民話 語り手と聞き手が紡ぎあげる世界

語り手のわたしと聞き手のあなたが
一緒の時間、空間を過ごす。まさに一期一会。

「文人囲碁会」 その2 坂口安吾

2015年08月16日 00時12分10秒 | エッセイ(模範)
 「文人囲碁会」 その2 坂口安吾 「教祖の文学」草野書房 所載

 倉田百三なる先生がこれ又喧嘩碁で、これは然し、万人が大いに意外とはしないようで、彼は新橋の碁会所の常連であった。豊島、川端、村松三初段は全然腕に自信がなくて至って、鼻息が弱いのだが、倉田百三初段の鼻ッ柱は凄いもので、この自信は文士の中では異例だ。つまり、この鼻ッ柱は宗教家のものだろう。政治家なども大いに自信満々のようだが、文士というものは凡そ自信をもたない。
 僕と好敵手は尾崎一雄で、これは奇妙、ある時は処女の如く、あるときは脱兎の如く、時に雲助の如く喧嘩腰になるかと思うと、時に居候の如くにハニカむ。この男の碁の性格は一番複雑だ。これ又大いにその文章を裏切っているがやっぱり碁の性格が正しいのだと私は思っている。
 文人囲碁会で最も賞品を貰うのは尾崎一雄で、彼は試合となると必らず実力以上のネバリを発揮する。このネバリは尾崎が頭ぬけており、文士の中では異例だ。わずかに、僕がそれにやゝ匹敵するのみで、他の諸先生はすぐ投げだしてしまう。豊島、川端先生など、碁そのものは喧嘩主義だが勝負自体に就ては喧嘩精神は旺盛ではないようで、文人的であり、尾崎と僕の二人だけが素性が悪いという感じである。
 文人囲碁会は、帝大の医者のクラブ、将棋差しのチーム、木谷の碁会所クラブなどゝ試合をしたが、勝ったことは一度もない。豊島大将を始め至って弱気ですぐ投げたり諦めたりしてしまうから、他流試合には全然ダメで、勝つのは尾崎と僕だけだ。尾崎と僕は必ず勝つ。相手は僕らより数等強いのだが、断々乎として、僕らは勝ってしまうのである。
 尾崎は僕より弱くて、僕と尾崎が文人囲碁会チーム選抜軍のドン尻だが、他流試合ともなると、敵手のドン尻は大概二三級で、本来なら文句なしに負ける筈だが、全く、僕はよくガンバる。こういう闘志は僕の方が、やゝ尾崎にまさっている。

「文人囲碁会」 その1 坂口安吾

2015年08月14日 00時05分18秒 | エッセイ(模範)
 「文人囲碁会」 その1 坂口安吾 「教祖の文学」草野書房 所載

 先日中央公論の座談会で豊島与志雄さんに会ったら、いきなり、近頃碁を打ってる?
 これが挨拶であった。四五年前まで、つまり戦争で碁が打てなくなるまで、文人囲碁会というのがあって、豊島さんはその餓鬼大将のようなものだった。
 僕は物にタンデキする性分だが碁のタンデキは女以上に深刻で、碁と手を切るのに甚大な苦労をしたものだ。文人囲碁会で僕ほどのタンデキ家はなかったのだが、その次が豊島さんで、豊島さんはフランス知性派型などゝ思うと大間違い、僕は文士に稀れなタンデキ派と考えている。
 豊島さんの碁は乱暴だ。腕力派で、凡そ行儀のよくない碁だ。これ又、豊島さんの文学から受ける感じと全く逆だ。
 川端康成さんの碁が同じように腕力派で、全くお行儀が悪い。これ又、万人の意外とするところで、碁は性格を現すというが、僕もこれは真理だと思うので、つまり、豊島さんも川端さんも、定石型の紳士ではない腕力型の独断家なのでお二人の文学も実際はそういう風に読むのが本当だと思うのである。
 更に万人が意外とするのは小林秀雄で、この独断のかたまりみたいな先生が、実は凡そ定石其ものの素性の正しい碁を打つ。本当は僕に九ツ置く必要があるのだが、五ツ以上置くのは厭だと云って、五ツ置いて、碁のお手本にあるような行儀のいゝ石を打って、キレイに負ける習慣になっている。
 要するに小林秀雄も、碁に於て偽ることが出来ない通りに、彼は実は独断家ではないのである。定石型、公理型の性格なので、彼の文学はそういう風に見るのが矢張り正しいと私は思っている。
 このあべこべが三木清で、この人の碁は、乱暴そのものゝ組み打ちみたいな喧嘩碁で、凡そアカデミズムと縁がない。
 ところで村松梢風、徳川夢声の御両名が、これ又、非常にオトナシイ定石派で、凡そ喧嘩ということをやらぬ。この御両名も文章から受ける感じは逆で、大いに喧嘩派のようだけれども、やっぱり碁の性格が正しいので、本当は、定石型と見る方が正しいのだと私は思っている。
 喧嘩好きの第一人者は三好達治で、この先生は何でも構わずムリヤリ人の石を殺しにくる。尤も大概自分の方が殺されてしまう結果になるのだが、これ又、詩から受ける感じは逆で、何か詩の正統派のような感じであるが、これも碁の性格が正しいのだと私は思う。


