民話 語り手と聞き手が紡ぎあげる世界

語り手のわたしと聞き手のあなたが
一緒の時間、空間を過ごす。まさに一期一会。

「老骨の悠々閑々」 半藤 一利 

2016年04月18日 00時07分06秒 | 健康・老いについて
 「老骨の悠々閑々」 半藤 一利  ポプラ社 2015年

 「その手は桑名の焼蛤」 P-196

 老齢になるということが、つくづく情けなく思えてならないことがある。突然、将棋が弱くなった。何だ、そんな他愛のないことかと、君、笑い給うことなかれ。かつては鎧袖(がいしゅう)一触、お茶の子さいさいであった青年を相手に、つい最近は、哀れなる哉、一敗地に塗(まみ)れつづけた。
 某月某日、かの青年を相手に気力横溢させて盤に向かった。なのに、たいして手数もいかないうちに、早くもやる気が消滅。投げやりになってしばし手数をすすめていると、青年が大声で怒鳴った。
「二歩だ、勝ったぁ! 」
 ご存じかと思うが、将棋のルールでは同一線上に二歩を指すと、瞬間に、指したほうが負けになる。その二歩をわたくしが指したのである。茫然と指した歩を眺めているとき、突然、口をついてこんな言葉がフッと出た。
「二歩やカラスの泣き別れ」
 何を世迷い言を言っているのかと青年がびっくりするより、実はこっちがもっとびっくりした。
 これは長いこと使わなかったのでずり落ちていたが、わが記憶の襞の壁の奥のほうに留めてあった言葉なのである。左様、わが幼少時代、大人たちの将棋を眺めながら、しばしば耳にした江戸っ子伝来の洒落(しゃれ)なのである。それが思いもかけぬ二歩の敗戦で蘇った。書くまでもなく、これは「憎やカラスの泣き別れ」をもじったものである。

 これが契機で、その昔、縁台将棋で、大人たちが駒を動かしながら、はげしくやり合っていた舌戦の、気の利いた洒落や地口がつぎからつぎへと想いだされてきたのである。
 で、以後の対局では、さっそく青年相手に存分に使うことにした。消滅せんとする気力、いや棋力か、の補充として。
「さあさあ、王手だ。王手うれしや別れのつらさ、だ」
「えっ、何ですか、それ」
「おぬし、経験不足とみえるな。恋人と逢うのはうれしいが、別れるのはつらい、ということじゃ」

 (ここでその種の言葉を列記。いくつかあげると)

「その手は桑名の焼蛤よ」
「何だ、その手は。驚き桃の木山椒の木だ」
「恐れ入谷の鬼子母神、ちっとも上手くならねえな」
「ナニ、王手飛車取りだと。何がなんきん唐茄子カボチャ」
「あたりき車力に車ひき」
「おっと合点承知之助」
「運は天にあり、ぼた餅ゃ戸棚」

 考えてみると、昔はこの種の楽しい言葉が巷に溢れていた。何も江戸時代ばかりではない。日本人は掛け言葉による巧まざる洒落を、古くから好んだようなのである。

 (後略)

 半藤 一利 (はんどう かずとし) 昭和5年(1930)、東京生まれ。東京大学文学部卒業後、文藝春秋入社。「週刊文春」「文藝春秋」編集長、専務取締役、同社顧問などを歴任。著書に「日本の一番長い日」など。

「本居宣長」 学ぶことが生きること 吉田 悦之

2016年04月16日 00時07分13秒 | 古典
 「日本人のこころの言葉 本居宣長」 吉田 悦之(本居宣長記念館館長) 創元社 2015年

 「学ぶことが生きること」 P-140

 物まなびの力。 (『家のむかし物語』)

 主体的な学問のお蔭。 (現代語訳)

 「物まなび」の物は「広く言うときに添える言葉」であると宣長は言っています。そこには漠然とした広がりが感じられますし、「物の怪(け)」とか「物語」という例を見ると、どうも「もの」には不思議な力が宿っている気すらします。
 この「物まなび(学び)」は、普通は「学問」と訳します。(中略)

 突飛なことをいうようですが、宣長は「物学びの化身」だったのかも知れません。
 奈良朝期に始まった日本の学問(物学び)が、長い年月を経ていく中で、百年を経た器物が「付喪神(つくもがみ)」という精霊になるように、あるときとうとう人の形を借りて「物学びの化身」としてこの世に姿を現した、それが宣長だった。そんな思いに駆られることがあります。

 本当に「物学び」は、宣長の人生そのものになっていたようです。「おのが物まなびの有りよう」という学問遍歴を書いた文章だけで、生涯の最も大切なことが語り尽くせる人なのです。
 (中略)
 宣長にとって「物学び」とは、抱いた疑問を解決しながら、志を実現していくことです。倦まず弛まず長い時間をかけて納得いくまで続けることです。学ぶことが生きることなのです。そこには、意志の勝利というか主体的な力強さが感じられます。
 裏返すと宣長の学問は、たとえば天下国家や世のため人のためのものではないということです。どこまでも自分のためにする学問です。
 (後略)

 (作者 注意書き)原文は原則として新字体・現代かなづかいに改め、読みやすくするために、適宜、ふりがなや句読点をつけるとともに、かなを漢字にするなどの調整をしました。和歌・俳句は、旧かなづかいのままとし、ふりがな、濁点をつけました。



