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「コラム道」 その4 小田嶋 隆 

2015年08月30日 00時13分23秒 | 文章読本(作法)
 「コラム道」 その4 小田嶋 隆  ミシマ社 2012年

 会話を得意とする人々は、アドリブだけでたいていの難所をくぐりぬけることができる人々だ。彼らは、対面で話している限り、その場の思いつきや反射神経で、ほとんどの相手をねじふせることができる。あるいは感心させたり、笑わせたりしながら、どう料理するにしろ、最終的には、他人を思い通りに操っていまう。
 彼らはテニスプレーヤーに似ている。
 速いサーブに対応する反射神経と、意想外のドロップショットに追いつくスピードを持った彼らは、会話という限られたコートの中では、どんなタマでも打ち返すことができる。
 でも、文章は、テニスや卓球みたいな短兵急な勝負ではない。来たボールを打ち返す能力だけで運営できるものではない。。
 一箇の文章を完成に導くために必要な資質は、スピードや瞬発力やイマジネーションよりも、ずっと地味な能力、たとえば、自らの論理矛盾をチェックする注意力であるとか、推敲を繰り返す根気だとか、あらかた書き上がっている原稿を一から書き直す胆力みたいな、どうにも辛気くさいタイプの何かだったりする。
 もちろん語彙は多い方が良いし、イマジネーションだって豊かであるに越したことはない。言語能力もあった方が良い。でも、それらは決定的な要素ではない。まっとうな文章(←良い文章、面白い文章とは言っていない)を書くための条件は、あくまでも、根気。そう、皆さんの大嫌いな言葉だ。
 根気。
 戦後民主主義教育がどん百姓の資質として冷笑してきた属性であり、渋谷区や港区内に事務所を構えるアート系のオフィスでは、決して「才能」と呼ばれることのない資質だ。
 ……困った。
 根気が大切だよみたいなタイプの説教だけはしたくなかったのだが、気がついたら、オレはモロに根気をプッシュしている。
 読む方はたまったものじゃないと思う。
 根気が一番みたいな、そういう話に触れたくてこのテキストを読んでいる人はそんなにいないはずだ。
 というよりも、根気仕事だとか泥んこ業務だとか、あるいは裏方作業だったり縁の下ビジネスだったり、そういうじめじめしたあれこれがキライだからこそ、ある一群の人々はライターを目指したりするものなのだ。そういうものなのだよ。わかっている。オレもそうだった。根気とかコツコツとか、そういうのは大嫌いだった。今でも本当のことを言えばキライだ。
 で、そのオレが若い人たちに向けて、根気を説いている。
 本当に人というのは、風上に立つと平気で嘘を言うようになるのだな。
 うん。
 撤回する。
 オレは意地悪を言っていた。
 文章を書くのに根気が必要なのは一面の事実だが、なあに一面の事実に過ぎない。
 見方を変えれば良いのだ。
 私自身、文章を書くためのこまごまとした作業や、コラムを仕上げるための根気仕事をツラいとは思っていない。
 つまり、ここでいう「根気」は、「イヤな事に耐える能力」ではない、ということだ。
 逆だ。
 むしろ、「石積み仕事を好きになる能力」ないしは、「他人には面倒に見える作業を嬉々としてこなすための心構え」といったようなあれこれが、人をして、コラムニストたらしめるのである。
 つまり、プロのライターたちは、どうして文章みたいなものに対して根気良く取り組むことができているのかということに目を向けてみると、風向きはずいぶん違ってくるわけで、親切な先輩は、こういうことを書かなければいけない。