)

【今回の目的】は春日山城が高田城に機能を移した流れと、その狭間にあった福島城の手がかりを求めてのお城歩きです。
まず「福島城」を探訪し、城下での一杯を愉しんでからの「春日山城登城」、そして「高田城公園」というコースです。

上越三城物語り・その1「春日山城」→こちら
上越三城物語り・その2「福島城」→こちら


三城の位置関係




上杉謙信公の跡目を継いだ上杉景勝は、豊臣秀吉により「会津120万石に移封」され、それに伴って堀秀治が入封しましたが慶長12年(1607)直江津港近くに福島城を築城して移ると春日山城は城としての使命を終えました。
その福島城は僅か7年でお家取り潰し、時代は徳川へと変わり以来350年親藩と譜代の大名が「高田城」の城主となりました。


【上越の地の重要性】を大きな地図で見てみましょう
北には東北の雄「伊達」と減封された不満を持つ「上杉」、西には加賀百万石の「前田」、佐渡島には「佐渡金山」、北國街道と江戸へ向かう街道の分岐点であり、さらに海上交通の拠点直江津港を背後に抱え、まさに【海と陸の交通の要衝】だったのです。
この地を押さえることは豊臣政権にとって全国制覇の要であり、次の徳川政権にとっては両者の間にくさびを打ち込み佐渡の金を江戸に運ぶ重要拠点でもあったのです。

福島城主堀家のお家衝動については諸説ありますが、改易・取り潰しの厳しい処置は、豊臣恩顧の大名を一掃し徳川政権を安定させたい家康の思惑があったものと思われます。
そして関ヶ原以降の不安定な状況で、一刻も早く拠点の守りを固め次なる戦に備える必要があったので、度重なる洪水の被害を受ける立地からの移転を決断したとするのが順当なようですね。



【天下普請】
慶長15年(1610年)堀忠俊の改易後に越後の領地を継承した徳川家康の六男・松平忠輝は慶長19年(1614)天下普請で高田城築城に着手しました。普請には米沢の上杉景勝や加賀の前田利常など13の大名が任命され、総裁には忠輝の舅・伊達政宗が就任しました。
特筆すべきは竣工までの期間の短さで、外堀を含め60haの広大な城郭が僅か4ヵ月で一応の完成をみたことです。
この背景には大坂の陣を控え、豊臣の重臣を牽制し、江戸の背後を固めたものと言われています。
、、、三重櫓パンフより引用

【高田城の特徴】
天守閣が建設されなかったことと、石垣を積まず全体に土塁を巡らしている事。その理由は豊臣家との戦いを間近に控え、完成を急ぐ必要があったからと考えられています。
築城当時の櫓は二重の櫓でしたが、寛文地震の後三重の櫓に建て替えられました。
また二の丸・三の丸の土塁は全て撤去されましたが、本丸の土塁は築城当時の威容を誇っています。
、、、同上

【高田城縄張り図】



【高田城本丸模型】、、、三重櫓内に展示
手前左が「三重櫓」、手前中央が「極楽橋」、橋を渡ると「枡形・門」があったことがわかります。手前右手が現在も残る「土塁」とそれに続く、右側中央に「枡形門」と堀に架かる東側土橋。



【現在の高田城公園マップと当日の行程】
三の丸広場の駐車場に車を停め、内堀沿いに土橋から「三重櫓」に入りました。その後内堀沿いに「歴史博物館」を訪問、北西隅から北面及び「西堀」を散策。「西堀橋」からプロムナードを通って「旧陸軍大三十三師団・赤レンガ門」から「極楽橋」を渡り本丸土塁をみて内濠の東土橋を渡り三の丸へ戻るというコースです。



何と言っても「三重櫓」がメインですね。
築城当時の櫓は二重の櫓でしたが、寛文地震の後三重の櫓に建て替えられたそうですが
明治3年(1870)に本丸御殿、三重櫓などを焼失。
平成5年(1993)上越市発足20周年記念事業として、焼失した三重櫓を 3重3階の独立式層塔型天守として復興。

まずは南西隅、内堀の噴水と共に



土橋より西面



本丸券売所辺りから、東面



土塁上に築かれた城壁と櫓



ぐるっと一周して極楽橋付近より、内堀越しの南面



内部は木造で資料館となっている
一般310円 小中高生160円(歴史博物館と共通券は割引があります)
休館月曜日、年末年始
開館時間;9:00~17:00

写真は3階展望室



西堀から北堀一帯に繁殖している「蓮」は東洋一と呼ばれ、花の咲く時期には遠くから観光客が集まる。
しかしこれは観光のためではなく、廃藩置県で職が無くなった藩士・氏族たちの収入の糧として堀を使った「レンコン」栽培だったのです。
刀を鎌や鍬に替え、泥沼に胸まで漬かりながら農作業をする元・侍たちの姿を想像すると哀れです。

北西隅プロムナードと紅葉


同西堀の蓮


西堀に架かる赤い「西堀橋」と山並み



「旧陸軍第三十三師団・赤レンガ門」
外堀と内堀の南西側に師団司令部があったそうです。金沢城もそうですが、廃藩置県で廃城になった広大な敷地は軍隊にとって恰好の土地だったのでしょうね。




本丸と南二の丸を繋ぐ内堀に架かる「極楽橋」
平成14年(2002)高田城築城当時の極楽橋が発掘調査の資料をもとに再建されました。



木製の欄干と擬宝珠越しの櫓



極楽橋を渡った本丸南西部に築城当時の土塁が残っています。土塁の高さは10mほどもあるそうです。



本丸南東隅から東側中央部に架かる土橋にかけての土塁。
直線に延びていなくて出っ張りが不思議だったのですが、三重櫓3階に展示してある模型をみて分かりました。
これは搦め手口の「枡形門跡」だったのではないでしょうか。



土塁に残る唯一の石積みの跡
これは築城当時のものなのでしょうか???