「本居宣長」 時を待つ 吉田 悦之

2016年04月14日 00時11分35秒 | 古典
 「日本人のこころの言葉 本居宣長」 吉田 悦之(本居宣長記念館館長) 創元社 2015年

 「時を待つ」 P-138

 たとい五百年千年の後にもあれ、時至りて、上にこれを用い行い給(たま)いて、天下にしきほどこし給わん世をまつべし。これ宣長が志(こころざ)し也。 (『うい山ぶみ』)

 たとえそれが五百年、千年後であったとしても、時が到来し、上に立つ者がこれを採用して世の中に広めてくださる時を待つべきです。これが私の考えです。 (現代語訳)

 ケヤキは三百年先を見越して植えるそうですが、その年月をどのくらいの長さに感じるかは、文化や時代、人、また職業でもずいぶん違います。
 引用文は、学者の本分は物事を解明し、その結論を人に教えたり、書物に書き記すことであり、決して無理に広めようとしたり、ましてや今を変革しようとしてはならない、という発言の最後の部分です。
 ここで注目したいのは、五百年、千年後に期待するという実に長いスパンの思考です。この宣長の言は決して当てずっぽうの数字ではなく、リアリティがあるのです。

 考えてもみてください。712年成立の『古事記』は宣長が再発見するまでに千年以上の年月を要し。また『源氏物語』は1008年成立説を採るなら、750年ほどかかっています。宣長はそんな長い時間軸の中で学問しているのです。
 ここにはまた、「無理をするな、なんとかなる」と信じる楽観主義者の宣長がいます。
 未来を信じる心、これこそが古典を読むことで鍛えられた目であり、精神なのです。

 (作者 注意書き)原文は原則として新字体・現代かなづかいに改め、読みやすくするために、適宜、ふりがなや句読点をつけるとともに、かなを漢字にするなどの調整をしました。和歌・俳句は、旧かなづかいのままとし、ふりがな、濁点をつけました。



本居宣長」 学問は継続に尽きる 吉田 悦之

2016年04月12日 00時10分17秒 | 古典
 「日本人のこころの言葉 本居宣長」 吉田 悦之(本居宣長記念館館長) 創元社 2015年

 「学問は継続に尽きる」 P-120

 詮ずるところ学問は、ただ年月長く倦まずおこたらずして、はげみつとむるぞ肝要にて、学びようは、いきょうにてもよかるべく、さのみかかわるまじきこと也。 (『うい山ぶみ』)

 結局のところ、学問というものは、長い時間をかけて、飽きることなく怠ることなく一生懸命にすることが大事で、その方法はどのようであってもかまわないし、たいした問題ではないのです。 (現代語訳)

『うい山ぶみ』は、門人たちからの求めに応じて渋々書かれた学問の入門書です。
 今も書店に行けば、たくさんの勉強法や情報処理、メモの取り方といった本が出ています。成功者に聞くのはヒントになることも多く、読むと面白いものです。渋々書かれた本書でしたが、やはり実践者の言だけに重みがあります。
 でも、ものを教えることが大好きだった宣長が、なぜそれを書くことには消極的だったのでしょうか。教えたくなかったのでしょうか。

 実は宣長には、学問の方法については、取り立てて言うことは何もなかったのです。好きなようにすればよいのです。自分もそうしてきたのですから。
 しかしそれでは満足してくれないので、経験をふまえて語ってみたのです。
 結論としては、王道はない。しかし大切なことはあります。それがこの一節です。これに比べたら、みんなが期待する研究法など、たいした問題ではありません。
 もし、学問に近道があったとしても、宣長なら通らなかったはずです。考えること、調べることが楽しくて、またそれが宣長にとって生きること、喜びだったからです。
 学問とはこのような人たちによって進歩していくものなのです。

 (作者 注意書き)原文は原則として新字体・現代かなづかいに改め、読みやすくするために、適宜、ふりがなや句読点をつけるとともに、かなを漢字にするなどの調整をしました。和歌・俳句は、旧かなづかいのままとし、ふりがな、濁点をつけました。



「本居宣長」 自国のことを知らない人たち 吉田 悦之

2016年04月10日 00時22分09秒 | 古典
 「日本人のこころの言葉 本居宣長」 吉田 悦之(本居宣長記念館館長) 創元社 2015年

 「自国のことを知らない人たち」 P-110

 本(もと)と末(すえ)をきちんと区別する、これが宣長の基本です。
 不思議なことですが、日本人には自国の文化を軽んじる風があります。英語を教えることには熱心でも、日本語に関しては文章の体をなさなくても目をつむる、というのが今日の日本の状況です。「ハローウィン」や「クリスマス」には詳しくても、正月行事の「左義長(さぎちょう)」や、「山の神」も知らない日本人が増えています。これは今に始まったことではありません。

 まず日本語をきちんと使えること、歴史を知ることが最初なのです。失われつつある民族行事はともかくも、日本の伝統文化、あるいは作法や所作の洗練された感覚は、いま世界から注目されています。しかし、優れているから学べというのではありません。自国のことだからなのです。判断基準、あるいは思考形式は借りてくることはできません。自分の生まれ育った国を離れることはとても難しいことです。
 当時の知識人は中国を学ぶうちに、本末転倒、中国が中心になってしまい、「漢意(からごころ)」を絶対視することの恐ろしさを忘れていることに、宣長は警鐘を鳴らしたのです。

 (作者 注意書き)原文は原則として新字体・現代かなづかいに改め、読みやすくするために、適宜、ふりがなや句読点をつけるとともに、かなを漢字にするなどの調整をしました。和歌・俳句は、旧かなづかいのままとし、ふりがな、濁点をつけました。