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「弔辞を書く」 轡田 隆史

2015年08月08日 00時13分28秒 | 文章読本(作法)
 うまい!と言われる「文章の技術」 轡田 隆史 三笠書房 2001年

 そこで、弔辞である。書くにあたって、いくつかのことを己に課した。
 敬愛する先輩、懐かしき酒友の死の、衝撃と悲しみ、冥福を祈る気持ち、業績に対する顕彰・・・弔辞には欠かせない要素である。問題はしかし、それをどう表現するかである。
 まず思い定めたのは次の五点であった。

 ①悲しい、というような形容詞は一切使わない。
 ②識見に優れ、人格円満、というような紋切り型の常套語を一切使わない。
 ③体験を具体的に客観的に描くことを通して、その人柄、識見の高さを浮き彫りにする。
 ④ユーモアを織り込む。
 ⑤話し言葉に近い、平易な表現をとる。

 なぜこの五点かといえば、
 ①は、悲しいことにきまっているからである。「悲しい」とか「つらい」と書いた瞬間、ほんとうの悲しさやつらさは、心の中から抜け落ちてしまう。
 「悲しさ」は「悲しい」と書いただけでは、心から心へと伝わってゆかない。
 ②は、紋切り型の常套語は、何かを言っているようでいて、実は何も伝えていないのである。
 「人格円満でした」と言ったところで、何がわかるというのだろう。むしろ逆の効果すら生み出しかねない。
 「小林さんは人格円満、識見優れた人でした」と、わたしが言ったとしてみよう。そんなふうな言葉で表現できる程度の人間、ということになってしまいそうだ。第一、本人に失礼である。使い古された言葉は、言葉の力が摩滅している。
 ③は、①②を守れば、どうしたってとおらなければならなくなる道である。
 事実を客観的、具体的に表現することによって、「悲しみ」の感情を浮き彫りにせよ。事実をして語らしめよ。
 ただし、言うはやすく、おこなうは難い。だから人は、①②の語を乱発するのだろう。
 ④も、実に難しい。悲しい告別式の弔辞で悲しい話をして何になろう。ユーモアこそ、実は「悲しみ」を深く表現し得る手段なのではあるまいか。
 ⑤は言うまでもないことだろう。身振りの大きな難しい言葉を乱発するば、しらじらしく響くだけ。滑稽な姿にすら映りかねない。(P-158)