隅部は算木済み
二段しか積んでないのだが、、、



とある資料には「保管してある石が高田城にも石垣があったことを示すのではないか、、、」との記述がありました。
これがそうなんでしょうか?
にしては管理が、、、(;^ω^)




今後の調査の結果を見守りたいですね。




「上越市立歴史博物館」
1階はカフェとミュージアムショップ、そして「御城印」は事務所に声掛けしてください。


展示は2階です。学芸員の方から詳しい説明を聞くことができました。福島城の歴史も教えてもらいました。

同館パンフレット


住所;新潟県上越市本城町7-7(高田城址公園内)
電話;025-524-3120
開館時間;10:00~16:00
休館日;月曜日(祝日の場合翌日)
    祝日の翌日と年末年始
観覧料金;大人510円、小中学生260円
三重櫓と共通券は割引となります

御城印は1階で販売しています





【高田城】
《天下普請により4ヵ月で築城》

名称(別名);高陽(こうよう)城、螺城(らじょう)、鮫が城(さめがじょう)、関城(せきじょう)
所在地;新潟県上越市本城町7-7
城地種類;平城
築城年代;慶長19年(1614)
築城者;松平忠輝
主な城主;松平氏、酒井氏、松平氏、稲葉氏、松平氏、榊原氏
文化財区分;県指定史跡
近年の主な復元等;三重櫓(再建)
天守の現状、形態;
※出典、、、続日本100名城 公式ガイドブック・日本城郭協会監修(学研)
地図;



00 福島城址@新潟県上越市 令和二年(2020)12月6日 越後上越三城物語り なぜか7年間と言う短命であった「幻の城」

2020-12-13 05:13:22 | 城歩き
今回のお城歩きの目的は2013年に訪れた「春日山城」と「高田城」を再度訪問し遺構を確認することと、「幻の城」と呼ばれている「福島城」を訪ね現状をひとめ見てみる事。
危うい天候なのでどの順番で回るか、現地の天候をみながらその場で判断することとし出発。
上越地方はなんとか午後からも天候がももちそうなので、朝一にササっと福島城を訪ねることにしました。

この城が幻の城と呼ばれる所以は、築城から廃城までの期間が短かったことと遺構が残っていないことに由来します。
そして一番の要因は、超有名な上杉謙信の「春日山城」を廃城にして「福島城」を築いたにも関わらずお家騒動で改易・廃城の憂き目にあい、以降350年間譜代・親藩が城主を務める「高田城」が歴史の主役を務めたからに他ならないと思います。

【三城の位置関係】





【では歴史を振り返ってみることにしましょう。】
南北朝時代(14世紀)今の県庁にあたる「越後府中」(現直江津市)を守るための詰め城として、越後守護職上杉氏によって築城された「春日山城」は、戦国武将上杉謙信の養子・上杉景勝が豊臣秀吉によって「会津120万石」にて転封され上杉の歴史に幕を下ろす。

その後30万石で「春日山」に入封したのは、豊臣秀吉の家臣で柴田勝家亡き後「越前北ノ庄18万石」城主となった堀秀征の嫡男・秀治。
この転封の際、与力として越後に移封されたのが加賀大聖寺城主・溝口秀勝で初代柴田藩主となる→こちら

秀治は関ヶ原の戦いで東軍に付き戦後は春日山所領を安堵される。
山城の春日山城では行政に不便とのことから、直江津港に近い港町に越後で最初の平城となる「福島城」を築城。
しかし秀治は31歳で死去し跡を幼少の嫡男・忠俊が継いだが、補佐役の家老間で対立が発生し「お家騒動」として徳川幕府の知るところとなる。
徳川家とは親密な関係を作り松平性まで賜っていたが、この騒動で改易。お家取り潰しとなる。

堀氏に代わって入封したのが、徳川家康の六男・松平忠輝。
慶長19年(1614)天下普請にて高田城築城により福島城廃城。
つまり上杉の「春日山」250年、徳川の「高田」350年の狭間にあった僅かな豊臣支配の象徴だったともいえるのです。


【上越の地の重要性を大きな地図で見てみましょう】
北には東北の雄「伊達」と減封された不満を持つ「上杉」、西には加賀百万石の「前田」、佐渡島には「佐渡金山」、北國街道と江戸へ向かう街道の分岐点であり、さらに海上交通の拠点直江津港を背後に抱え、まさに【海と陸の交通の要衝】だったのです。
この地を押さえることは豊臣政権にとって全国制覇の要であり、次の徳川政権にとっては両者の間にくさびを打ち込み佐渡の金を江戸に運ぶ重要拠点でもあったのです。

福島城主堀家のお家衝動については諸説ありますが、改易・取り潰しの厳しい処置は、豊臣恩顧の大名を一掃し徳川政権を安定させたい家康の思惑があったものと思われます。
そして関ヶ原以降の不安定な状況で、一刻も早く拠点の守りを固め次なる戦に備える必要があったので、度重なる洪水の被害を受ける立地からの移転を決断したとするのが順当なようですね。




【場所はどの辺り?】
新潟県上越市の日本海に面した直江津の港。フェリー乗り場の近くに、いかにもと言わんばかりの名前が付いた「市立古城小学校」がある。
この小学校から臨海工業地帯にかけての一帯が、かつて福島城があった場所とされています。



古城小学校の校門脇には近年設置されたと思われる「福島城跡」の銘板が建っている。



そこから校庭に足を踏み入れるとすぐ左手に「福島城跡」の石碑が建立されており、脇には案内板や大きなイラスト説明板も設置されているので、立派な城址公園といった雰囲気を味わえます。



この石碑の礎石には福島城の調査で発掘された石を使っているそうです。
いまでは遺構が全く見当たらないので、当時をしのぶ数少ない遺物と言えるでしょう。



少し前まではここに「福島城資料館」という施設があり今回の目的地の一つでもあったのですが、現在は校舎の方に移転したという案内看板が建っていました。
その案内に従い校庭を横切り校舎の南側に回り込むと南玄関のような入り口がありました。



「デイホーム古城」「福島城資料館」の看板が確かに掲げてあります。
しかしながらこの度のコロナ禍によって「当面休館」の張り紙が(;^ω^)



後ろ髪を引かれる思いで、未練たっぷりに窓から中を覗き込むと、福島城跡の発掘当時の写真と出土品らしき遺物の展示がされているではありませんか。
数少ない情報のなか、お宝がたっぷり詰まった玉手箱のようにも感じました。(福島城資料館の情報は最後にあります)






【では場所をもう一度確認します】
石碑脇にあった福島城本丸想像図



同、縄張り図



を基に、現在の地図に当てはめてみるとこんな感じになるのではないかと思います(筆者の想像)
本丸は小学校と工場の辺りにあって、外堀の名残が用水となって地図上に残っているように見えます。
また城郭の外側は、日本海と「関川」に接していたと考えられます。




