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「本居宣長」 はじめに その1 吉田 悦之

2016年03月25日 00時18分54秒 | 古典
 「日本人のこころの言葉 本居宣長」 吉田 悦之(本居宣長記念館館長) 創元社 2015年

 はじめに その1

 本居宣長という名前から、みなさんは何を連想されるでしょうか。
 たとえば、『古事記』や『源氏物語』などの日本古典を研究した国学者だとか、「敷島の大和心(やまとごころ)」の歌を思い出されるかもしれません。
 しかし、まずその先入観を取り払ってください。自分の目で見て、考えること。これが宣長のスタンスです。その結果が、『古事記伝』をはじめとするたくさんの学問業績なのです。当たり前だとか、わかり切ったことだという予断を捨てて世界を見ると、きっと景色は一変するはずです。世界は不思議に満ちています。
 宣長は不思議だという疑問と驚きの目を、生涯持ち続けた人です。
 子どもの頃はだれでも、何にでも興味を持ち、好奇の目を見開きますが、大人はそうやすやすとは驚きません。しかしそんな人でも、宣長の人生をたどってみると、きっと驚くはずです。なぜこんなにタイミングよく事が運ぶのだろうと。
 学問の道を模索していたときに、契沖(けいちゅう)の本を貸してくれた人がいる。「和歌」について考えあぐねていたら、「物のあわれ」とは何だという適切な問いかけがある。『古事記』研究を志したときには賀茂真淵(かものまぶち)との出会いがあり、そろそろ『古事記伝』の出版をと思ったら、「私がお手伝いします」と門人の横井千秋が名乗りを上げます。
 なすべき仕事を一通り終え、葬儀の準備を自らととのえて、静かに終焉を迎える。必要なときに、最良のものがあらわれる。まるで計算されつくしたような生涯です。
 なぜこんなにうまくいったのか。その謎を解く鍵を、宣長の残した言葉に探るのが本書の目的です。
 宣長の言葉は、地味です。当たり前のことしか語っていません。師の賀茂真淵とは対照的です。たとえば師は、自説を述べた宣長に、「一書は二十年の学にあらではよくしらるる物にあらず」と叱りとばします。若造が偉そうな口をきくなということですが、力のこもった、かっこいい言葉です。また宣長の長歌を評して、「意味は通っているがどうも面白くない。地面を歩いているような感じだ。長歌をいうのは天翔(あまかけ)るような心の高揚感が必要なのだ」と言います。

 (作者 注意書き)原文は原則として新字体・現代かなづかいに改め、読みやすくするために、適宜、ふりがなや句読点をつけるとともに、かなを漢字にするなどの調整をしました。和歌・俳句は、旧かなづかいのままとし、ふりがな、濁点をつけました。