顔あげ隊 マイ・エッセイ 14

2015年08月10日 00時16分19秒 | マイ・エッセイ&碧鈴
   顔あげ隊
                                                
 2013年9月、宇都宮美術館が主催する館外プロジェクト、「おじさんの顔が空に浮かぶ日」 がスタートした。 屋内の展示室を飛び出して、屋外でも美術作品に触れる機会をつくろうと、三十代前半の男二人女二人で構成された現代芸術活動チーム、「目」に委託した企画である。
 月に一度、午後3時から5時まで、オリオン通りにあるニュースカフェの二階を借り切って、市民が誰でも参加できる公開ミーティングを開いていた。

 去年(2014年)の2月、(どれ、どれ、どんなことをやっているのかな)のぞいてみた。年齢層もまちまちな男女が、中央のテーブルを囲んで二十人くらい、そのまわりに十人くらいがイスにすわっている。
(あれっ、ちょっとイメージが違うな。おじさんの顔と言いながら、ほんとのおじさんはいないじゃないか)
 場違いな空気にとまどいながら席につく。ミーティングは初参加の人も何人かいて、まずは自己紹介からはじまる。
 オレは「ヤジウマとしてやってきたおじさんです」とあいさつした。
 美術館が一人、アーティストが二人、圧倒的に人数が多いのは「顔あげ隊」という名の ボランティア・グループ だ。聞いていると、みんなの意見がバラバラで、ちっとも話がまとまらない。ムダに時間だけが過ぎてゆく。
 イライラして口をはさみたくなるのをグッとガマンする。ヤジウマはでしゃばっちゃいけない。
 三ヶ月たち四ヶ月たっても、なにも決まらない。
(こんなんじゃ、いつまでたっても浮かべられないじゃないか)
 ガマンできなくなって、口を開いた。
「みんなの意見を拾いあげたいっていう気持ちはわかる。だけどオレたちはボランティアなんだ。こうしてほしいって言えばそれを手伝う。もっとリーダーがしっかりしてくれなきゃ、時間ばっかりたって、前に進まない。」
 ちょっと感情的に、積もり積もったイラ立ちを一気に吐き出した。みんなの顔つき、空気が変わった。が、言ってからまだ未熟な自分を戒めた。
(オレはヤジウマじゃないか。ヤジウマは外から見てるだけにしなきゃいけない)
 次のミーティングからはヤジウマに徹し、発言するのをやめた。
 8月の予定が10月になり、12月になって、イライラは募っていった。
 心配をよそに、リーダーの頑張りはすごかった。すったもんだのバルーン業者との交渉を根気よく続け、67万個の大きさも色も微妙に違うドットの判を、ひたすら押し続ける徹夜作業の連続にも耐え、ようやく12月には浮かべられるまでこぎつけることができた。
 案内チラシもできあがり、広報活動をする顔あげ隊の出番も多くなる。新聞・ラジオ・テレビに積極的にはたらきかけ、みんなでおじさんの格好をして、オリオン通りをパレードしながら、チラシを配って歩いた。

  そして12月、宇都宮の空におじさんの顔が浮かんだ。上空の風速が4メートル以内という厳しい条件をクリアして、てっぺんの高さ60メートル、タテ15メートル・ヨコ10メートルのバルーンに、白黒のドットで描かれたおじさんの顔が空を舞った。
 あとから参加した気球に詳しいおじさんが、「奇跡だ!」声を震わせて叫んだ。
 オレは「顔カフェ」チームとして参加する。人が一番集まる場所にテントを張って、和紙で作ったシェードに電球が光る「顔電球」と名づけた帽子をかぶり、来場者にコーヒー・茶菓子のサービスをした。
 モデルになったおじさんも来てくれて、観客とのツー・ショット写真やメディアの取材に、ひっぱりだこになっていた。
 オレも生まれてはじめて新聞社から取材を受ける。一生懸命メモを取っていたが、どんな記事になったか確認はしていない。
 夜はバルーンの中に組み込まれた発光ダイオード(LED)が光り、お月さまのように浮かびあがった。 

 顔あげ隊の中には一年半に渡る活動中にやめていった人もたくさんいる。最後まで残った人は空に浮かぶおじさんの顔を見上げて、(頑張ってきてよかった)みんなが思ったことだろう。
 このプロジェクトが終わったあとも「このメンバーでまたなにかやりたい」という話が持ち上がっている。