【周辺を散策】
古城小学校校庭から


隣接する工場敷地にかけて「本丸」があったと思われます。


冒頭の石碑が建立されている辺りが「内堀」に面した「虎口」石垣部分だったようです。


校舎南側にある用水路は外堀の位置と何となく符合しているように思えるのですが(笑)



その先は暗渠になっており、遊歩道として使われています。



背後には日本海と有数の港である直江津港があります。



城域西面の「関川」の河口は城域の北面にあたり、湾岸道路として整備され直江津港フェリー乗り場があります。



小学校校門から北(海)側の工場地帯に土塁らしき土の壁を発見!
な~んだ!遺構が残っているじゃん!と喜びましたが、後ほど訪ねた高田城公園内「上越市立博物館」の学芸員の方から遺構は残っていませんとキッパリ否定されました(笑)
この施設には福島城に関する展示もあるので是非立ち寄って頂きたいと思います。(上越市立博物館の情報は最後にあります)



【今回の散策で最大の発見(笑)】は小学校校庭以外で初めて「福島城」関連の文字と遺物を確認した事です。
小学校の校門から北へ約500m離れた道路沿いにある
「港八幡神社」


本殿に掲げてある由緒(沿革)によると
慶長12年(1607)福島城築城の際に城の守護神となる
慶長19年(1614)福島城廃城にともない石祠のみとなる
以上抜粋


なにっ!「石祠」って何?
と探すと、参道脇にありました(;^ω^)
これが「石祠」
つまり福島城の石垣?を祀(まつ)る祠(ほこら)


確かに「福島城」の額まで掲げてある


お賽銭を置き参拝の後開門
中には確かに「石」が鎮座されていました。


四角柱の石の上に屋根状の石の加工品
灯篭か塔婆か?
しめ縄を結んであるのでまさに御神体のようでもあります。


この謂れについて宮司さんにお聞きすれば興味深いお話が聞けたことでしょうね。残念なことをしました。
鳥居のある参道から表の道路に出ると神社の石垣も在りし日の福島城石垣に見えてきました。



越後上越三城物語り 
なぜか7年間と言う短命であった「まぼろしの福島城」

土と堀だけの「春日山城」「高田城」と比べ、天守閣は無かったが立派な石垣が積まれ、なおかつ広大な城域を持った福島城。せめて石垣だけでも残っていれば素晴らしい遺産だったのにと思わずにはいられませんでした。


【福島城】
名称(別名);
所在地;新潟県上越市港町二丁目
城地種類;平山城(海城)
築城年代;慶長12年(1607年)
築城者;堀秀治
主な城主;堀秀治、堀忠俊、松平忠輝
文化財区分;
近年の主な復元等;廃城;慶長19年(1614年)
天守の現状、形態;石垣、遺構の石垣上に「福島城址」碑、東南隅土塁

※出典、、、
地図;




【関連施設・福島城資料館】


住所;新潟県上越市港町2-16-1
長岡市立古城小学校内 デイホーム古城1階

※2020年12月6日現在コロナの関係で「当面休館中」でした。



【関連施設・港八幡神社】


住所;新潟県上越市港町二丁目9-2



【関連施設・上越市立博物館】


住所;新潟県上越市本城町7-7(高田城址公園内)
電話;025-524-3120
地図;

032 春日山城@新潟県上越市 令和二年(2020)12月6日 越後上越三城物語り 春日山城-福島城-高田城

2020-12-12 10:59:30 | 城歩き
前回のエントリーは→こちら
2013年11月に訪問した際は観光目的だったので曲輪などほとんど観ていませんでした(笑)

今回の目的は春日山城が高田城に機能を移した流れと、その狭間にあった福島城の手がかりを求めてのお城歩きです。
まず「福島城」を探訪し、城下での一杯を愉しんでからの春日山城登城というコースです。



最初に向かったのは
「春日山城跡ものがたり館」
謙信公や春日山城を紹介するビデオを上映しているほか、川中島合戦図屏風などを展示している。「ものがたり館」の隣、春日山城史跡広場では毎年8月に開催される謙信公祭りの「川中島合戦の再現」が行われるそうです。


住所;新潟県上越市大豆334
電話;025-544-3728
営業時間;9:00~16:30
定休日;月曜日(祝日の場合翌火曜日)
12月~2月の冬季期間は休業
駐車場有

既に冬の休業期間に入っているため施設に入ることはできませんでしたが、
「春日山城史跡広場」では春日山の裾野に巡らされた総延長1200mにもおよぶ総構の土塁や堀が復元展示されています。





「東城砦跡」から見た「ものがたり館」と復元された惣構



春日山城東方前面の防備砦であるとともに御館を結ぶ玄関口砦として重要でした(新潟県発行山城マップより)
東城砦には掘っ立て柱建物が復元されています。



ここから徒歩で山城を散策するには半日かかってしまうので、「謙信公銅像」まで車で移動します。
当日の行程は以下の通り。
春日山城と周辺の施設が掲載されたイラストマップです。
「ものがたり館」→「春日神社・鳥居」→「春日山神社」→春日山城各曲輪散策→「埋蔵文化財センター」→「林泉寺」という行程です。



「春日神社」
越後守護上杉氏の氏神。春日山城の名前の由来です。




【ここからは、いよいよ春日山城域】
詳細なイラストマップで行程を紹介します。



「春日山神社」
山形県米沢市の上杉神社から分霊され、謙信公を祭神として祀った神社。



茶屋・売店前の「謙信公銅像」
絶対ここで写真を撮りますよね(笑)



ここからは徒歩で登ります。
正面には各曲輪が階段状に並び頂上が本丸となります。
山肌には「空堀」や「たて堀」をみることができます。


いい天気でした(*´ω`)




「三の丸跡」
「景虎屋敷」「米蔵」を総称して「三の丸屋敷」と呼ぶ。それぞれの屋敷は段違いに造られ区分されている。、、、現地説明板より(紫色文章以下同)



三の丸・「上杉三郎景虎屋敷跡」
景虎は北条氏康の七男で上杉と北条の同盟締結の際、謙信の養子となり破格の待遇をうけていた。謙信公の死後跡目を争った「御館の乱」で景勝に敗れ非業の死を遂げた。



