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「鴻毛より軽し」 その2 杉本 苑子 

2015年08月06日 01時25分00秒 | エッセイ(模範)
 「日本語のこころ」 2000年版ベスト・エッセイ集  日本エッセイスト・クラブ編 

 「鴻毛より軽し」 その2 杉本 苑子 

 映画では荊軻が失敗し誅されたと知ったあと、ラストシーンで高漸離が「風、蕭々」の詩を高く唱するが、彼の真骨頂はむしろその後に発揮される。亡き友の志を継ぐべく、高漸離は始皇帝に近づくのである。
 皇帝は高の意図を察知するが、筑の弾奏者としての技倆を惜しみ、両眼を煙でいぶして失明させ、側近く召し使う。高漸離もおとなしく皇帝に仕え、私室で、あるいは宴席で、求められるまま筑を弾じた。こうして、すっかり始皇帝が気を許し、油断しきるまで待って、高漸離はその声めがけて力の限り筑を投げつける。あらかじめ筑の胴には鉛を流し込み、重くしてあったから、顔面に命中すればまちがいなく、致命傷を負わせることができたはずなのだ。しかし的ははずれ、高漸離はその場で誅殺される。盲目ゆえの悲劇であった。

 中略

 (ともあれ)荊軻にしろ、樊於期や高漸離にしろが、いったい何のために一片の報酬すら求めず、一つしかない命を捨てたのか。
 表面的に見れば、まもなく秦に滅ぼされてしまう燕の国の、太子丹のために死んだことになる。しかし丹は、乱世の風雲を疾駆できる資質ではない。毀誉褒貶はあるにせよ始皇帝のほうが、はるかにスケール壮大な巨人であった。丹のごとき二流の人物に、三人の好漢がむざむざ命を捧げたとは思えない。

 中略

 荊軻や樊於期、高漸離らの耳の底にも、まい進しつつある秦の轍の下に、燕をはじめ押しつぶされてゆく弱小国の悲泣が、凩(こがらし)さながら鳴りどよもしていたはずである。しかしそれだけのことで個としての彼らが、乱世の風塵に呑み込まれてしまったとは思えない。むしろ風塵と対峙し、結果の空しさを承知しながらその風圧に抗して死ぬことで、個の存在を燦然と、歴史の中に封印しようとしたのではあるまいか。
(略)
 「人の命は地球より重い」という。その意味する内容の、真実の「重み」とはうらはらに、唄うように軽く、無造作に、この言葉が飛び交う現代だが、少し前には「命は鴻毛より軽し」という言葉もあったのだ。自身の一命を羽毛よりも軽しと観じ切って、敢然と捨てる意志力こそ重い。男でなくては持ちえぬこの強靭さの、まばゆい光彩に女はこがれる。そして、そのような男たちが、スクリーンの上でしか存在しなくなった現実に、絶望するのである。
                                 (「オール読物」99年二月号)