「弔辞を書く」 轡田 隆史

2015年08月08日 00時13分28秒 | 文章読本(作法)
 うまい!と言われる「文章の技術」 轡田 隆史 三笠書房 2001年

 そこで、弔辞である。書くにあたって、いくつかのことを己に課した。
 敬愛する先輩、懐かしき酒友の死の、衝撃と悲しみ、冥福を祈る気持ち、業績に対する顕彰・・・弔辞には欠かせない要素である。問題はしかし、それをどう表現するかである。
 まず思い定めたのは次の五点であった。

 ①悲しい、というような形容詞は一切使わない。
 ②識見に優れ、人格円満、というような紋切り型の常套語を一切使わない。
 ③体験を具体的に客観的に描くことを通して、その人柄、識見の高さを浮き彫りにする。
 ④ユーモアを織り込む。
 ⑤話し言葉に近い、平易な表現をとる。

 なぜこの五点かといえば、
 ①は、悲しいことにきまっているからである。「悲しい」とか「つらい」と書いた瞬間、ほんとうの悲しさやつらさは、心の中から抜け落ちてしまう。
 「悲しさ」は「悲しい」と書いただけでは、心から心へと伝わってゆかない。
 ②は、紋切り型の常套語は、何かを言っているようでいて、実は何も伝えていないのである。
 「人格円満でした」と言ったところで、何がわかるというのだろう。むしろ逆の効果すら生み出しかねない。
 「小林さんは人格円満、識見優れた人でした」と、わたしが言ったとしてみよう。そんなふうな言葉で表現できる程度の人間、ということになってしまいそうだ。第一、本人に失礼である。使い古された言葉は、言葉の力が摩滅している。
 ③は、①②を守れば、どうしたってとおらなければならなくなる道である。
 事実を客観的、具体的に表現することによって、「悲しみ」の感情を浮き彫りにせよ。事実をして語らしめよ。
 ただし、言うはやすく、おこなうは難い。だから人は、①②の語を乱発するのだろう。
 ④も、実に難しい。悲しい告別式の弔辞で悲しい話をして何になろう。ユーモアこそ、実は「悲しみ」を深く表現し得る手段なのではあるまいか。
 ⑤は言うまでもないことだろう。身振りの大きな難しい言葉を乱発するば、しらじらしく響くだけ。滑稽な姿にすら映りかねない。(P-158)

「鴻毛より軽し」 その2 杉本 苑子 

2015年08月06日 01時25分00秒 | エッセイ(模範)
 「日本語のこころ」 2000年版ベスト・エッセイ集  日本エッセイスト・クラブ編 

 「鴻毛より軽し」 その2 杉本 苑子 

 映画では荊軻が失敗し誅されたと知ったあと、ラストシーンで高漸離が「風、蕭々」の詩を高く唱するが、彼の真骨頂はむしろその後に発揮される。亡き友の志を継ぐべく、高漸離は始皇帝に近づくのである。
 皇帝は高の意図を察知するが、筑の弾奏者としての技倆を惜しみ、両眼を煙でいぶして失明させ、側近く召し使う。高漸離もおとなしく皇帝に仕え、私室で、あるいは宴席で、求められるまま筑を弾じた。こうして、すっかり始皇帝が気を許し、油断しきるまで待って、高漸離はその声めがけて力の限り筑を投げつける。あらかじめ筑の胴には鉛を流し込み、重くしてあったから、顔面に命中すればまちがいなく、致命傷を負わせることができたはずなのだ。しかし的ははずれ、高漸離はその場で誅殺される。盲目ゆえの悲劇であった。

 中略

 (ともあれ)荊軻にしろ、樊於期や高漸離にしろが、いったい何のために一片の報酬すら求めず、一つしかない命を捨てたのか。
 表面的に見れば、まもなく秦に滅ぼされてしまう燕の国の、太子丹のために死んだことになる。しかし丹は、乱世の風雲を疾駆できる資質ではない。毀誉褒貶はあるにせよ始皇帝のほうが、はるかにスケール壮大な巨人であった。丹のごとき二流の人物に、三人の好漢がむざむざ命を捧げたとは思えない。

 中略

 荊軻や樊於期、高漸離らの耳の底にも、まい進しつつある秦の轍の下に、燕をはじめ押しつぶされてゆく弱小国の悲泣が、凩(こがらし)さながら鳴りどよもしていたはずである。しかしそれだけのことで個としての彼らが、乱世の風塵に呑み込まれてしまったとは思えない。むしろ風塵と対峙し、結果の空しさを承知しながらその風圧に抗して死ぬことで、個の存在を燦然と、歴史の中に封印しようとしたのではあるまいか。
(略)
 「人の命は地球より重い」という。その意味する内容の、真実の「重み」とはうらはらに、唄うように軽く、無造作に、この言葉が飛び交う現代だが、少し前には「命は鴻毛より軽し」という言葉もあったのだ。自身の一命を羽毛よりも軽しと観じ切って、敢然と捨てる意志力こそ重い。男でなくては持ちえぬこの強靭さの、まばゆい光彩に女はこがれる。そして、そのような男たちが、スクリーンの上でしか存在しなくなった現実に、絶望するのである。
                                 (「オール読物」99年二月号)