三の丸・「米蔵跡」
城機能の中核施設が置かれた場所として考えられている。



三の丸米蔵「土塁」
春日山城跡で最も良好な状態で残っている土塁はこの三の丸曲輪の防御の役割を果たしていた。
当時はこのような土塁が各曲輪に築かれ、春日山の守備を堅固にしていた。





「二の丸」
春日山城の中心をなしている。「御二階」「台所」とも記され井戸も残っている。




二の丸俯瞰
本丸直下にあって、本丸を帯状に囲っている様子は本丸警護のために造られた曲輪である事がわかる。



「護摩堂跡」
謙信公が出陣の前に護摩堂に籠り、護摩を焚いて戦勝や息災を祈願した。


「毘沙門堂跡」
護摩の修法と共に毘沙門天への信仰は、真言密教を深く信仰していたことを物語る。


「諏訪堂跡」




「天守閣址」



天守閣からの展望


本丸と天守閣を分断する切堀と城下の展望




「本丸」
天守台と共に春日山城の「お天上」と呼ばれたところ。




「井戸曲輪」
本丸址の後方一段低いところにある大井戸


廃城後400年たった今日でも満々と水をたたえる大井戸は春日山城が山城として最適の地であることを示している。


数十年前に井戸さらいをした際に滑車や杓などが発見されている。



「鐘撞堂」
時を知らせたのか、敵の侵入などの非常事態を知らせたのか?


井戸曲輪からは小高い丘に見える




「上杉景勝屋敷跡」
御館の乱で勝利をおさめ謙信公の跡目を相続した景勝の屋敷跡と伝えられている。景勝は謙信公の姉の子で甥にあたる。また直江城主兼続という知将を得て豊臣秀吉の五大老にまでなった。景勝屋敷跡とその周辺の屋敷跡は総じて大規模で、尾根を巧みに利用して段を削出し、数段で一つの屋敷を形成している。




「御成街道」
時の関白・近衛前嗣が通ったことからその名が付いた。謙信は二度の上洛を通じて前嗣と親交を暖めた。お互い年も近く酒も好きだったと伝えられている。謙信が天皇と拝謁できたのも前嗣の力添えだったという。前嗣は謙信を頼って越後府中(直江津)に3年間滞在した。当時京都に次ぐ大都市と言われ繁栄の極みにあった越後府中文化は前嗣の来訪によりさらに洗練されていった。



慶長3年(1598)謙信公の跡目を継いだ上杉景勝は、豊臣秀吉により「会津120万石に移封」され、それに伴って堀秀治が入封しましたが慶長12年(1607)直江津港近くに福島城を築城して移ると春日山城は城としての使命を終えました。


【春日山城】
《上杉謙信が居城とした戦国の巨大山城》
頚城平野の北西に位置する春日山にあって上杉輝虎(謙信)の居城地であった。この山上に本丸を構え二の丸三の丸をその下に配し土塁・濠を重ねて比隣に威勢を示した。頂上は蜂が峰と称し、眺望に富み付近の属城を十分に監視することができた。本丸址の後方一段低いところに大井戸があって夏でも水が枯れることが無く、その北方に毘沙門丸及びお花畑があった。また西方には鐘撞堂や景勝屋敷等があって、南方の二の丸三の丸方面には家臣の屋敷址があった。規模は極めて雄大である。文部省
、、、本丸にある説明版より

名称(別名);
所在地;新潟県上越市大字中屋敷字春日山
城地種類;山城
築城年代;正平年間(1346~70)ころ、天正年間(1573~92)
築城者;長尾景虎、上杉謙信・景勝の3代
主な城主;上杉氏、堀氏
文化財区分;国指定史跡
近年の主な復元等;
天守の現状、形態;伝天守台のみ残る
※出典、、、日本100名城 公式ガイドブック・日本城郭協会監修(学研)
地図;





「上越埋蔵文化財センター」
埋蔵文化財の保管や研究をしている施設。
春日山城の全容がわかるジオラマ展示のほか謙信公の生涯をタッチパネルで紹介している。
受付の職員が戦国コスプレでお迎えしています♡


御城印はこちらです


ラッピングバスは必見


こちらにも謙信公の銅像があるよ。背景には春日山全体像が写し込めるポイントです。


住所;新潟県上越市春日山町1丁目2-8
電話;025-526-5111
営業時間;9:00~11:00
定休日;火曜日(祝日の場合は翌日)、年末年始
入場料;無料



「林泉寺」
謙信が7歳から14歳まで文武の修業をしたお寺。


山門に掲げられた「第一義」の扁額は謙信直筆。


住所;新潟県上越市中門前1-1-1
電話;025-524-5846
拝観料;大人500円、小中学生250円
営業時間;9:00~17:00
駐車場有



















20250【初訪】 坂本02「チャーシュー02鶏塩そば新味」@新潟県上越市 12月6日 ミシュラン新潟に輝く清湯スープに後ろ髪を引かれる美味しさ!

2020-12-12 06:28:07 | 新潟・長野・山梨のラーメン
今回のお城歩き、城下町での一杯は、新潟県上越市からです。


2019年8月1日
新潟県上越市イチコ直江津西店の共同駐車場敷地内に新規出店し
2020年7月17日に発売された「ミシュランガイド新潟2020 特別版」でビブグルマンに選ばれた
麺屋 坂本02



ミシュランを獲得した東京のお店で修業した店主が独立開業したものです。
修業先はこちら
麺屋坂本01→こちら
同Twitter→こちら


共同駐車場の隅にある独立店舗。


北陸で例えるなら『自家製麺のぼる』のようなスーパーの敷地内に独立した店舗を構える形態です。
なので駐車場の心配はありませんよ。



先ず券売機で食券を買うシステム。
機能的な厨房をL字型に取り囲むカウンター席と、窓際のテーブル席。すごくオシャレで都会的な雰囲気です。



メニューはミシュラン新潟のシリーズ「塩」「醤油」
修業先のミシュラン東京シリーズ「中華そば」
そして限定と並びます。

今迄だったら当然ミシュラン新潟の塩とミシュラン東京の醤油の連食となるわけですが、最近食べていないので量が入りません。さらにタイトなスケジュールだったため今回はセオリー通り「券売機上段の左端」のメニューを頂きました。



チャーシュー 02鶏塩そば新味 950円(税込み)



美しく整えられた麺線、ほんのりピンクに染まったレアチャーと三つ葉の彩りも美しくまとまっています。

自分が大好きな塩清湯。
鶏の切れのあるスープは淡麗コク旨。
そして後口に雑味やのどの渇きを感じない塩梅が最高。
豚レアチャーシュー増しなので、豚の甘い脂やコクが加わり鶏豚清湯のような風味さえ感じます。




麺は全粒粉ブレンドの中太麺。
一見、日本蕎麦のような褐色の麺ですがボソッとした感じの無い、啜り心地の良い麺です。
やや加水が高めで、ツルっとした唇を通過する感覚と喉ごしも良い。
強靭なコシやゴワ感はなく、しっとりしなやかな食感で風味が鼻から抜けていきます。



最後に別添えの味変アイテムの香辛料を加えてみました。
黒胡椒を中心としたホールスパイスは意外にも刺激を押さえて、メインのスープを邪魔せず味を引き締めてくれました。





次回上越・中越のお城歩きの際にはもう一度立ち寄って、未食のミシュラン東京シリーズ「中華そば」を食べてみたいですねヽ(^o^)丿





【麺屋 坂本02】
お店のPR
ミシュランガイド新潟ビブグルマン2020掲載”鶏塩そば”をお洒落な店内にて堪能。駐車場有◎
上越大通りい沿いの交差点の一角に佇む、カフェのようなお洒落なラーメン店【麺屋 坂本02】。ミシュランガイド新潟ビブグルマンにも掲載された自慢の「鶏塩そば」、系列店”01”の味「中華そば」、両方のラーメンを味わえるのは当店だけ◎国産牛ローストビーフ丼・五目炊き込みご飯など、サイドメニューにもこだわりました。また、駐車場も完備しているので、遠方からお越しの方や買い物帰りのお食事なども大歓迎です♪

お店のTwitterは→こちら
住所;新潟県上越市五智1-14-35 イチコ直江津西店駐車場
電話;025-546-7393
営業時間;11:00~14:00 17:00~20:00
     ※スープ無くなり次第終了
定休日;無休
駐車場;イチコ直江津西店駐車場
地図;

142 苗木城@岐阜県中津川市 令和二年(2020)11月27日

2020-12-05 11:41:54 | 城歩き
国指定史跡【苗木城跡】
岩盤を利用した石垣と懸造の建物造
、、、眼下を流れる木曽川に架かる「城山橋」より撮影



歴史
岩村城は大永6年(1526)遠山一雲入道昌利が築き、子の景徳が住んだ。2代後、直廉の時代は、東美濃は武田信玄と織田信長がしのぎあい、岩村の兄景任と苗木の直廉(岩村から養子、弟)の遠山兄弟が間にあった。信長の時代に苗木城は別系の飯場遠山氏が入るが、信長の死後は森長可に攻められ、遠山友政は徳川家康の側につく。18年後の関ヶ原の戦いの直前、友政は家康の命で苗木城を奪還し、その功で1万石の大名となり、幕末まで国替えすることなくここを治めた。

縄張り
木曽川の流れを天然の水堀とし、高森山の山頂部に本丸、一段下がったところに二の丸・三の丸と続く縄張りである。随所に露頭する岩盤と石垣を組み合わせ、建物を建てられる平場を確保するなど自然の地形を最大限に有効活用していた。天守や櫓などなどの建物も崖から斜面に突き出して築く「懸造」である。各曲輪が、この規模の城では例のないほど大量の石垣で積み上げられているのも苗木城の特徴である。

見どころ
岩山と言う地形的な制約の中で造成された岩盤や、巨岩と一体化した石垣は見ごたえ満点である。推定復元された天守の骨組み(天守展望台)からは木曽川や恵那山、中津川市内が一望できる。、、、続日本100名城 公式ガイドブック・日本城郭協会監修(学研)




本年9月27日に登城した、岐阜県指定史跡 日本三大山城 【岩村城】、→こちら
717mの山頂部にそびえる六段壁(ろくだんへき)が圧巻で自分史上最高の感動を味わった。

しかし今回、それを上回る感動に打ち震えております。

こんな巨石を目にすることもないし、ましてやその上に城を築くなんて考えられないです!



先ずは立体模型で全体像をイメージしましょう。
西側、ちょうど冒頭の「城山橋」からの写真と同じ方向から俯瞰した様子だと思ってください。
すごく精緻に制作されている「苗木城模型」。、、、「苗木遠山資料館」所蔵

山頂の天守と岩肌にへばりつくように配置された曲輪群と櫓。最下段左手には独立した最大の石垣を持つ「大矢倉」が見える。
お城の壁が「赤土の壁」で塗りこめられていたため、城域全体が赤褐色に見えたという。
白い岩肌と赤土の壁の対比が麓の城下からもはっきり見えたことでしょう。
、、、吹き出し説明は筆者による



では苗木城縄張り図にて当日の行程を説明します。
駐車場は何ヶ所もあります。大形バスも停められる駐車場からは徒歩で「高森神社」脇から「足軽長屋」方面に行くことができます。
車で舗装された道を進み舗装された駐車場へ行くには、苗木資料館を過ぎた山道を入り「足軽長屋」方面に出ます。
車で最短を狙って行ったのは「苗木さくら公園」駐車場。
、、、苗木城跡パンフレットより引用



「苗木さくら公園」脇の巨石に度肝をぬかれる(;'∀')
軽自動車のサイズ(3.4×1.5×h1.8)に比較してざっと4×3.5×3m位、石の比重を2.6とすると
約33.6㎥(体積)×0.8(球形の比率)×2.6(比重)=87.4t
V=4/3πr³  rざっくり1.9として28.7m³×2.6=74.6t
概ね80tもある巨石がころがっている風景💦 
この先が楽しみですね(笑)



途中細い林道を進み未舗装の「さくら公園第1駐車場」にたどり着きました。ここからは林を抜け城跡まで200mの登山道ですが緩やかでした。




歩くこと3分(笑)めっちゃ近いやん
藪の中から突然大きな石垣が見えてきました。
めっちゃコーフンしました(^^)/
写真手前の石垣は「北門」、中央奥に見えるのが「天守」

城の外郭にあった土塀付きの門で、城の北側にあったためその名が付いた。脇にある池は雨水に頼る貯水池で馬の飲み水に利用されていました。、、、案内板より以下同



舗装された駐車場からの登城道との合流点にある「風吹門」

2階が「飼い葉蔵」、城下から「三の丸」への出入り口で「大手門」とも呼ばれており、昼夜を問わず人の出入りを監視していました。
城主が在城の時は開門していましたが江戸詰めで留守の時は閉められ、くぐり戸が使われていました。





三の丸にある「大矢倉」
17世紀中ごろに建てられた三階建ての苗木城最大の櫓。
1階は石垣で囲われ倉庫として使われていました。2階3階の壁には「狭間」が設けられており北側の防御の役割があった。



俯瞰してみると三の丸と大矢倉の全体が良く分かる。
「御鳩小屋」とも呼ばれていたそうですよ。





四十八曲がりから三の丸に出入りする門「駈門」


こちらも俯瞰してみます



「大門」
苗木城で一番大きな大門は2階建てで三の丸と二の丸を仕切っていました。門の幅は二間半(約5m)で2階は物置として使われていました。領主の参勤交代の出立など大きな行事以外は空けず、普段はくぐり戸を使っていました。



「御朱印蔵」
切り石できっちり積まれた石垣の上に建てられたご朱印蔵には、将軍家から代々与えられた領地目録や、朱印状など重要な文書や刀剣類などが収められていました。これら収蔵品の虫干しは年に一度必ず行われ、蔵の出入りには梯子が使われていました。




「綿蔵門」
本丸へ登る道を遮る形で建っていた綿蔵門は夕方七ツ時(午後4時)以降扉が閉められ、本丸には進むことができませんでした。年貢として納められた真綿が2階に保管されていたことが名前の由来です。





「坂下門」
坂の下にあったので坂下門と呼ばれていました。別名「久世門」といい、三代領主友貞の奥方の実家で苗木城改修の際に力添えをした、徳川家譜代の名家「久世家」の名から来ていると伝えられています。



この門は礎石とその手前の石段が状態よく残されています。



「千石井戸」
苗木城内で一番高い場所に位置するこの井戸は、高所にも関わらずどんな日照りでも枯れることは無かったと伝えられており、千人の用を達することからその名が付いたと言われています。



天守近くにある井戸で今でも水が湧き出ています。




千石井戸の北側には懸け造の小屋が並んでおり、渋紙蔵、山形蔵、郡方蔵などがありました。


「本丸口門」
千石井戸の西側にある本丸口門は、本丸と二の丸の境となる門で、総欅で作られていたことから「欅門」と呼ばれていました。




「武器蔵」「具足蔵」
鉄砲や弓矢等の武器蔵で礎石や縁石は当時のまま残されています。




「玄関口門」
玄関口と言う名の通り、このルートを抜けていくのが天守に行く正式な道でした。この門の先には土廊下の建物が続いており、奥は小屋と繋がっていました。通常は鍵が掛けられて、ここから先へは入ることが禁じられていました。鍵は目付け役が管理していました。




「本丸玄関」
本丸玄関は天守台より一段低い位置にありました。そのため玄関を入ると苗木城の特徴の一つである懸け造の千畳敷を通り、回り込むようにして南東側から天守台へ入りました。
玄関には玉石が敷かれていたことが絵図に描かれており、整備前の調査でも多くの玉石が確認されました。この石敷きはその玉石を利用して復元したものです。




「苗木城天守建物」
苗木城の天守は二つの巨岩にまたがる形で作られ三層になっていました。



地階部分は「天守縁の下」と呼ばれ、板縁を入れて二間(4m)×二間半(5m)ほどの広さで、岩の南西隅にありました。
1階の「玉蔵」は建物の床面積が三間四方(6×6m)ほどありました。ここには地階と二階に通じる階段がありました。
2階部分は巨石の上にあり、四間半(9m)×五間半(11m)ほどの広さでした。現在設けられている木造構造物はこの2階部分の床面を想定して復元したものです。




岩の柱穴は当時のものをそのまま利用しています。


推定復元された柱と築城時の柱穴


柱穴跡
ノミの跡が当時の職人の手作業を妄想させます。



推定復元された天守2階部分は展望台になっています。
木曽川や恵那山、中津川市街が一望できます。



「馬洗岩」
天守台の南下にあるこの巨石は馬洗い岩と呼ばれています。「この石回り二十三間弐尺」とあり周囲45mほどの花崗岩質の自然石です。
かつて苗木城が攻められ、水の手を切られた時にこの岩の上に馬を載せ、米で馬を洗い水が豊富であるかのように敵を欺いたことが名前の由来と伝わっています。




笠置矢倉から見上げた馬洗岩と天守
天守と比較すると岩の巨大さがわかる。




「笠置矢倉」
本丸から見て西側にある櫓で通常は何も置かれていませんでした。櫓は三層の掛造りで巨岩の上に建てられていました。



ここからの眺望は良く笠置山が正面に目ることから笠置矢倉と呼ばれていました。
眼下には木曽川とそこに架かる城山橋。(冒頭の写真はこの城山橋から撮影しました)



「不明門」
笠置矢倉下方向にあった二階建ての門で二階部分は物置として使われていました。幅一間(約2m)ほどの通用口の両側の壁は石垣でできており、高さは最大3.2mありました。普段は締め切られ、忍びの門と呼ばれていましたが、現在門から外へつながる道は確認されていません。



「的場跡」
弓の稽古の的場が二か所設けられていました。
二の丸にあるこの的場は領主居間の南側の一段低いところにあり、長さ約30m幅7~8mほどで、剣や槍、鉄砲の稽古も行われていました。
残っている的の土塁は長さ3m、高さ1mほどで右側は石垣、左側と奥は土塁で囲まれていました。




天守北東側にあるもう一つの的場



「二の丸」
領主遠山家の住居や家臣の集まる部屋がありました。



「台所門」
二の丸に出入りするための門



「竹門」
東西二か所にあった門。
こちらは西側、足軽長屋と風吹門の間に設置されていた門です。



「足軽長屋」
竹門を出て高森神社参道を過ぎた辺りにある広い削平地。



ここから東方向に天守が見える。



木曽川に架かる城山橋から見る苗木城の姿は忘れることができません。



【苗木城】
《遠山氏が築き、奪回し、守り抜く》

名称(別名);霞ヶ城、赤壁城、高森城
所在地;岐阜県中津川市苗木
城地種類;山城
築城年代;大永6年(1526)
築城者;遠山一雲入道昌利
主な城主;遠山氏
文化財区分;国指定史跡
近年の主な復元等;昭和59年(1984)度から本格的整備が開始され、史跡見学ルートの整備、二の丸・三の丸の石垣整備、本丸跡一帯の石垣整備を平成16年(2004)度までに行った。
平成17年度には展望台を整備した。平成18年(2006)度から2023年までに城内道などの道の整備と、帯曲輪・二の丸・三の丸の石垣の整備を行う予定。
天守の現状、形態;木枠懸造により推定復元

※出典、、、続日本100名城 公式ガイドブック・日本城郭協会監修(学研)
地図;





【苗木遠山資料館】

苗木10521石の領地に比べ格段に立派な石垣とこの資料館は流石
外様大名ながら幕府の「若年寄」に就任。譜代に準じる特遇を受けていた所以である。



苗木城唯一の遺構、城門「風吹門」



周辺には大名墓地、遠山氏の墓所がある



付近の民家脇の巨石
巨石がフツーに存在する地



高森神社
苗木藩の廃仏廃寺(廃仏毀釈)
明治新政府の方針と共に取り締まりの役職を拝命した事、さらに藩主も同調したため
徹底した廃仏毀釈で城下一帯から仏教色は消え、神道に統一された。その陰で厳しい弾圧もあったと地元民は語る。未だにこの地区に仏教は無いそうです。




中津川市苗木遠山資料館
住所;岐阜県中津川市苗木2897番地の2
電話;0573-66-8181
開館時間;9:30~17:00
休館日;月曜日(12月27日~1月5日)
入場料;330円


039 岐阜城@岐阜市金華山 令和二年(2020)11月27日

2020-12-03 08:47:31 | 城歩き
国指定史跡 【岐阜城】
《天下布武を目指した信長の拠点の城》




前回のエントリーは→こちら
2011年11月20日以来なのでちょうど9年ぶりの訪問。



朝から中津川市の「苗木城」、恵那市の「明知城跡」と、ご飯を食べる暇もなく3城目の「岐阜城」登城(;'∀')

【おさらい】
織田信長の岐阜城は徳川家康により廃城。天守・櫓・石垣などは他に転用される。
明治以降、模擬天守建設に伴い石垣を積みなおしたため当時の原型を留めていない。
昭和31年に鉄筋コンクリ―トの模擬天守建設の際石垣を補修したため礎石等の遺構は失われたとみられる。
山麓の居館跡の発掘が終了し、現在は山頂部の石垣の調査が継続中で、次々に新たな発見が報告されています。
現在の天守台の下の部分の発掘や、「めい想の小径」に至る「裏門」あたりでは信長時代の石垣が発見されたとのことです。
観光客レベルではそんな発掘現場に足を踏み入れることは叶わず、今ある石垣に往時を重ね合わせるのが精一杯です。



【山上部の石垣】
山上部には戦国時代に造られた石垣や城主の権威を誇示する巨石列の巨石が現存しています、、、岐阜市現地案内板
「一の門」
巨石と石垣の一部が露出している。岐阜城の巨石の中でも小型で、後斎藤期の可能性がある。



「二の門」周辺の石垣
大き目の石材を使用し、隙間にも石が入念に詰められている。信長期以降の築造と考えられます。



「天守台」と「上台所」を結ぶ通路の石垣
二段状に積まれた石垣。信長期以降の築造と考えられます。



「天守台」周辺の石垣
算木積みを彷彿とさせる積み方が見られる。信長期よりさらに後に積まれた可能性がある。



「裏門」の巨石
「一の門」と同じ後斎藤期、もしくは信長期のものと考えられる。

「裏門」の石垣
岩盤の窪みに小型で横長の石材で作られている。後斎藤期の石垣と考えられる。


2019年4月の岐阜市による新たな石垣の報告は→こちら


【その他の石垣】
「天守台」石垣
石は当時のものだが規模や積み方は明治期以降の2回にわたる模擬天守建設に伴う積みなおし。






「切通(堀切)」周辺の石垣



「レストラン(太鼓櫓)」周辺の石垣






「下台所」から「上台所」崖に架かる二段石垣を下から見上げる




【信長居館(御殿)発掘現場】
昭和62年度から始まった発掘調査は平成25年度でいったん終了し、その成果は公園内の「日本遺産・信長公居館発掘調査案内所」で公開されています。
同ホームページは→こちら






全体をケーブルカーより俯瞰



入り口



巨石列が信長公の威厳と権威を示す
山頂の石垣における巨石列にも見られる



庭園発掘現場
滝や池がいくつも配置されていた



奥座敷
赤い橋(再現)川から滝へと流れる



三重の塔と岩盤
巨大な岩盤が描く自然の驚異を借景にしたのか



下はNHK大河「麒麟がくる」で賑わっている
麒麟がくる館とは別のケーブルカー乗り場にて展示



山頂の「岐阜城資料館(隅櫓)」にて展示




【岐阜城】
《天下布武を目指した信長の拠点の城》


名称(別名);稲葉山城
所在地;岐阜市金華山天守閣18
城地種類;山城
築城年代;建仁年間(1201~04)、天文年間(1532~55)、永禄年間(1558~70)
築城者;二階堂行政? 齋藤道三 織田信長
主な城主;二階堂氏?、斎藤氏、お出汁
文化財区分;国指定史跡
近年の主な復元等;平成9年に大改修
天守の現状、形態;望楼型 三重四階 鉄筋コンクリート造り(再建)
※出典、、、日本100名城 公式ガイドブック・日本城郭協会監修(学研)

地図;


明智の城下町散策「明智鉄道」@岐阜県恵那市明智町 2020年11月27日

2020-12-02 10:19:10 | ネイチャー・旅行・まつり
朝一で中津川市の「苗木城」に登城し、なんとかお昼前に恵那市明智町の「明智城跡」にたどり着いた。→こちら
ここで旅を終えるのだったらゆっくり城下町を散策するところだが、まだ「岐阜城」登城という宿題が待っている。

この明智町では「明智光秀」生誕の地として、NHK大河「麒麟がくる」放映に併せて大河館がオープンし連日ミーハーなファンで賑わっている。
明智光秀生誕の地や明智城については岐阜県可児市、長山城(明智長山城)とする説もある。

ここ恵那市明智町はとにかく盛り上がっているヽ(^o^)丿
元々は「大正ロマンのまち」
「大正村」が有名。→こちら

大正時代の建物が残る古い町並みを散策するのも楽しい。

それと地元の足として第3セクターの「明智鉄道」が頑張っている。

今回は時間が無かったこともあり、「明智鉄道」に絞って城下町を愉しみました。

駅に到着すると色鮮やかにラッピングされた電車が目に飛び込んできました。
ホームと駐車場のフェンス越しに見ると、なんと「明智光秀」「麒麟がくる」のラッピング電車ではありませんか!
ラ・ラッキー! キタ――(゚∀゚)――!!



出発準備が整っているようなので、急いでホームに向かいました。
改札口で入場券を買おうとしたら、「写真を撮るだけならいりませんよ」と親切な駅員さん。邪魔にならないよう、また安全に配慮しながらホームで撮影させていただきました。
駅舎内



ホームにある【①(始発駅)「明智」の駅名プレート!】


明智光秀の生誕記念ヘッドプレート


ホームで待機のNo14黄色とNo12青色の「急行きのこ列車 大正ロマン号」もパチリ!




4両編成の豪華版





客車は先頭車両のみで、


あとは食堂車。
すでにお弁当が並べてあるところをみると貸し切り電車かな?



11:42発
駅長さん?助役?
とにかく前方ヨーシ、ドアヨーシ指差し確認の後 シュッパーツ!







退避戦のローカル電車は明智電鉄のオリジナル塗装でしょうか。
追い越しの図



お目当ての電車が去り寂しくなったけど、ミュージアムショップならぬレールウェイショップ(笑)




今「鉄印」が新たなブーム
「御朱印」から「御城印」そして「鉄印」
第3セクターの鉄道会社が参加して「鉄印帳」に「鉄印」を押してもらう。
読売新聞記事→こちら

「たびよみ」の記事は→こちら

「鉄印を求めて全国へ」→こちら

その他検索すればたくさんヒットする!

自分は「御城印」も集めていないので「鉄印」にも興味なし、、、ウソ!
せめてここだけは買えばよかった(;^ω^)




【明智鉄道 明智駅】
住所;岐阜県恵那市明智町445-2
公式HP→こちら
電話;
地図;

00 明知城跡(白鷹城)@岐阜県恵那市明智町 令和二年(2020)11月27日

2020-12-02 09:07:37 | 城歩き
岐阜県指定史跡 【明知城跡】
遠山十八城のひとつで土塁を主とした山城。

美濃国東濃地方の地頭
「岩村遠山家」→こちら
「苗木遠山家」→こちら
「明知遠山家」を「遠山三家」と呼ぶ。

この明智町では「明智光秀」生誕の地として、NHK大河「麒麟がくる」放映に併せて大河館がオープンし連日ミーハーなファンで賑わっている。



その大河館(大正ロマン館)近くに遠山家菩提寺・龍護寺がある。



明智遠山氏と土岐明智氏の系譜の中で「明智光秀」が土岐氏の流れを汲むと列せられている。



しかも歴代遠山氏の墓地とは別に「明智光秀公御霊廟」まで建立されている。



異説もあろうが、先ずは明智町に敬意を表し参拝する。





その龍護寺を少し行くと山へ向かう脇道があり、その先に「白鷹(明知)城跡」がある。



最初に迎えてくれるのは「馬場」
ここで下馬し、馬を繋いで徒歩で登城したのか?さしずめ駐車場かな?



「稲荷神社登城口」より登城



遊歩道横には実際に「稲荷神社」があって参道と鳥居、拝殿がある。


ピークは過ぎたようだが紅葉と鳥居の組み合わせが美しい。


ひなびた本殿の湯塗りの扉に錆びた釣り灯篭がシルエットになり風情がある。


脇にある石灯篭にも「桔梗紋」が刻まれ、木漏れ日が何とも言えない郷愁を誘う。



いきなりの道草でしたが、改めて遊歩道「大手道」に戻り歩を進める。



ここで縄張り図と工程を紹介します。



堀切のような「土塁」を施した曲輪跡



「大手門東砦」
ここが侵入者を食い止める重要な仕掛けだったのでしょうね。



「枡形」
大手道を直角にクランクさせ敵の侵入速度を低下させ、砦の上部から停滞した敵を狙い撃ちする構造と機能だと考えられます。



「曲輪」
なんの施設だったのか、説明はありませんでした。



「畝状空堀」
下から攻め上ってくる敵を、細い溝状の道(畝)に誘導することで一列にさせ、正面から狙い撃ちする防御施設。



「堀切」
かなり大規模な溝幅と高さを有する堀切で上部の本丸を遮断していた。



現在は休憩所として「東屋」が設置されています。
この堀切を別角度で見てみます。



上にある「曲輪」から見下ろすと侵入が容易でないことがわかります。



ここで「堀切」から「本丸」までの位置関係を立体的に、高さで比較説明したイラストを紹介します。
下から「堀切」、「枡形虎口」、「帯曲輪」、「二の丸」、「本丸」と配置され守りが固められているのがわかります。




「武者走り」
堀切から土橋までの細い道は家臣の登城に使われていたんでしょうか。



「虎口曲輪」
下に堀切と東屋が見えます。



「帯曲輪」



「腰曲輪」
本丸の高台下にあって本丸を防御する役割があった。



「出丸」
立体イラストでは「土橋」の先に配置されています。



先端にはかなりの削平地があり



土塁も築かれ、一部には石垣のようなものも露出しており興奮しました。



出丸の先端部は「切岸」となっており、容易に登ってこれないようになっています。



出丸「礎石」
数少ない石の遺構にさらに興奮。櫓か何かの礎石なんでしょうかね。



「二の丸」から階段を登ると「本丸」




「本丸」標識



休憩所や縄張り図の案内看板も設置されている



先端部からの展望



明知城は信濃・三河・岡崎に通じる交通の要衝にあり、織田、武田、豊臣、徳川の攻防で取ったり取られたり。
最終的には徳川政権で廃城となり明智遠山氏は徳川家の旗本として江戸で存続。
菩提寺・龍護寺の系譜系図によれば、末裔に「町奉行・遠山金四郎」TVでお馴染み遠山の金さんの名前も見受けられる(笑)





【明知城】
《》

名称(別名); 白鷹城
所在地;岐阜県恵那市明智町
城地種類;平山城
築城年代;宝治元年(1247年)
築城者;遠山景重
主な城主;明知遠山氏
文化財区分;県指定史跡
近年の主な復元等;
天守の現状、形態;

※出典、、、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

地図;